コタエ
ーー夏祭り当日。
あの日、真理さんの腕の中で涙が枯れる程泣いた日から……不思議と僕の身体に異変は起こらなくなっていた。「死にたくない」「悪い事」をしてまで生きたいという考えが、幸師としての資格を剥奪されてしまったのか……正直何でもよかった。
ーーあれから真理さんには会っていない。
今日は、午前中に夏期講習の最終日があるためいつも通りに起床する。目覚まし時計は相変わらず鳴っていないが自然と目が覚める。部屋の網戸を開け外を見ると、少し霧がかってはいるが快晴だった。
「絶好の祭り日和だ」
僕は午前中の夏期講習が終わったら、夏祭りに真理さんを誘ってあげようと思っていた。せっかくこの時期にこの街に来たのだからお祭りを見せてあげたい。だが一人だと中々楽しめないのではないか。こうして知り合ったのも何かの縁、せめて良い思い出の一つでも……純粋にそう思っていた。
ーーーー
「おはよう」
「お兄ちゃんおはよー」
キッチンへ来ると麻友がもうテーブルの椅子に座っていた。少し背が高いその椅子に足をブラブラとさせているが、まだ眠いのかあくびをしている。
「おはようソラ、早いわね」
朝食の支度をしている母はパートに行く格好をしていた。こんな日でも関係ないのかと、改めて母の大変さを感じていた。
「うん。今日は夏期講習の最終日だから」
「母さんは?夜まで仕事?」
「どうかしら。夕方くらいには帰って来るつもりだけど」
「ソラは塾が終わったらお祭りに出掛けるの?」
「うん。そのつもり」
「あら。彼女でもできたのかしら」
そう言って母はフフとイタズラっぽく笑っている。
「お兄ちゃん彼女できたのー?」
すかさず麻友もツッコミを入れて来る。さすが親子、見事な阿吽の呼吸だ。
「違う違う。知り合いの人だよ。それにまだ決まったワケじゃないし」
ふいを突かれ激しく動揺した僕は急に恥ずかしくなり慌てて話題を変える。
「そ、それより麻友は今日の予定は?」
「今日は友達と、友達のお母さんとお祭りに行く」
どうやら麻友も祭りに行くらしい。もし鉢合わせでもしたらなんて言い訳しようか。
「そうなんだ。じゃあ外は暑いから帽子忘れるなよ」
「はーい」
「ほらほら二人とも、お父さんに挨拶してらっしゃい」
母が間を割って入る。毎朝の我が家の日課を忘れない様にと。
(……父さん。今日も母さんを、麻友を、僕を見守っていてください……)
仏壇に飾られた父の遺影に手を合わせ心の中でそっと呟いた。脇では麻友もなにやら頼み事をしている。
(大丈夫。きっと父さんが守ってくれるよ)
ーーーー
「じゃあお母さん行ってくるから、後はソラ、麻友お願いね」
「分かった」
「お母さん行ってらっしゃい」
母を見送り朝食も済ませた僕は塾へ行く準備をする。
(……洗い物は帰って来てからやろうかな)
「忘れ物は無し……と」
今日勉強する参考書、ペンケース、一通り確認した僕は玄関へと向かう。靴を履いていると麻友が見送りに顔を出した。
「麻友は何時頃行くの?」
「もう少ししたら友達が来るからそれから」
「そっか。戸締まり頼んだぞ」
「うん。大丈夫任せて」
時に子供は「あれこれしなさい」と押さえ付けるより、思いきって信頼して任せてみる。そうすると、頼られた子供は嬉しくなっていつもよりも頑張ったりする。麻友ももう小学校高学年になる、そういった年頃だ。
「じゃあ行ってきます」
「お兄ちゃん行ってらっしゃい」
笑顔で手を振る麻友と別れ塾へと向かう。通りへ出るとゾロゾロと大勢の人達が浜辺の方へと向かっていた。知っている顔からまったく知らない人まで、みんな楽しそうに笑っている。海の方からは風に乗って太鼓の音も聞こえていた。
ーー少しずつ街もザワつき始めている。
流れる人の波に逆らう様に塾のある街の中心部へと向かう僕は、まるで他人とは違う運命を神様に揶揄されながらその軌跡をなぞっている様に思えた。
「……」
活気に溢れる街並みが、こんなにも悲しく感じたのは生まれて初めてかもしれない。光と影……表と裏……自分以外は他に誰も居ない、全てが静止した鏡の中の住人の感覚だった。
その鏡をぶち壊して「こっち側に戻ってやる」そんな気力も僕には残されていなかった。既に決められた運命が有るのだとしても、誰かの為に自分の命を差し出すなんてバカバカしい。
