蝉時雨
ーー翌日。
泣き疲れた僕はいつの間にか眠っていた。あの後の事はあまり覚えていない。いや、正確には思い出したくもなかった。
高かった熱も、目覚めと共にすっかりと下がっていた。身体の異変も今は無い。
……まるで、全てが悪い夢だったかの様にさえ感じる。だが、自分の手に貼ってある絆創膏が僕を現実へと引き戻す。
「……やっぱり本当だったんだ……」
夢と現実の狭間で揺れ動く複雑な感情。自分の力ではどうしようもない圧倒的な絶望感が、僕のありとあらゆる力を奪っていた。
「……部活……行きたくないな……」
完全に心が折れていた。真理さんの話が少しずつ現実味を帯びてきた今、その後の自分の運命も、既に決まっている様に思えたからだ。
何もする気がおきなかった。あまりにも深い悲しみが、胸の中心に向かって延々と押し寄せて来る。この、無限とも思える苦しみは、僕がこの世界から消えるその日まで続くのだろうか、そんな事を考えていた。
ーーこの日を境に、僕の顔から笑顔が無くなった。
家族にはまだ体調が優れないと嘘をつき、あまり部屋から出なくなる。
ーーコンコン
「お兄ちゃん入るよ」
時々麻友が心配して様子を見に来るが、作り笑いも上手く出来そうにない僕は、つい素っ気ない態度をとってしまう。
「……麻友、あんまり気分が良くないからまた後でな……」
「……うん、分かった……」
哀しげな、寂しげな顔で麻友は部屋を出ていく。
普段は優しい兄の様子がどこかおかしい。それを麻友も何となく感じ取っていたのかもしれない。でもこの時の僕はまだ、真っ暗な闇の中をさまよっていた。
ーーそれから三日ほど引き籠る。
時々起こる身体の異変にも、またいつ消えるかも分からない恐怖にも、徐々に何も感じなくなってきていた。迫り来る「死」と、それを頑なに拒む心が激しくぶつかり合いごちゃ混ぜになった結果だった。それはまるで、人の形をした抜け殻の様だった。
「……」
ただただ虚無感に支配されていた僕を家族も心配している。だが理由は話していない。僕の元気がない理由を家族に話したとしても、信じてもらえる可能性は限りなく低い。仮に「消える」という事が本当だったとしたら、それはそれでパニックになる事が目に見えていたからだ。唯一の救いは、僕の身体が透けているのを真理さん以外には見えていない事だった。
……それだけが心の拠り所だった。
ーーーー
その日、少し遅めに起きた僕は、キッチンにまだ母が居る事に気が付く。
(今日はパートが休みか……)
「……おはよう……」
出来る限りの力を身体中から集めて声に出す。
「あ、おはようソラ。具合はどう?」
母が心配そうに話し掛けてくる。ここ何日かの様子を見ている親としたら当然だった。
「……だいぶ良くなった……」
あまりこの話題に触れられたくない僕は、ワザと話を変える。
「……麻友は?」
パートが休みの日はベッタリと母から離れない麻友が、今朝は見掛けない。
「麻友なら友達の家に宿題の残りをしに行ったわよ」
「……そっか」
僕の体調が良くなったら一緒に宿題をする約束だったのに、それも守れなかった。おそらくは楽しみにしていたであろう麻友の気持ちを考えると、何とも言えない深い後悔が僕を襲う。
このまま家に居ても、逆に母に迷惑が掛かると思った僕は、そんなに行きたくもない塾へと久しぶりに重い足取りを向ける。
「……塾に行って来るよ……」
「……そう。じゃあ休んでた分を取り戻さないとね」
一瞬驚いた顔をした母は、直ぐに笑顔で僕を送り出す。でも母のこの笑顔も、無理をして作っているのは僕にも分かった。「思春期」なのか……母はそれくらいに思っていたのかもしれない。
(……ごめんね母さん……)
ーーガチャ。
「……うわぁ……」
昼食を取り玄関を出ると相変わらず蒸し暑い。だが、その蒸し暑い外の空気を吸い込む度に「僕は生きている」という実感が身体中に染み渡る。まるで、出口の見えない暗く長いトンネルに、一筋の光が射し込む様に……。
ーー目を閉じて意識を五感に集中してみる。
ジリジリと照り付ける太陽。焼けたアスファルトの匂い。遠くから聴こえる蝉の鳴き声。そのどれもが、現実逃避をしていた僕の心と、それでも日常を過ごす身体とを、ほんの少しだけバランスを取ってくれた様な気がした。
今は……それだけで十分だった。
ーーーー
塾へと向かう街並みを、何故かとても懐かしく感じた僕は、少しゆっくりと歩く事にした。たった二、三日しか経っていない筈なのだが、さっきまで僕の目に写っていた白と黒だけしか無い様な世界から一転、色とりどりのその景色に、思わず目を奪われていた。「生」の息吹を感じたのかもしれない。
ーーふと見覚えのある人影を見掛ける。
「真理さんだ……」
咄嗟に時計を確認する。時刻は十三時になろうとしていた。
「……まさか……」
偶然見掛けたその姿は海沿いへと向かっている。僕はどうしても確認しておきたい事がある事を思い出していた。
ーーーー
「こんにちは」
後ろから近づき今度は僕から声を掛ける。
「わっ」
ふいに話し掛けられた真理さんは驚いて振り返る。すぐに僕だと気付き慌てて挨拶を返す。
