少女
……夢を見ていた。
川から海へと続く夕暮れ時の河川敷で、わんわんと泣きながら立ち尽くしている少女が居る。
まだ幼いその少女は五歳くらいだろうか。遠目に見えるその少女以外は他に誰も居ない。夢の中のその景色は、僕の見覚えの無い場所だった。
ーーその少女は泣きながら何かを叫んでいる。
心配になった僕は、おそらくは両親とはぐれてしまったのであろうその少女に、ゆっくりと近付いて行った。
徐々に近付いて行くにつれて、少女が叫んでいる言葉が聞こえて来る。
「……かな……で……」
「……パパ……ママ行かないで……」
両手で顔を覆い、泣きながら「行かないで」と叫んでいるその少女に、僕も胸に込み上げて来るものがあった。
「……大丈夫だよ」
そう声をかけようと、少女の肩に手を伸ばした瞬間、今度は聞き慣れた声が頭に直接響いてくる。
「……き……て……」
「……お兄……ちゃん……起き……て……」
「お兄ちゃん起きて。遅刻しちゃうよー」
聞き覚えのあるその声は麻友だった。どうやらいつもなら起きて来る時間のはずが、一向に姿を見せない僕を心配して、起こしに来たのである。
「……夢か……」
そう呟いた僕の目からは、いつの間にか一筋の涙が流れていた。どこか自分達兄妹に似たところを感じていたのかもしれない。
(泣いてる?……)
ハッと我に返った僕は、麻友に見られない様に慌てて涙を拭いた。
ーー見覚えの無い少女に風景。ましてや初めて見る夢に何故か僕は胸がドキドキしていた。
大概夢というものは、最近見たテレビや人、あるいは物などの、いわゆる視覚的情報を脳が記憶して、それを夢として再生させるものだと思っている。だがさっきの夢は日常的にもなんら関連が無い。
(不思議な夢だったな……)
ーーーー
「ありがとう麻友」
「うん。じゃあ先に行ってるねー」
そう言って麻友は、そそくさと部屋から出ていった。
目覚まし時計に目をやり時間を確認する。アラームが鳴るはずの時刻はとっくに過ぎていた。かなり年季の入ったその目覚まし時計は、昨日僕が叩いた衝撃で完全に壊れてしまった様だった。
「やばい、時間ギリギリだ」
そう言ってベッドから起き上がろうとするが、うまく身体に力が入らない。おかしいなと思い、今度は片足をベッドから床に着け、ゆっくりと上体を起こす。
ーークラッ……。
自分の意識とは無関係に、フラフラと頭の重心が定まらない。……一瞬昨日の話が頭をよぎる。慌てて身体を確認するが、別段おかしいところは無いようだった。まさか、と思った僕は額に手を当ててみる。
「少し熱いかな……」
そう思った僕は、体温計に手を伸ばす。何となく寒気がしていたのは夢のせいではなかった。
……37.6℃。
どうやら風邪を引いた様だ。
「……自分で風邪を引かない様にって言ったのに、かっこわる……」
昨日の真理さんとの別れ際に、捨て台詞の様に吐き捨てた言葉を思い出した僕は、自分が凄く情けなく思えた。
通り雨に打たれたからなのか、考え過ぎからくる知恵熱か、それとも心労なのかは分からなかったが、おそらくは全部なのだろうと僕は思った。
昨日帰宅した僕は、麻友が帰っている事を確認して、冷えた身体を温める為にすぐにシャワーを浴びた。
シャワーから出た後に皆で夕食を済ませる。でも、約束の宿題は見てやれなかった…………昼間の真理さんとのやり取りに、心が酷く疲れていたからだ。
自分の部屋に戻った僕は、すぐにベッドに横になる。にわかには信じられない話の数々に、納得のいく答えを出せなかった僕は、そのまま死んだ様に眠り、今朝に至る。
ーーーー
麻友に聞いたのか、心配そうに母が僕の部屋に入って来た。
「ソラ、大丈夫?熱はあるの?」
「……ん……少し」
「病院に行くって言っても日曜日だし、救急で入る?」
「大丈夫。今日は風邪薬を飲んで様子を見てみる」
「そう……。じゃあとりあえず学校の方には部活をお休みするって電話しておくわね」
「ありがとう」
正直部活どころではなかったので丁度良かった。
「じゃあお母さんパート行ってくるから。麻友、後はお兄ちゃんをお願いね」
「はーい」
母に頼られたのが余程嬉しかったのか、麻友も「今日は私に任せて」とはりきっている様子だった。
麻友と二人きりになった僕は、風邪薬を飲むために朝食をとる事にした。何とかベッドから起き上がり、フラフラとおぼつかない足取りでキッチンへと向かう。
テーブルの席につき、朝食のトーストを口に運ぶが、熱のせいか殆ど食欲は無い。
「お兄ちゃん大丈夫?」
心配そうに麻友が話しかけてきた。僕は昨日の麻友との約束の事を気にしていた。
「うん、大丈夫。それより昨日は宿題見れなくてごめんな」
「大丈夫だよ。後は一人で出来るから」
「だからお兄ちゃんはゆっくり休んでて」
具合の悪い僕を庇ってか麻友が気を使ってくれている。
「そっか、ありがとう。そう言えば読書感想文はもう終わったの?」
「もう少しかな……」
「じゃあ先に読書感想文を終わらせて、お兄ちゃんの風邪が治ったらドリルを一緒にやるか」
「うん。分かった」
少しだけ朝食を食べた僕は、風邪薬を飲みもう一度寝ようと自分の部屋に戻る。
部屋に戻った僕は、ベッドに仰向けに横になり、タオルケットを掛けてゆっくりと目を擦る。……グルグルと回る意識の中、足側のベッドが浮き上がり、逆さまに何処までも頭の方に落ちて行く感覚に襲われた。「典型的な熱の症状だな……」などと考えていた僕は、いつの間にか浅い眠りについていた。
ーーーー
ーー僕はまたあの河川敷に居た。
(またあの夢だ……)
すぐに夢の続きだと思ったが、今朝に見た夢とは少し様子が違う事に気付く。
夕暮れ時の河川敷に少女が居る。だがその両隣には母親と父親らしき人物が少女の両手を繋いで、三人仲良く歩いていた。
「……良かった。見付かったんだ」
無事に両親と再会出来た事に嬉しくなった僕は微笑んでいた。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、次の瞬間突然周囲の景色が真っ赤な炎に包まれる!
