本名
「おフクさん、俺、おユキちゃんにお礼したいんです」
「お礼って、一体、何のお礼だい?」
「賄い飯の...毎日持って来てくれるから...」
それを作っているのはおフクだが、この若者の感謝する気持ちを
大切にしたいと思ったおフクはにっこりと微笑んで見つめる。
「俺、お礼に何をしたら良いのかわかんないんす。
おフクさんなら女子の気持ち、わかると思って...」
「そうだねぇ...
私なら、その今の平吉の気持ちをおユキにそのまま伝えたらいいと思うけどねぇ」
優しく微笑んだまま、おフクは言った。
「えっ、これをですか?
・・・そうですか。
やっぱ、女子の気持ち、俺にはわからないな...」
(ふふっ。男は女心がわからず、女は男心がわからない、か...)
おフクは若かりし頃の自分と平吉を重ねる。
「みんなそんなもんだよぉ。
言えることは、おユキの前でも、そのままの平吉でいることさぁ」
「それだけでいいとは...
難しく考え過ぎてたのかな...俺は...
おフクさん、なんだか安心しました」
それを聞き終え、終始にっこり笑顔のおフクは、店の入り口に目をやり言う。
「そろそろ、帰ってくる頃合いかねぇ」
平吉もおフクの視線の先に顔を向ける。
「戻りましっ・・・ たぁ」
帰路の途中から小走りで戻って来たおユキは、勢い良く店先の暖簾を潜ったものの
既におフクと平吉の二人の視線がこちらを向いていたことにたじろぐ。
はぁはぁと小さく息をしながら、言葉が尻つぼみになりつつ、
二人に向かって小首を傾げた。
「お帰り、おユキ。急な遣い、悪かったねぇ。
さぁ、賄いにしようか。今日は私が用意するから
手を洗って、口をすすいだら、卓上を拭いておくれぇ。
平吉は暖簾を外してから、卓に付くんだよぉ」
平吉は目を丸くして、自分の顔を指差す。
さっきの話もあり、
今日は長屋に帰ってゆっくり考えようと思っていた矢先だったのである。
まさか、賄い飯を三人で食べるとは予想していなかった。
「なぁに、ボケっと突っ立ってんだよぉ。
頼んだよ、平吉っ」
すっかりおフクのペースに乗せられた平吉をくすりと笑うおユキは
今日もみんなで食卓を囲めることが嬉しかった。
それから三人は和やかに賄いを済ませ、
おユキは皿の片付けと夕刻に向けた仕込みの手伝いに台所に入って行く。
平吉は少しは気が効くようになったのか、一度引っ込めた暖簾を出しに行こうとした。
それを見たおフクが声をかける。
「平吉、それはまだ出さなくて大丈夫だよぉ。
さっきの話、覚えているかい?
素直な気持ちを伝えること。
さっ、さっきの卓で待ってなぁ」
それだけ言い残すと、おフクも奥の台所に消えた。
そして、言われるがまま、平吉が卓の前で胡坐をかいて待っていると
おユキだけが盆を両手に載せ、やって来たのだった。
盆の上には、お幸やの葛もち。
それを見た平吉の胸に一瞬痛みのようなものが走り、それを卓に並べるおユキの顔を
瞬時覗いたが、おユキは何も気にしていない様子だ。
その葛もちは、二つの器に盛られ、見るからに二人分だった。
あれは気のせいだったのだろうか?と、ふとそう思えた平吉は
気を取り直し尋ねる。
「おフクさんは?」
「はぃ...おフクさん、仕込み前にやることがあるとかで
葛もちは二人で先に食べときなって。
忙しいのなら、私に言いつけてくれればいいのに...あっ、すみません。
せっかくですから、食べましょっ」
何も言わなければ、自ら手を出しそうにない平吉をおユキは葛もちへと促す。
「えぇ...」
そんな平吉の想う真相は、おユキにどう感謝を伝えるかで頭がいっぱいだった。
そのままで良い、と言われても、そのままの平吉だと沈黙になってしまう。
一見、落ち着きはらっているように見える平吉だが、
両手には変な汗をかき始めていた。
早速、葛もちの一つを口に運んだおユキ。
「おいしっ」
器に目を落としたまま、満面の笑みでモグモグ口を動かしている。
今、その顔で見つめられなくて良かったと心から思った平吉ではあるが
同じく一つをパクリ。
「うまぃっ」
知ってはいたものの、
お幸やの葛もちは、やっぱり言葉に出てしまう程の美味なのだ。
このまま顔を上げ、おユキと目が合うことが怖かった平吉は俯いたまま続ける。
「おユキちゃん、いつもありがとうございます」
はっと顔を上げたおユキの気配が伝わってくる。
平吉は男らしく伝えなきゃと揺らぐ心を決し、顔を上げる。
するとそこには小首を傾げたおユキの顔があった。
予想外のおユキの反応に動揺した平吉だったが、
自分が口にした言葉を振り返り、そうかと合点がいく。
「賄い飯、運んでくれて」
脈絡のない言葉だと、平吉は改めて恥じる。
しかしおユキも合点がいったのか、傾げていた首を戻し、満面の笑みを向け言った。
「どういたしまして」
それを聞いた平吉は一仕事終えた感覚を覚え、
胸がいっぱいになり、彼の胃袋は急速に満腹になった。
葛もちを口に運ぶことが出来ない程の満足感に浸った平吉は、
葛もちを刺して口に運ぶ小さな棒を皿に置き
少し落ち着いた心持ちでおユキの目を見、続けた。
「俺、おユキちゃんにお礼したかったんですが、何をして良いのかわかならくて...