「瀬戸君。こんにちは」
全く知らない街で誰かに話し掛けられるという事は、やはり驚く様だった。
ーーその時、僕は真理さんの言葉を思い出す。
(真理さんは幸師の存在を感じる事が出来る。確かそんな風な事を言ってたっけ)
「今日は僕の場所を分からなかったんですか?」
少し皮肉っぽく聞こえたかもしれない。だが真理さんは特に気に止めていない様子で会話を続ける。
「……うん。最近瀬戸君の存在がうまく感じられないの……ボヤけるって言うか……」
(……それってまるでもうすぐ消えるって事じゃん……)
真理さんに会うと、より今僕の身体におこっている事がリアルに感じられる。できれば会いたくはなかったが、そうも言ってられない。
「……真理さん、この前はすいませんでした」
僕はあの、急な通り雨の日の事を謝った。感情的になるのは悪い癖だった。
「……大丈夫。たぶん誰でも瀬戸君と同じ反応したと思うし……」
「私の方こそごめん。もうちょっと気を使えば良かったね……」
真理さんもあの時の事を後悔している。やはりこの人は根本的に優しい性格の様だ。
「あの、真理さんにどうしても聞きたい事がありまして……少し時間大丈夫ですか」
数日前にあんな別れかたをした事が多少引っかかってはいたものの、もうなりふり構ってはいられなかった。
「もちろん。私が答えられる事なら」
真理さんは笑顔でそう言った。何処か哀しげなその表情は、無理をして作っているのだと思えた。
「じゃあ、ここだとアレだからとりあえず神社に行こっか」
「……そうですね。誰かに聞かれると、変な人だと思われちゃいますからね」
冗談っぽく言ってはみたものの、全然笑えなかった。
「……」
神社へ向かう道中、特に会話も無く重苦しい雰囲気が漂う。あきらかに原因は僕だった。激しく落ち込んだ風な僕を見て、真理さんも察してか黙りこむ。
(息苦しいな……)
ーーーー
「瀬戸君、聞きたい事って?」
神社へ付くなり真理さんが口を開く。
「……」
暫く迷ったが、意を決して僕は話し始める。
「……あの、助かる方法って無いんですか?」
「……」
「……やっぱりその事か……」
真理さんには分かっていた様だ。
「……助かる方法……ありますよね?」
「真理さんは知ってるんでしょ?」
「お願いします。教えてください」
「……」
真理さんは俯いたまま黙っていた。
「……うっ……まだ……死にたくないんです……」
真理さんの顔を見たからなのか、何も感じなくなっていた筈の僕は、いつの間にか泣いていた。
「……ごめん……私にも分からないの……」
「……ごめんなさい……」
「……本当にごめんなさい……」
真理さんも瞳に涙を浮かべて何度も謝っていた。
「……うっ……うっ……そんな……本当に……死んじゃうの?」
「……誰かも分からない……会った事も無い他人を幸せにするために……自分が不幸になるなんて……」
「……そんなのおかしいよ……」
誰かに話したかった。心の奥底にあった感情を吐き出した。
「……ごめんなさい……」
(……ハッ!)
「真理さん言ってましたよね……善行を積み徳を貯めるって……」
「……じゃあ僕が今から悪い事……犯罪とかをすれば助かるんじゃ……」
咄嗟に思い付いた事が口から出る。
「たぶんダメだと思う……幸師になる人は、本当に心が綺麗な人……」
「犯罪とか、そう言うのを出来ない人が選ばれるから……」
「でもこの状況でそんな事言ってられないですよ」
自分でも滅茶苦茶な事を言っているのは分かっていたが止められない。
「……仮に悪い事、犯罪とかしたら……残された家族が不幸になるよ……」
まるで僕を諭す様に、静かな口調で真理さんは言った。
「!!」
その言葉で我に返る。確かに自分が助かったとしても、母さんや麻友に迷惑がかかる。
「……それに、今の段階まで来たらおそらく止められないと思う……」
まだ徳を積んでいない状態で出会えていたら、あるいは助かったのかもしれない。だが幸師がその務めを果たそうと、強く輝かないとその存在を感じる事が出来ない。つまり現状では助かる術は無いのだ。
「……皮肉ですね……」
諦めにも似た感情が無情にも心を抉る。僅かに残されていた可能性も全て泡と消えた。
「……ごめんなさい……」
何度目だろうか、真理さんはただ謝っていた。彼女は何も悪くはないのに……。
「……グス……真理さん……泣いてもいいですか……」
もう、泣く事しか出来なかった。
「……うん……」
そう言って真理さんは、僕を優しくその腕で抱き締めてくれた。
「……うっ……うゎああぁ……」
僕は真理さんのその腕にしがみつき声をあげて泣いた。一人で抱え込んでいた重荷が、少しだけ軽くなったのかもしれない。
ーー僕に残された時間はあとどれくらい有るのだろう。
人はその人生が終わる時、何を考えどんな気持ちで日々を過ごすのか。この時の僕はまだ、そんな事を考える余裕は無かった……。
辺りで鳴いている蝉達も、もうすぐ来るその短い命の終わりを分かって、悲しんでいるのかもしれない。
まるで、生きた証を残そうとしているかの様に。