「わっ!!」
突然の出来事に怯んだ僕は咄嗟に右手で顔を庇い、目を閉じて後退さる。ゴオッと地鳴りの様な音をあげながら、凄まじい勢いで迫り来る炎に熱を…………感じない。まったく熱くはないのだ。
(……あれ?)
おかしいなと思った僕は、おそるおそるも薄目を開けてみる。すると、目に写る全ての物を飲み込もうと眼前にまで迫っていた炎は、既に跡形も無く消えていたのである。
(何だったんだ今のは?)
「……そういえばあの家族は?」
心配になった僕は視線を家族の方に戻す。
ーー!?
さっきまで少女の手を握っていた両親が居なくなっている。何処に行ったのだろうかと、辺りを見回すが人影は無い。
(……これって……)
ーーまた一人になってしまった少女が、泣きながら叫んでいる。今度は少女が叫んでいる言葉がハッキリと聞こえる。
「……パパ……ママ行かないで……」
「……代わりに……あの人を連れてって……」
そう言って少女がこちらを振り返る。
「……うわぁ!!」
悲鳴の様な声を上げ目が覚めた僕は、ビッショリと汗をかいていた。
「またあの夢か……」
今朝の夢とは少し違っていたのが気にはなったが、それよりも汗で濡れたパジャマの方が気持ち悪い。時計を見ると既に三時間程過ぎていた。
「……そんなに眠っていたのか……」
パジャマを替えようとTシャツを持って洗面所へ向かう。居間では麻友が読書感想文の続きをやっている様だった。
「……怠い……」
さっきより上がった様に感じる熱のせいか、意識は少し朦朧としている。汗で濡れた上着のボタンを外して裸になったその時、僕の胸からお腹の辺りが透けているのであった。
「……!!」
驚き過ぎて逆に声が出ない。サァーッと頭から一気に血の気が引いていくのがハッキリと分かる。全身の力を失った僕の身体は、まるで操る糸が切れた人形の様にそのままドスンと大きな音を立てて尻もちをついた。
「……ッ痛……」
倒れた拍子に洗面台の角で少し手を切ってしまう。しかし、僅かに流れて来るその血までもが透明になっていたのだ。
「……ヒィッ……」
何が起きているか理解出来ない僕は、口は半開きのままで目の焦点が合わない。心臓の鼓動が張り裂けんばかりに速くなる。ガタガタと恐怖で震えるその足までもが、段々と透明になっていくのが嫌でも視界に入る。
「どうしたのー?」
倒れた音が聞こえたのか居間から麻友が声をかけてきた。
「く……来るなッ!」
咄嗟にはだけた胸を隠し大声で叫んだ僕は、自分のその声で我に返る。
「お兄ちゃん?」
大声で叫んぶ僕を心配して麻友が洗面所に顔を出す。
「……大丈夫。ちょっと転んだだけ……」
そう言って僕は麻友に脇目も触れずに急いで部屋へと戻った。
「ハァ……ハァ……」
熱と受け入れ難い出来事で、頭はまだ混乱していた。呼吸がうまく出来ない。目の前が真っ暗になった様にさえ感じる。
(……死にたくない……)
数日前まで普通の高校生だった僕に、突然突き付けられた「死」という恐怖。ガチガチと震える唇は、もう自分の意思とは無関係だった。
タオルケットを頭まで被り、全身を子猫の様に丸めて震えている僕は、声を押し殺して泣いていた。
「……うっ……うっ……」
何でこんな目に遭うのか?どうして自分なのか?何か悪い事をしたのか?もし神様が居るなら助けてほしい……。
三年前に父が亡くなった時「神様なんて居ない」そう強く心に思っていた僕が、今は神頼みをしている……。それほどこの現実が重くのし掛かってきていたのだ。
ーーガチャ
ふいに部屋のドアが開く。
「お兄ちゃん大丈夫?」
さっきの様子を心配して麻友が来た様だ。酷く取り乱していた僕を見て、ただ事では無い雰囲気を感じ取っていたのかもしれない。
独りになりたかった……誰にも知られたくなかった……ましてや家族には。
「……麻友、お願いだから独りにして……」
泣いている事を悟られたくない僕は、なるべく穏やかな口調で麻友に頼んだ。
「……うん。分かった。ケガしたみたいだから絆創膏を置いてくね」
「それと、何かあったらすぐ呼んでね」
「……ありがとう……」
麻友の優しさが余計に胸を締め付ける。僕は、ただひたすらに咽び泣く。錯乱している今の状態では、もはや何が正常かも分からなかった。
動き始めた運命……。
二度と抜け出せない底無し沼に、まるで誘い込まれるかの様に嵌まった僕は「死にたくない」と、もがけばもがくほど、深く……とても深く、絶望と言う名の闇へと引きずり込まれて行く……。
ーー夏祭りまで、あと一週間だった。