本音
「おサチさん...
この間、京さんがくじら屋に来て...
こんな時間に珍しいなって思ったら
京さん、昼間なのに寝癖をつけたままだし、私、思わず笑いながら挨拶して...
そしたら、京さん、
向かいの店まで聞こえるような大きな声を出して突然言うものだから...
おサチさん、京さんから何か聞いていますか?
あっ!すみません、その前に...これ、この前の葛もち代です。
あの時はお代も払わず、黙って出て行ってしまいすみませんでした」
お幸やへ来て、開口一番に話し始めたおハル。
葛もち代をおサチに渡すと、深々と頭を下げた。
「あぁ、そんなこと、気にしなくていいよぉ。
それより鉄さんのこと、心配してあげなよ」
「鉄さんにはちゃんとお伝えしました...
今の私に出来ることは、そのくらいですから」
おハルの声は途切れ途切れで小さいが、瞳は真っ直ぐおサチに向けはっきりとしていた。
「そぅだったんだね」
あの時、鉄三郎から大体のことは聞いていたおサチは
優しい眼差しでおハルに言葉を掛けた。
「えぇっと、その、京さんから聞いてるかってのは、
くじら屋で大声を出したことについてかい?」
「はぃ...」
「いや、京さんからは何にも聞いてないよ」
その時の京之介の言動は、くじら屋の旦那からはボヤキとして聞かされていたが、
あれから京之介の姿を見ていないおサチはそう答えた。
「そうですか...
くじら屋の旦那さまは、お客さんが引いた商いの合間に
するめイカを炙ったものをつまみに一服するのをとても楽しみにしているんです。
それで京さんが店に入って来た時がまさにそうでした。
その時店にいたのは、旦那さまと奥さまと私でしたが、
京さん、疾風のように騒ぎ振舞っていたので
三人とも口をあんぐり開けて茫然としてしまい...
そしたら、突然そのするめイカから火が上がってみんな大慌てでした。
私はもうその火柱にもびっくりして、水をかけるしか頭になかったものですから
奥へ汲みに行こうとしたら、京さん、
私の前に立ちはだかるし、それにまた私は驚いて...
振り向いて背後の七輪に目をやると、
火は旦那さまが消した様子でしたが、するめイカが真っ黒になって網に乗っていました。
改めて京さんの顔に視線を戻すと、
凄味のあるいつもの京さんの顔じゃなかったものだから
私は思わず京さんを避けるように奥へ逃げてしまいました。
このことが、京さんを嫌な気持ちにさせたのでは...と思っています。
こんなに驚いたこと、私、生まれて初めてで...」
「そりゃ誰でもびっくりするよぉ。
まったく...せっかちな男だねぇ。
おハル、大丈夫だよぉ。
京さんのことだから、そんなこと、ちっとも気にしていないさ」
「ほ、本当ですか?!」
「あぁ、なんとも思ってないよぉ。
なんでおハルは奥に行っちまったのかなぁくらいは思ってるだろうけどね」
深く吸った息をゆっくり吐いたおハル。
「少し安心しました...
おサチさんにお話して良かった...
あれから、ずっとそれを心配してたから」
おハルはまだ心配が残る微笑で俯いた。
「京さん、くじら屋によく顔を出すのかい?」
おサチがそう聞くと、顔を上げたおハルの表情がパッと明るくなる。
「京さん、お勤めで忙しいはずなのに、毎朝早くに偶然通りがかった振りをして
一緒に店開きの用意をしてくれます。
重そうな物を私が運ばないよう全部先に運ぶんです。
心の優しい人です。
私は京さんが体を壊さないかだけが心配で・・・
でも、京さんの笑顔を見ると、その気持ちをどう伝えて良いのかわかりません。
店の用意は私一人で大丈夫です、と伝えれば、
もう来ないで、と聞こえるんじゃないか?...なんて余計に考えてしまいます。
だから、今度、京さんとゆっくりお話をしてみたいんです。
店の中ではとてもとてもそんな余裕がないですから...」
おハルは小さく首を振ると再び俯いた。
でもその表情は、先程までのものとは違って、
顔色も良くなり、生き生きとした感じをおサチは受けたのだった。
どのくらいの時間をかけて伝えたのだろう。
そんな回想から京之介に全てを伝え終えたおサチは、ゆっくりと目を開けた。
「どうだい、京さん。丁度良かったじゃないか。
もっと早くに、この事を思い出していれば良かった。
すまないねぇ。歳には敵わないから、許しておくれ。
その代わり、上等な葛もちを用意しといてやるからさ」
「そうかい、おハルがそんなことを...
何て綺麗な心の持ち主なんだろうなぁ。
惚れ直しちまったよ。
ああぁ、おハルに逢いてぇ。
もう一度、思いを伝えてぇ。
おハルが俺をどう思ってるのか、はっきりさせてぇ。
よし、善は急げだ。
丁度くじら屋の客もはけた頃合いだろうから、おハルを連れ出してくらぁ。
おサチ、葛もち頼んだぞっ!」
そう言い残すや否や、京之介は疾風の如くお幸やの暖簾を揺らし、
おハルの元へ走り去ったのだった。