言葉でしかお礼出来ない男ですけど、
いつもおフクちゃんとおユキちゃんには感謝してます。
あっ、これ...葛もちまでご馳走になってるし...すみません」
そう言いながらまた俯いてしまった平吉は、もう顔が上げられない心持ちだった。
おユキが何か言葉を返してくれたらそうなっていたのかもしれない。
しかし、平吉の言葉の後には、おユキの言葉が続かなかった。
沈黙が続く。
これはまずい、と気持ちを奮い立たせ、顔をゆっくり上げていく平吉。
上目遣いながらおユキの表情が見えた時、平吉ははっとした。
そこには、瞳いっぱいに涙を溜めて微笑んでるおユキがいた。
平吉は一瞬ドキリとする。
何か悪いことでも言ってしまったのかと...
しかし、とても長く感じた沈黙後に聞いたおユキからの言葉はそうではなかった。
「平吉さん...
とても...嬉しいです。
私、当たり前のことをしていただけなのに、
そんなに感謝されてるとは知らなくて...。
実は、いつも平吉さん、そっけなかったから本当は迷惑なんじゃないかって
思ったりもしてて。平吉さんには、
私が賄いを運ばなくてもご飯を作ってくれる想い人もいるようでしたから...」
そう言い終わるや否や、
おユキはあっと声にならない悲鳴を上げ、青褪め始める。
「えっ?
・・・俺に?」
「申し訳ございませんっ!私、長屋の外から盗み聞きをしてしまって...
その時、先客様がいらっしゃったようで、
私、私・・・本当に申し訳ありませんでした!」
おユキの最後の方の言葉は震えていた。
それを聞いた平吉は、あの日、長屋の戸の前に置き去りにされた葛もちの存在に
今になって、やっと合点がいった。
ふぅ~~~っと深呼吸の長い息を吐き、胡坐のまま、後ろに背を反り両手をつく。
そして、口元に微笑みを残し、静かな声で言った。
「そういうことだったんですね」
「申し訳ございません!」
相変わらず、体ひとつ後ろに下がり、畳に額をつけたまま詫びるおユキ。
「いや、違うんですよ。違うというか...うん?俺のせいか...
俺、話下手なんで。
とにかく、おユキちゃんは完全に勘違いしてますね」
「へっ?」
なんとも間抜けな声を出すおユキ。
本人はそれに気付いていない。
「それは勘違いです」
平吉はもう一度、いつもの静かな声で繰り返した。
「じゃ、ご飯を作ってくれる人っていうのは...」
「いません。
これ、こんな胸を張って言うことじゃないのですが...」
ふっと小さく笑った平吉は言った。
今は、しっかりおユキの目を見、困ったような照れるような眼差しを向けている。
「そうなんですか...」
それを聞いたおユキは全身から力が抜けたのか、正座をしていた足が崩れ
なんとか片手で体を支えている様子だ。
顔は完全に呆けている。
「それとですね...
おユキちゃん、俺のこと、平吉って呼んでくれてますが、
あっ、おフクさんや仲間なんかは、平助とか平太郎とか呼ぶんですけど、
俺の本当の名前は、「せっぺい」といいます。
責任の「責」に、平和の「平」。それで「せっぺい」。
ややこしいですよね。でも、みんな呼びやすいように俺のこと呼んでくれていいんで
今まで指摘したこともないし、今後もするつもりもありません。
だけど、おユキちゃんには今、ちゃんと伝えておきます」
一気にそう言い終えると責平は、はにかんでぺこりと頭を下げた。
「へ?...ぇ...」
それを聞いて、見て、更に間抜けな声を出したおユキ。
今度はぺちゃりと尻もちをつき、完全に崩れた足を横に投げ捨てたまま、
脱力した体を両手で必死に支えているのだった。




