それぞれの選択
ーーフッ……「手術中」のランプが消えた。
どれくらい経ったのか分からなかった。すでに時間の感覚も麻痺していたその時、ふいにオペ室のドアが開く。ベッドで運ばれる麻友は頭を包帯でグルグルと巻かれ、人口呼吸器と何かも分からない無数の管に繋がれている。
「……麻友……どうして」
この数時間でだいぶ落ち着きを取り戻していた母は、ベッドに横たわる麻友に話し掛けるが意識は無かった。気丈に振る舞ってはいるがその胸中は計り知れなかった。親としての責任を感じていたのかもしれない。
……それは僕も同じだった。
「そのままお待ち下さい」看護師にそう言われた僕と母は、集中治療室へと運ばれる麻友を見守りオペ室の前で待つことにした。暫くすると麻友の手術を担当した執刀医がオペ室から出て来る。
……その表情からはどう頑張っても楽観的な希望は読み取れなかった。
「お待たせしました。お母さんですね」
「はい。先生……娘は、大丈夫なんでしょうか?」
「……結論から申し上げますと、命を繋ぎ止める確率は五分五分です」
「……五分、五分……」
母の顔から血の気が引いていくのが分かる。子を持つ親からすれば、とても信じたくない言葉だった。
「……ですが、命は助かったとしても……このまま意識が戻らない可能性が非常に高いです……」
医学的知識はそれほど無かったが先生が言っている意味は理解できる。僕達家族に気を使って遠回しに言ってはいるが「もし助かっても一生目が覚める事は無い」そう言っているのだ。
だがその言葉が逆に、僕の思考をよりクリアにしていく……もう迷いは無かった。
「……そんな……麻友……うっ……」
その場に膝から崩れ落ちる母を付き添いの看護師が介抱する。
「……先生、麻友を宜しくお願いします」
「母さん、麻友の側に居てあげて……」
先生に軽く頭を下げ、母にそう告げた僕は走り始める。
「ソラ、何処に行くの!?」
泣きながら叫ぶ母に僕は振り返らなかった。もう一度母の顔を見てしまったら決心が鈍る……いや、僕も泣きだしてしまいそうだったから……。
(さよなら母さん……)
(麻友……必ずお兄ちゃんが助けてやるからな)
心の中でそう呟いた僕は病院を出て海沿いへと急ぐ……真理さんが居る神社へと。
ーーーー
「ハアッ、ハアッ……真理さん!」
神社に着いた僕は真理さんの名前を呼ぶ。だがそこには真理さんの姿は無かった。
「ハアッ、ハアッ……そんな……」
疲れと深い絶望感に支配された僕はガクッと項垂れその場に両手を付いて座り込む。
(……もう終わりだ……)
諦めかけたその時、入口の方から声が聴こえる。
「瀬戸君!」
初めて会った日と同じワンピース姿に麦わら帽子。肩から提げたバッグをしっかりと握り、帽子を片手で抑えて現れた真理さんも、どうやら走って来たらしく息を切らせていた。
「……真理さん……よかった……」
真理さんの顔を見て少し安心した僕は思わず涙ぐむ。
「ハアッ……瀬戸君、何かあった?」
汗だくの僕を見た真理さんが口を開く。
「え?どういう事ですか?」
「さっき急に街の方から光を感じて、それが段々強くなっていったから様子を見に行ってみたの」
「そしたら神社の方へ走って行く瀬戸君を見掛けたから……」
オペ室の前で手が透けた時の事だ。しかも真理さんとすれ違っていた事も気付かなかった。
「……妹が交通事故で意識不明なんです……」
「えっ……妹さんが?」
僕の言葉に真理さんも両手を口に当てて驚いている。
「はい。麻友って名前なんですけど、話してなかったですね……」
「うん。それに交通事故って……確かお父さんも……」
「……はい。でもあの時の僕は何も出来なかった。けど今なら……」
「……真理さんならこの意味が……分かりますよね……」
「……うん。でも聞いて……」
そう言って真理さんは言葉を止めた。暫くしてフゥと息を吐いたその表情はとても険しくなっていた。
「真理さん……?」
「……聞いて……瀬戸君が幸師の使命を果たしたとしても、必ず麻友ちゃんが助かる保証は無いの……」
「……あ……」
今日起こった信じられない出来事の数々に、僕は大事な事を完全に忘れていた。幸師の光は全ての人に降り注ぐワケでは無く、しかも「少しだけ」幸せにする。つまり都合良く麻友が光に触れたとしても助かるかは誰にも分からないのだ。