……この時はまだ、そんな風に思っていた。
ーーーー
塾に着いた僕は鞄を広げ、参考書とペンケース、それと真新しいノートを机に並べた。あの日神社に忘れたノートの事を、何となく真理さんに言い出しにくかった僕はまた新しいノートを買っていた。
(真理さんノートを持っててくれてるかな……)
さすがに祭り当日。いくら夏期講習の最終日だとしても人はまばらだった。皆この日を楽しみにしていたらしい。
僕は正直勉強などどうでもよかったが、特に休む理由も見付けられずこの夏期講習最終日に参加していた。正面の黒板に白いチョークで書かれている今日の予定を確認する。
「よりによって最初は英語かよ……」
苦手な英語の勉強が更に気持ちを萎えさせた。
ーーガラッ。
そこへ塾の講師が入って来る。講習も最終日だという事でかなり気合いが入っているのが伝わってくる。
「瀬戸どうした。顔に覇気が無いぞ?」
何で塾の講師は皆熱血なのか?自分との温度差で息苦しさを覚えた僕は適当に相槌を打つ。
「……大丈夫です」
「今日は祭りだが、ここに居る皆は勉強に集中する様に」
「今日来なかった人達に差を付けるチャンスだぞ」
お決まりの台詞を言えた講師は満足気な表情をしている。
(あ~早く終わってくれ……)
ーーーー
「……であるからして~」
開始から一時間になろうとしていた頃だろうか。それまでの静けさを切り裂く様に突然教室のドアが勢いよく開いた。
ーーガランッ!
その場に居た全員の視線がそちらに向く。
「ハァ、ハァ……このクラスに瀬戸君は居ますか?」
それはこの塾の事務をしている年配の女性だった。相当走り回ったのか慌てて教室に入って来た。しかも僕の名前を呼んでいる。
「……はい。僕ですけど」
何か問題でも起こしたかと最近の出来事を思い出すが、特に身に覚えは無かった。だが不思議そうに首を捻る僕に構わず事務員は続ける。
「い、今お母さんの方から電話があって、妹さんが交通事故に遭って……病院に運ばれたって」
ーー!!
「……えっ!?」
思わず自分の耳を疑った。
(何を言ってるんだこの人は?)
「い、今何て……」
あまりにも予想していなかった言葉に、まるで背後から心臓をナイフでひと突きにされたかの様な鋭い痛みが瞬時に心を襲う。
「急いで!この先のS病院に運ばれたって」
「……あ……は、はい」
ーーガタン。
一瞬頭が真っ白になった僕は椅子から立ち上がろうとして机を倒してしまう。フラフラと力なく呆然としている僕に、散らばった教材を皆が拾ってくれている。
「瀬戸、いいから早く行ってやれ!」
講師のその言葉に我に返った僕は駆け出していた。足元がおぼつかず転びそうになるが何とか耐える。「腰が抜ける」一歩手前の状態の中、無我夢中で走った。
「ハァ、ハァ……何で麻友が……」
(さっきまであんなに元気にしていたのに)
頭の中は不吉な事ばかりが浮かんでは消える。父との永遠の別れ………あの時の深い悲しみを嫌でも思い出す。
(麻友……父さん……)
ーーーー
何処をどう走ったのかも覚えていない。息を切らせて病院に着いた僕は額から流れる汗も分からない位混乱していた。
ーー正面入口の自動ドアの前に立つが反応しない。
(クソ、今日は休みだった)
急いで救急外来用の裏口へと回る。ドアを開けるとひんやりとした冷気を全身に感じる。日曜日という事もあり殆ど患者は居ないが冷房は付いている様だった。僕は救急用受付で麻友の事を尋ねる。
「あ、あの……麻友は……」
「はい?受診希望ですか?」
「瀬戸麻友は何処ですか!」
酷く取り乱していた僕は会話もままならない。
「ちょっと落ち着いて下さい。面会ですか?」
怒鳴る様に話す僕に受付の人も驚いた顔をしている。
「い、妹が交通事故で運ばれたって……」
「……少々お待ち下さい」
事の重大さが伝わったのか丁寧な口調で受け答えると、直ぐに内線用らしい受話器を取りどこかへ電話している。
(早く……早くしてくれ)
焦る僕には僅かほんの十数秒も長く感じられる。
「お待たせ致しました。瀬戸麻友さんですね」
「はい!麻友は何処ですか?」
「瀬戸さんは今緊急手術中です」
ーー!!
