おユキ
「おユキー、
これ、平吉んところに持って行ってくれないかい?」
煮売り家「お福や」の女将、おフクが汗だくになりながら、おユキに盆を差し出す。
昼の繁盛時が去り、ホッと一息が付ける頃合いだった。
おユキは差し出された盆上を背伸びをして覗く。
今日は、甘辛く味付けした大豆の煮豆と魚のあら煮だ。
食欲をそそるその香りに誘われ、ついついおユキもそれらを凝視し唾を飲み込む。
「おユキの分もたんとあるから、そんな顔しないっ。
嫁入り前の可愛い娘を預かってるんだ。
私がろくなもん食べさせてないみたいじゃないかっ」
おフクがニッ笑った。
「ありがとうございます、おフクさん。
冷めないうちに、届けてきますね!」
昨年からおフクの店で奉公中のおユキは、
盆を両手で持ち、未だに危なげな足取りでトコトコと隣の長屋に消えた。
「あの子は本当に、、、向いてないねぇ。商いには」
おフクはおユキの消えた先を見つめ、ぽつりと言う。
その顔には落胆や期待外れを通り越した、そっと見守る優しい眼差しがあった。
「平吉さ~ん、入りますよ~」
おユキは戸を軽く一度トンっと叩いた。
お盆を支えているため、両手はふさがっている。
一瞬だけ片手だけを盆から外し叩いたのだ。
さすがに足で蹴るなんて出来ない。
見られた時のおフクさんの顔が浮かぶと、背がゾクッとした。
建てつけの悪い長屋の戸。
改めてその戸をよく見てみると、隙間から中の様子が見えるのでは?と
初めてそんな考えが浮かんだ。
そしておユキは左目は閉じ、
クワッと開けた右目を戸の隙間に近づけ、なんの反応もない中を覗いた。
そこには、
こちらに背を向け、あぐらをかいて座る一人の男性の後ろ姿が見える。
平吉だ。
動かない背をやけに丸めているが、手先だけは動かしている様子。
何かに没頭している時のいつもの彼の姿だった。
おユキはこのまま呼びかけても無駄だと諦め
念の為、もう一度家の中に入る旨を宣言して戸をゆっくり開けた。
(ごめんなさい、おフクさんっ。これで最後ですからっ)
おユキは罪悪感と共に心の中で謝った。
戸の隙間につま先を入れ、そのまま横へ引いたのだ。
(私、お嫁にいけないかな...)
そんな乙女心も捨てきれず、
返事もせず戸も開けてくれずに、未だ微動だにしない背中を
おユキは頬を膨らませ睨む。
平吉は一向に気付いていない様子。
おユキにふっといたずら心が働いた。
(こうなったら、そっと近づいて驚かしてみようかしら)
おユキは彼の背後からそっと近づきワッ!としたい衝動に駆られたが、
驚く前の彼の顔を一度拝んでからにしようと、
気付かれない程度に彼の横に少しだけ回った。
そして、そこでおユキが見たものとは...
( ...?!
平吉さん...)
おユキが見てハッとしたもの。
それは、平吉の整った横顔からでも見て取れる真剣な眼差しだった。
おユキは今までにない胸の鼓動を覚え、今度はその場から離れたい衝動にかられた。
本気で彼に気付かれることが怖くなり、
盆をそこのちゃぶ台に音も立てずに置き、
平吉の背中を見つめたままゆっくり後ずさる。
最後にトンッと戸を閉める音を立てた気がしたが、
その時、おユキの身体は平吉の長家から外に出ていたので、
もうそんなことはどうでも良かった。
「なにこれ...」
おユキは衣の合わせの上から胸をぎゅっと押さえ、
平吉の住む長屋の戸の前でそうつぶやいたまま、
しばらくその場に立ち尽くしていたのであった。