「……それでも……それでもいいです」
「今の僕に出来る事……どうせ消える命なら麻友の……」
そこまで話したその時、僕の全身が透け始める。
(始まった……)
「真理さん!」
徐々に透けていく身体に、抑えていた恐怖が再び顔を覗かせる。だがもう覚悟は出来ていた。
「瀬戸君……麻友ちゃんを助けたいって、強く想って……」
そう言って真理さんは僕の両手を握りしめた。
(麻友……頑張れ……)
目を瞑り心の中でそう強く願った。
「瀬戸君……」
「……」
真理さんのその言葉にゆっくりと目を開ける。すると僕の足元からキラキラと輝く幾つもの光の粒が、まるでタンポポの種が風に乗って飛ぶ様に空に舞っていた。
ーーやがて、その光は僕の全身から溢れていく。不思議と恐怖感も無くなっていた。
涙が止まらなかった。自分が生きてきた十七年という短い人生が、走馬灯の様に頭の中で映しだされる。決して良い人生では無かったかもしれないがそれでも幸せだった。もう思い残す事は無い。
「瀬戸君……」
僕の両手をしっかりと握る真理さんも、やはり涙を流していた。だがその表情は僕の……いや、幸師としての最後をしっかりと見届けるかの様に、固い決意の眼差しで僕を見つめていた。
(……真理さん……ありがとう……お祭りに連れて行けなくて……ごめんね……)
徐々に遠くなる意識の中で目に写る全ての物が光輝いて見えた。止めどなく流れる涙までもが光の粒になっていく。最後の時はもうすぐそこまで迫っていた。
(母さん……ごめんなさい……)
(麻友……元気になってくれよ……)
(……父さん……そっちに行っても怒らないでね……)
深い意識の底へと堕ちて行く感覚……僕はそっと目を閉じその感覚に身を委ねる。
「……き……め……ない……で……」
それが最後に聞いた言葉だった。
ーーーー
『……ソ……ラ……』
『……ソラ』
懐かしい声に目を開ける。真っ暗な空間にうっすらと浮かび上がる白い人影に、何とも言えない暖かさを覚えた僕は、それが父だとすぐに分かった。
「父さん……」
「……ここは、あの世かな……ごめん、僕もこっちに来ちゃったよ……」
「それより麻友が……父さん、麻友を助けてあげて!」
『麻友は……もう大丈夫……』
「えっ……助かった……そっか……良かった……」
父のその言葉に、とりあえず自分の使命は果たせたのだと思い安堵した。
『ソラ……麻友のところへ……行ってあげなさい……』
そう言って父は突然僕から遠ざかる様に何処かへと歩きだす。
「待って!僕も行くから!」
父を追いかけようとするがうまく走れない。それどころか自分の足に躓いて前のめりに倒れてしまう。
「父さん!」
倒れながらも必死に伸ばす右手が何かを掴んだ。
「待って!父さん!」
ーーーー
「……痛ッ……」
ジワジワと来る鈍い痛みに少しずつ意識がはっきりとしてくる。倒れた拍子に唇を少し切っていた様だった。
「……ここは……」
ゆっくりと目を開けると見覚えのある神社の景色が横になっている。何が起こったのか理解出来ない僕は、暫く動けなかった。
「……これっ……て……」
伸ばした右手が掴んだ物、それは真理さんのバッグだった。
「ハッ……」
慌てて起き上がり自分の身体を確認するが異変は無い。さっきまで透けていた身体も、確かに溢れていた光も、まるで何事もなかったかの様に今は普通の身体だった。
「真理さん……」
握られたバッグに気が付いた僕は、辺りを見回すが真理さんの姿はどこにも見当たらない。
ーーだが明らかに様子がおかしかった。
真理さんの衣服などは目の前に落ちている。だが姿は見当たらない……つまり真理さんの身体だけが消えた様だった。全く状況が飲み込めず立ち尽くしていたその時、真理さんのバッグから一冊のノートが地面に落ちる。
そのノートがあの日、僕が神社に忘れていった物だとすぐに気が付いた。無意識に拾い上げたノートには「瀬戸君へ」と書かれている。
僕は誘われる様にノートをめくった。
ーー瀬戸君へーー
『もし瀬戸君がこのノートを見ているとしたら、私はきっともう瀬戸君の目の前には居なくなっていると思う。そしてそれは瀬戸君が生きている証……。
瀬戸君を救う唯一の方法があるとすれば、それは私自身が幸師としての使命を果たして瀬戸君に幸せを分け与える事。
