結晶
相変わらず早朝のくじら屋に顔を出し続ける京之介。
ある朝、ふとあることに気付いた。
せっせと店開きの準備をするおハルの手を突然掴んだ京之介はいきなり絶叫した。
「おハル、指先がぱっくり割れてんじゃねぇかっ!」
おハルの指先を自分の目前に持ってきた京之介は、その部分を凝視し、
この世の終わりだというような悲しい眼差しをそこに向けている。
掴まれたおハルがその手に持っていたはずのするめイカが足元に落ちていた。
京之介と出逢い、こんなことは日常茶飯事になっている。
そんな昨今にすっかり慣れたおハルは、そっとするめイカを拾い上げると
京之介のいつも変わらぬ優しさに心を温め、優しく京之介に言った。
「京さん、商売人はみんなこうですよ。
こんな季節でも水は使いますし、
それを止めてしまえば、お客様に出す品は出来ませんから」
そう言うとおハルは空を見上げた。
季節は巡って冬本番。
昨夜から江戸には雪が降り注ぎ続けている。
「それはそうだが、おハルまでそうなんなくたってよぉ...」
そんなことはわかってはいる。
ただ、ささくれだってはいるが何ともない自分の分厚い指先と
おハルの白く細い指先を見比べ、そのぱっくり開いた赤い傷口が
不憫に思えてならない京之介は泣きそうな声で呟いた。
「大丈夫ですよ、京さん。
だんだん手の皮も厚くなって丈夫になっていきますから。
そのうち、面の皮まで厚くなったりして?」
おハルは京之介の心配を解こうと冗談まじりの笑顔を向けた。
早朝の寒気で鼻の頭が赤くなっている。
(べ、べっぴんだ...今日も)
笑顔を向けられた京之介は慌てて腕を組んだ。
おハルを抱き締めたい衝動を自制したのだ。
「う~~~~ん... ん?」
腕を組むと同時に、店先で空を見上げていた京之介。
昨夜から比べると、空から注ぎ続ける雪の量は増え続けている。
自分の袖に落ちた雪を見てふとこんなことを言い出した。
「おハル、今日は随分気温が低いぜ。
これ、雪の結晶がよーく見えやがる。
他の指先も割れねぇように、気をつけるん...」
「なにこれ...」
おハルは京之介の話を最後まで聞かず、彼の袖に駆け寄った。
そこに落ちる雪を凝視している。
「な、何って、雪の結晶...だよ」
自分の自制を抑え込んだ代わりに、おハルに袖を掴まれる形になった京之介は
どぎまぎして答えた。
「きれい...」
きれい、と言うおハルの横顔の方がよっぽど綺麗だと思った京之介だが
説明を続けた。
「まぁ、普段はこんなにまじまじと見ねぇし、結晶が束になって落ちてくるから
気付かないよなぁ。大体は俺らが見る頃には落ちた結晶は溶けちまってるだろうし。
もっと北の方なら珍しくもないんだろうが、
ここ江戸でこんなにはっきり見られるのは珍しいな」
「私、そんな話は聞いたことあったけど...
本当にこの目で見たのは今が初めて...
きれい...」
おハルのその純粋に綺麗と喜ぶ姿に再び抱き付きそうになった京之介だが
なんとか腕組みを維持し自制した。しかし、抑えきれない気持ちが言葉に出る。
「かわいいな...おハル」
「えっ?」
京之介の袖に降り注ぐ雪の結晶をまじまじと観察し、
一粒一粒に感嘆の声を漏らしていたおハルは
初めて京之介の目と視線を合わせた。
いつもの優しい京之介の眼差しは更に柔らかなものになっている。
「私の顔が...ですか...?」
おハルの質問も自分で聞くにはなんだか変だ。
そんな質問を受けた京之介もすぐに答えず、おハルを見つめている。
そして、考える表情をして少しの間の後、
「全部だな。おハルの全部がかわいい」
と言った。
後半の言葉は空を見上げて言ったものだから、その表情ははっきり見えない。
それを聞いてはっとしたおハルは、その横顔を見つめる。
急に鼓動が速くなるのを感じ、その見つめる横顔がおハルに向けられそうになると
今度はおハルは俯いてしまった。
「ありがと、京さん」
おハルは言い終わるとやっと顔を上げ、京之介の目を見つめ微笑んだ。
京之介も、うんうん頷きながら微笑む。
そして、もうしばらく二人は黙ったまま、
京之介の袖に次から次へと落ちる形の違う雪の結晶たちを見つめていた。




