三つ
「京さん・・・
私、あの川行きたい」
京之介に後ろから抱き締められたままおハルは小さく言った。
そして首だけ後ろに半分捻り、京之介を伺う。
京之介もぎゅっとしていた腕の力を緩め、後ろからそのおハルの顔を覗き込んだ。
「川?ってぇと・・・
那珂ノ川のことか?随分前に話した」
おハルから視線を外し、夕刻前の空模様を見上げ記憶を辿る京之介からの問いに、
おハルはこくりと頷く。
「はぃ。
京さんが見つけた綺麗な場所。
私、この目で見ておきたいんです」
「見ておきたいって、なんでぇ、塩らしい言い方してっ。
おっし、いつでも見れるし連れてってやるよ!
じゃあよ、早速くじら屋の旦那と話付けてくっからよっ」
ははっ!と笑い飛ばし、今にもくじら屋の旦那の元へ飛んで行きそうな京之介の袖をおハルはさっと掴んだ。
「京さん、まだあります。
行きたい所とかやりたいこと・・・」
「あぁ、そうだったか!
おハル、この際だから全部言ってみなっ」
「海・・・
海も見てみたい。
それから、、、」
「それから?」
その先の言葉が気になって仕方がない京之介は、
すかさずおハルの言葉を尻上がりに反復する。
「一度で良いから、、、
氷菓を食べてみたいです」
とても贅沢なことを言っているのはわかっている。
ただ、こんな希望を口にするなんて、
京之介の前ででしか出来ないこともおハルはわかっていた。
京之介とたわいも無い話をするうち、彼の優しい大きな心に彼女自身、
本心全てを打ち上げてみたくなったのだ。
なのに、それなのに、
少し驚いた表情の京之介を見て、
とたんにおハルの心には小さな痛みが走った。
(やっぱり言い過ぎましたね、私・・・
しかも 一気に三つもなんて)
おハルの心は
本心の全てを伝えられた安堵感と罪悪感がごちゃ混ぜになった。
そして、視線を下に落とす。
それを知ってか知らずか京之介は
おハルをぎゅっとしていた腕を解き、
今度は正面からおハルの両腕をガシッと掴んだ。
表情は満面の笑みだ。
「えらいぞ、おハル。
そうこなくっちゃな!こっから俺の腕の見せ所でぃ。
善は急げだっ、旦那んとこ行ってくらぁ!」
そう言うと京之介は、
くじら屋の裏庭から裏戸へ飛び込みあっという間に姿を消した。
こんなに一気に自分の気持ちを伝えたことのなかったおハルの心の臓は
音を立てて早まる。
(これで良かったのでしょうか・・・)
故郷の上方で暮らす母と二人の兄の顔が脳裏をよぎる。
父はおハルがまだ幼い頃に亡くなった。
そして僅かな記憶ではあるが、
確かにいたはずの同じ年頃の姉妹の記憶も蘇る。
ここ江戸に来てからこんなことは初めてだ。
おハルは戸惑いを隠せなかった。
伝えた願いが全て叶うとは思っていない。
正直、無理に叶えて欲しいとも思わない。
ただ、今までのおハルの性格では言えなかったことを
京之介だけにでも言えたことは大きかった。
それはおハルにとって、自分を変える大きな賭けだったのかもしれない。
そんな京之介は目を輝かせ、えらいぞと褒めてくれた。
そこで、もし彼に「そんなのは無理だぁ」と言われていたら・・・?
例えそう言われても、今まで通り何も変わらなかっただろう。
これからもそうだ。
お互い正直に生きたい。
おハルには、京之介がどうしてここまで良くしてくれるのかわからなくなる時もあった。
けど、もし逆の立場になれば自分も京之介と同じことをするだろう。
まだ年若いおハルだから故、心は揺れ動いた。
ただ、おハルは揺るがぬひとつの事実を持っていた。
京之介という存在。
これからおハルが歩む人生においてその存在は、
彼以外誰もその代わりは出来ぬのだ。
大切な人。
だからこそ、おハルは心の内を晒したのだろう。
彼女は京之介に
ありのままの自分を知ってもらいたかったのだ。
おハルは静かに瞳を閉じ大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。