「……手術中……あの、命に別状は……麻友は大丈夫なんでしょうか?」
「……すいません。私にはちょっと……」
申し訳なさそうに話すこの人に聞いても確かに分かる筈もなかった。でも、心のどこかで「大丈夫ですよ」と言ってほしかったのかもしれない。
「オペ室は、オペ室は何処ですか」
「オペ室はそこの角を曲がって……」
「ありがとうございます」
オペ室の場所を教えてもらった僕は「病院内は静かに」の常識も忘れて走りだしていた。
ーーーー
オペ室の前へ来ると待機用の長椅子に座っている母が居た。
「母さん!」
「ソラ……麻友が……うっ」
僕の顔を見た母は、張り詰めていた緊張がほんの少し弛んだのか抱き付いて泣き始める。
「麻友は……麻友は大丈夫なの?」
そう言って両手で母の肩を掴み問い掛ける。
「分からないの……私が来た時にはもう手術中だったから……」
泣きじゃくる母を見て胸が締め付けられる。父が居ない今、僕がしっかりしなければと心に誓った。
そこへ一人の看護師がやって来る。
「瀬戸さんのご家族の方ですか?」
神妙な面持ちでゆっくりと、かつ丁寧に話す。おそらくは僕達がパニックにならない様に細心の注意を払っているのだろう。
「はい。麻友は……娘の容態は……大丈夫なんでしょうか?」
涙に濡れた顔をハンカチで拭きながら母は看護師に尋ねる。もう片方の手は僕のシャツをギュッと握っていた。
「お母さん、落ち着いて聞いて下さい……」
「麻友さんは、外傷はそれほどでもないのですが、頭を強く打っており、予断を許さない状況です」
「先程CTを撮ったところ、黒い影が見付かりました。おそらく脳内出血の可能性があります」
「……ですので今、緊急開頭手術をしています」
「……そんな……」
残酷な言葉の数々に耐えきれず、その場で倒れそうになる母を受け止め長椅子に座らせる。
「……麻友は……助かるんでしょうか」
泣き崩れる母の代わりに、僕は意を決して看護師に尋ねる。
「……最善を尽くしています」
看護師もそれしか言い様が無かったのだろうと、僕も理解していた。
「……妹を……宜しくお願いします」
「はい。ではまた……お母さんをお願いします」
そう言い残して看護師はオペ室の中へと入って行った。
ーーーー
静寂に包まれた院内には啜り泣く母の声だけが響いている。
(……なんで麻友まで……どうせなら僕が代わりになっていれば……)
僕に続いて麻友まで……最悪の事態も予想した僕はそんな事を考えていた。
泣いている母の隣に座り、肩を抱き声を掛けようとしたその時、ここ何日か無かった僕の手が透け始める。
「あっ……」
声が出そうになるのを我慢した僕は、ふとある事を思い出す。
(そう……か)
「手術中」のランプを見つめるその瞳には、ある種の決意が宿っていた。
汗で濡れたシャツが冷房のせいか僕の体温を奪っている。ブルッと震えるその身体は、寒さなのかそれとも武者震いなのかは分からなかった。
人は人生の終わりを迎える時、何を考え、どう過ごすのか……その答えが僕にはもう見えていた。
大切な人を守るために……。