祭り
京之介がお幸やでおサチからおハルのことで言い忘れていたことを聞いている頃、
おハルはお福やへ遣いに出る準備をしていた。
「するめは裏の離れに取り込んだし、海苔はまだ干したままで大丈夫っと。
今日採れたアジは全部開いて半分はみりんに漬けたし、
塩漬け用の塩水も今回は気をつけたし...
ししゃもは夕飯に焼いて出して...
よし、あとはお福やで煮豆を買って、
恵比寿神社の出店でべったら漬けを買ってくれば、今日やる事は終わりかな...」
前回塩辛く仕上がってしまったアジの開きの干物の仕込に
最善の注意を払ったおハルは、そんな独り言で今日1日の奉公の確認をした。
前掛けを外すと足取り軽く、銭の入った巾着を取りに座敷へあがった。
甘味ものが大好きなおハル。
とは言ってもこの時代、砂糖はとても贅沢な甘味料だったので
庶民でも手に入る食材で作るほんのり甘い惣菜をおハルはとても楽しみにしていた。
今日はおハルの好みで選んで良いとくじら屋の奥さんから言われ、
煮豆なら小豆の甘煮、漬物ならべったら漬けだと即決めていたのだ。
「では、行って参りまぁす」
一仕事を終え奥で休んでいたくじら屋の旦那とお内儀さんにおハルは声をかけた。
「気を付けて行ってきなねぇ、おハル」
「慌てなくて構わねぇぞ、おハル。
ちっとは祭りでも見てきな」
ふたりは笑顔で声をかけ、おハルを送り出した。
(夕刻の繁盛時を避けて、先にお福やへ寄ってから祭りに行こっと)
くじら屋を出たおハルは、すぐさまお福やへ向かった。
それは、満開の桜の木を左手に見て、40間(72メートル)ほど東に行った所にある。
(おユキちゃん、いるかな...)
お福やで奉公中のおユキと話したことがなかったおハルは
今日の遣いを密かに楽しみにしていた。
今は夕刻の繁盛時前だ。
以前におユキを店先で見かけたことはあったが、
その時は昼時だったから、とても立ち話なんて出来る状況ではなかったのだ。
「ごめんくださぁい」
声の小さなおハルだが、いつもより声を張って奥に呼びかける。
奥からおフクの声が返って来た。
「あらっ、おハルちゃん、いらっしゃぃ。
珍しいんじゃないかぃ?
あたしゃてっきり、おユキがふざけて言ってるのかと思ったよ。
声、似てるねぇ」
奥から前掛けで手を拭きながら出てきたおフクが驚いたようにおハルに声をかけてきた。
「えっ、そんなに似てるんですか?私たちの声」
「あぁ、そっくりに聴こえたよぉ」
(おユキちゃん、こんな声なんだぁ)
おハルは感慨に耽りながらも、遣いのことを思い出す。
「おフクさん、
小豆の甘煮は今日ありますか?」
「あぁ、もちろんあるよぉ。
量はお徳ちゃんがいつも持って行くくらいでいいかい?」
「はぃ、お願いします」
お徳ちゃんとは、
くじら屋の旦那の奥さんの名で、お福やへはお徳が来るのが常だった。
「あっ、やっぱり少し多めでお願いします!」
甘味の誘惑に負け、おユキは言い直した。
「はいよっ、用意してくるねぇ」
「あっ、おフクさん、
あの...おユキちゃんは...」
「おや?通りで会わなかったかい?
おユキは今さっき、お幸やへ遣いに出たんだよぉ」
奥に戻りかけておハルの呼びかけに振り向いたおフクが残念そうに答える。
「そぅですか...
はぃ、見かけませんでした」
おハルも残念な気持ちが声に出てしまう。
(話したかったな...
私と同じくらいに見えるけど、いくつなのかな、おユキちゃん...)
そんな残念な思いとは裏腹に、
次の機会に思いを巡らした時、おハルの胸がトクンと高鳴る。
おフクから小豆の甘煮を受け取ると、丁寧にお礼を言い、代金を払いお福やを後にした。
(次はべったら漬けっと)
気付くとおハルは小走りで恵比寿神社に向かっていた。
神社に着くと、そこは人々で賑わい、出店のあちこちの提灯には火が灯り始めていた。
(きれい...)
おハルが足を止め祭りの雰囲気に見惚れていると、
おハルより少し年嵩の若い男女がおハルの前を通り過ぎて行った。
そのふたりは微笑み合いながら寄り添うように歩いている。
それを見たおハルは、
羨ましいような寂しいような複雑な心持ちになり、そんな自分に驚く。
(なんだろ...この気持ち...)
そしてその時、おハルの頭に浮かんでいたのは、
おハルの想い人、まさにその人だった。
(いつか一緒に来れたらいいな...)
楽しみのような切ないような気持ちが押し寄せてきた胸元をぐっと押さえ、
おハルは目の前の華やか景色をしばらく見つめていた。
(浅草寺の参道出店にも...
一緒に行ってみたいな...)
その人と歩く自分を想像し顔を赤らめたおハルは、
それと同時に早くなった胸の鼓動を隠すように
「べったら漬け、べったら漬けっ」
と小さく声に出し、小走りに人混みに消えて行った。