一人前
京之介の真剣な眼差しを、
おハルも時が止まったかのようにじっと見つめ返していた。
偽りの欠片も無い京之介の目に、次第におハルの心はほぐれていく。
逸らすことの出来ない京之介のその眼差しへ、おハルは再び語り始めた。
「私には、心に留めたお方がいます。
京さんもご存知だったのですね」
金箔の揺れる葛もちにすっと目を落とした京之介を
おハルは柔らかな眼差しで待った。
こんなに優しく危うい目のおハルを見た者は、この江戸中探してもいないだろう。
怯えるような目を向けた京之介を見つめ、おハルは続けた。
「私にとって、とても...とても大切な人です。
優しくて、男らしくて、いつも私のここにいます」
と、おハルは衣の合わせ目に両手を重ね置いた。
一瞬、苦しい顔になる。
「今ここで京さんに、そのお方について申し上げる訳にはいかないのです」
ひとときの沈黙の後、おハルは続ける。
「私は昔、自分の身の回りのことすら何も出来ない娘でした。
世間で言う箱入り娘です。私はそれが当たり前だと思っておりました。
今思えば、お恥ずかしい限りです。
しかし、歳を重ねるうち何かが違うと気付きました。
そして、自分を変えたく上方を飛び出したのです。
その先がこの江戸でした。
上方の身内には勘当されております。
私は身寄りの無い、一奉公人です。
くじら屋の旦那さまや奥さまは、私を見捨てずに遣ってくれています。
私は立派な奉公人になって、旦那さまや奥さまに恩返しをするのが夢なんです。
見捨てずに遣ってくれた...。
それまでは、私は色恋事はいたしません。
だって、私はのろまだし、いっぺんに二つも大事なことは出来ませんから...」
どのくらいの時が経ったのだろう。
暮れ六ツ(日没)にはまだ日は高かった。
ふたりの時間は、止まったかのようだ。
目の前の葛もちの上で揺れていた金箔も止まったかのように
時間が流れていく。
おハルの告白を聞いた京之介は、
暫くじっと目を閉じ何かを考え込んでいる様子だったが、
やがてそれに納得したかのように大きく頷くと、目を開けて話し始めた。
「なるほど、おハルの気持ちはよくわかった。
くじら屋に恩義を感じ、尽くそうという気持ち、あっぱれだよ。
そこまで言うなら、俺も無茶はいわねぇ。
おハルがやりたいように満足できるまで恩返しすりゃあいいさ。
俺は、そんな一生懸命に生きているおハルが大好きだ。
おハルが成長してゆく姿を見るのが生き甲斐になっちまってる。
だからよ、迷惑かもしれねぇけど、俺ぁやっぱりおハルのそばにいる。
色恋だなんて言わねぇ。
俺を思ってくれなんて言わねぇ。
ただ、困った時に力になってやりてぇし、
俺も同心の仕事で辛ぇ時もあるからよ、おハルの笑顔から元気を貰いてぇんだ。
そして、何年、いや、何十年先になるかわからねぇが、
おハルが一人前になって、恩返しができた、って納得できるようになったら、
もう一度、思いを告白させてくんねぇか?
俺をおハルの心に入れてくんねぇか?
俺ぁ、それまで待ってるからよう。
俺ぁ、おハルじゃなきゃ、駄目なんだよ」
「京さん...
はい」
おハルはにっこりと微笑み、力強く返事をした。
瞳はいっぱいの涙で揺れていたが、流さない。
あかんたれな所もあるが、意外に強い娘だ、と京之介は思った。
「京さん、ありがとうございます。
京さんに笑われぬよう、
くじら屋の旦那さまが天狗になるくらいの立派な奉公人になります。
京さんも、気が済むまで私のそばにいてくださいね」
おハルが今度はいたずらっぽく笑う。
どきりとした京之介は、こんな小娘に・・・と苦笑いで赤らんだが、
向こう側では一層にこにこ顔になる。
京之介は勝ち目の無いこのいたちごっこを諦め、ふうっと息を吐いた。
「京さん、私、なんだか元気が出てきました。
一緒に葛もち食べましょ」
と、おハルはさっさと一つ目に取り掛かっている。
ついさっきまで涙を浮かべていたと思ったら、これだ。
女ってのはわからん。京之介も一つ目を口に放り込む。
「うまいっ」
さすがお幸や自慢の品だ。
(これを鉄の奴もおハルと一緒に食ったのかっ)
京之介は苦々しく思い、次々と葛もちを口へ放り込む。
「何か言いましたか?」
おハルが京之介の顔を覗き込む。
さっきのぼやきは心中に留まらず、口から出ていたのだろうか。
京之介は慌てて顔を上げた。
すると、おハルが吹き出した。
「京さんってば...口の周りがきな粉と黒蜜だらけですよ」
さっと懐から手拭いを出すと、おハルは京之介の口元を優しく拭った。
手拭いからは、いい香がした。
おハルはまだけらけら笑っている。
負けた...と京之介は空になった器を前に心中敗北宣言をしていた。