ごめんね。本当は私も幸師だったの……でも瀬戸君にその事を話したら瀬戸君はきっと私のこの行為を止めたと思う。だから黙ってるしかなかったんだ。
私は五歳の時に旅行先のホテルで建物火災に巻き込まれて両親を亡くしたの……ううん……本当はあの時に私も死ぬ筈だった。でも薄れていく意識の中で、私は宙に漂う光を見たんだ……そして私だけが生きていた……奇跡としか言い様がなかった。
他に身寄りの居なかった私は孤児院に引き取られた。孤児院の院長先生にその時に見た光の事を話したら、幸師というその土地に古くから伝わる伝承を聞いたの。
高校生になった頃、私は自分の変わった体質に気が付いた。夢に知らない人が出てきたり、その人の過去の記憶が見えたり……。そんなある日、偶然私は、全身がぼんやりと輝いている人を見掛けた。恐くなった私はその場をすぐに逃げ出した。でも離れていても何となくその人の存在を感じたの。
それから何日かして、急にその人の存在が萎んでいくのを感じた私は必死にその人を探した。やっと見付けたと思ったその時、その人は光の粒になって消えていった……初めて幸師の最後の瞬間を見たの……。
涙が止まらなかった。今私が生きているのは、こうやって自分の命と引き換えに誰かを救う……幸師のお陰だと分かったから……。
大学生になった私は毎年夏休みになると幸師を探す旅に出た。そして瀬戸君を見付けて、話してみて、瀬戸君の優しさに触れて……私は自分の幸師としての使命を果たそうと思えた。神様がほんの少し伸ばしてくれたこの命を、誰かの為に使おうって。
だから瀬戸君は悲しまないで……これは私が望んだ選択だから。もし瀬戸君が生きていたとしたら、私の最後を院長先生に伝えてほしいな……それできっと全部分かってくれると思うから。そして今度は瀬戸君のその力を誰かの為に役立てて下さい。
こんな出会いだったけど、瀬戸君と友達になれて良かった。本当に……心からありがとう』
……主を失った麦わら帽子が寂しそうにそこにあった。
ーーポタッ。
「……真理さん……うっ……うっ……」
ノートに書かれた真理さんの言葉を読む瞳は、涙で滲んで文字がボヤけている。やがて瞳いっぱいに溜まった大粒の涙がノートにこぼれ落ちた。
「うっ……うわぁぁ……真理さん……」
言葉にならない感情が胸の奥から止めどなく溢れ出してくる。僕は泣いた……恥も外聞もなく大声をあげて……ただ泣いていた。
ーーそして全てを理解した。
あの日夢で見た少女は、幼い頃に両親を亡くした真理さんだった事……真理さんが幸師としての使命を果たし、僕を救ってくれた事……そして、その夢を見た自分の使命を……。
(昨日までの瀬戸空は死んだんだ……)
(今日生まれ変わった僕……いや、新しく真理さんに貰ったこの命を……誰かの為に……)
心の霧が晴れた僕の顔は泣き過ぎて少し腫れぼったかったかもしれない。だがその表情は今までとは違っていた。
涙を拭い、真理さんの遺品ともいうべき荷物を拾い集めた僕は病院へと走り出す。
(……真理さんありがとう……)
ーーーー
病院に着いた僕は麻友の運ばれた集中治療室へ急ぐ。
「ソラ」
中へ入ると明るい声で僕を呼ぶ母が居た。ベッドを囲んでいる、先程麻友の手術を担当した先生や看護師達も皆笑顔だった。
「ハァ、ハァ……母さん……麻友は?」
「麻友の……麻友の意識が戻ったの……」
「先生も奇跡だって……」
嬉しさでまた母は泣いていた。だが最愛の娘が助かったのだからそれは当然だった。
「……良かった……」
それを聞いた僕も全身の力が抜けていく。
「……おにい……ちゃん……」
まだ呼吸器が付いている麻友が何やら話し掛けてきた。
「麻友……話せるのか?」
「……うん」
「どうした?」
「麻友ね……夢を見てたの……」
「……夢?」
「……うん」
「どんな夢を見てたんだ?」
「……うんとね……知らないお姉ちゃんが来て……優しい笑顔で『麻友ちゃん、もう大丈夫だよ』って……」
「……そしたら目が覚めたの……」
僕は泣きそうになりながら父の『麻友はもう大丈夫』という言葉を思いだしていた。
「……それは……どんなお姉ちゃんだった?」
「……麦わら帽子を被っていたよ……」
涙を堪えきれそうになかった僕は咄嗟に後ろを向く。
「……そっか……そのお姉ちゃんに感謝しないとな……」
「……うん……」
「母さん。僕頑張って大学行くよ……」
「そしたらさ……」