5月4日 作曲家との打ち合わせ
パンの焼ける良い香り。
行きつけの中華料理店とは全く別の暖かさに浸っていた。
海浜駅の傍にあるベーカリー「シャーロック」。イートイン式になっているパン屋で食べる焼き立て菓子パンは、まさに絶品だ。口の中に入れた途端、ほんわりと溶けていく。紅茶を啜りながら海を眺めると、なんだかロマンチックな気分に浸りそうだ。もし、目の前に居座る男がカッコいい彼氏だったら、菓子パン以上に甘い気分になるのだろう。
しかし、悲しきかな―――私の前にいるのはイケメンではなく、剣道部崩れの阿佐ヶ谷だ。普通のパンを次々に頬張る姿は、いかにも部活帰りの男子高生。全く、ときめきとか浪漫を感じない。
「たまに光るんだけどな……」
「ん、何か言ったか?」
口に詰め込んだパンを飲みこんだ阿佐ヶ谷が、不思議そうに尋ねてくる。
私は、疲れたように首を振るった。
「別に。それで、曲は何とかなりそうなんだよね?」
「うむ、清水先生のお蔭で――米山貴和氏なる作曲家に依頼することが出来た」
阿佐ヶ谷は腕を組んで、ゆっくりと頷いた。
まだメールでしか連絡を交わしたことが無く、実際に会うのは今日が初めてになる。本来なら都会へ此方が出向くべきなのだが、先方の作曲家――米山貴和が「うろな町で良い」と言ってきたので、私達で指定してしまった。さすがに、いつもの中華料理店は常連ではないと入りにくいので、比較的所見でも入りやすく、かつ落ち着いた店を指定したのだが――
「――来ないよね?」
時計を見る。
待ち合わせの時間は、半刻も過ぎていた。
見落としているのかもしれないと、ぐるりと周囲を見渡してみる。しかし、米山らしき男性はいない。決して広いとはいえぬ店内には、3,4人の女性がいる。楽しげにおしゃべりをする2人組や、姉御肌な店長と楽しげに話す常連さん。斜め前のテーブルに腰かける女性のように、1人優雅にコーヒーを啜る人など時間の過ごし方は様々だ。周りの人を観察していると、斜め前の女性と目が合ってしまい、そそくさと視線を逸らす。
「時間を間違えたのかな?阿佐ヶ谷君、連絡した?」
「いや、確かに15時だと連絡したぞ?」
阿佐ヶ谷は、少しムッとした表情になった。
どこか斜め前に突き進む猪マネージャーのことだから、焦って時間を伝え間違えたということは十分にあり得る。私は小さくため息をついた。
「気長に待つか」
あんぱんを、はむりと食べる。
上品な餡子の味が、口の中に蕩けていく。コーヒーではなく、緑茶を注文すればよかったと一瞬後悔した。コーヒーのほろ苦さも好きだけれども、このあんぱんには緑茶の渋さが似合う気がする。
「せっかく時間があるから、今後の行動方針について話し合うぞ?」
「了解」
阿佐ヶ谷の表情は引き締まり、一気に仕事の顔へと変わった。
私も心なしか背筋を伸ばし、食べかけのパンを皿に置いた。別に食べ続けていてもいいのだが、この打ち合わせは自分の未来に関わってくることなのだ。悠長に食べているわけにはいかない気がした。
「曲が出来上がったら、ひたすら歌の練習でしょ?
レコーディングが終わり次第、振り付けを必死に覚える」
「それで、MV撮影だ。続いて特典映像撮影。それから、本格的な宣伝活動へと移行する」
ここまでを5月中に乗り越えなければならない。
MV撮影予定日は、既に5月末だと決定している。実質的に、歌もダンスも2週間足らずでマスターしなければならないのだ。そう思うと、どこか弱気になってくる。
「壁は高いな」
ぽろり、と言葉が零れた。
本当に無意識で、口から飛び出た言葉に自分で驚いたくらいだ。そんな私を見て、阿佐ヶ谷は
「あぁ、決して低くはないが乗り越えられぬ壁ではないだろ」
心地よいまでにキッパリと言い放った。まるで、私の不安を一蹴する様に。
しかし、阿佐ヶ谷はどこか難しい顔をしていた。いつも以上に厳しい顔のまま、一枚の紙を取り出す。何か乗り越える秘策でも書いてあるのだろうか。意気揚々と覗きこんでみたのだが、何も書かれていない。目が痛くなるくらい真っ白い紙が、私の前で翻った。
「何?」
「今のお前の状態だ。ネットで検索をかけてみても、知名度は0だ」
「ぐっ」
突き刺されたような痛みが奔る。
デビューもしていないのだから当然だが、こうも現実を直視してしまうと心痛いものがある。もちろん、デビューさえしてしまえば――少なくとも、ネットでヒットしないということはなくなる。だが――
「日本一になる女が、こんな腑抜けた検索結果でいいのか!?」
「い、良いわけないじゃん!」
はた、と我に返った。
「のんびりとパンを食べているよりも、カラオケに行って歌の練習した方が、遥かに時間の有効活用なのかも」
今度は、無意識ではない。
白い皿に映えた食べかけのパンを、ぼんやりと見下ろす。あと一口、残ったパンを口に放り込み、米山貴和氏との接見は阿佐ヶ谷に任せよう。
「そうだ、練習しなくちゃ!」
私は代金を机の上に置くと、勢いよく立ちあがった。
「ごめん、私――カラオケ行く!少しでも、練習しないと間に合わない!!」
そのまま駆けだそうとした私の腕を、阿佐ヶ谷が逃がさないと言わんばかりにつかんだ。
左腕がやられているとはいえ、剣道部の主将まで務めた男だ。使える腕が右だけになろうとも、その俊敏さは衰えていない。振りほどこうとしたが、阿佐ヶ谷は全く動かなかった。
「歌も振り付けも出来ていないのに、何を練習するんだ?」
「基礎練習に決まってるでしょ?少しでも時間があるなら、行動しないと!」
作詞は無事に終わり、一時の休暇みたいに弛んでいたが―――それではいけない。
私はネット上でも無名で、レーベルにも力が無いアイドルだ。だからこそ、人の倍以上努力しないと伸し上がれない。こんなところで―――ぼんやりアンパンを食べている場合ではないのだ。
「そうか」
しばらく黙っていた阿佐ヶ谷だったが、観念した様に呟いた。
はらり、と腕を離す。阿佐ヶ谷の離した腕には、赤い痕がついていた。
「事務所の練習室をつかえばいい。家よりも広々と使えるはずだ」
「ありがとう!」
それは、阿佐ヶ谷なりの応援だったのだろうか。
私は店の外へ飛び出す。雲一つない青空の下、私は勢い良く地面を蹴った。
「ふーん、あれが飯田夏音ねぇ」
飯田夏音の背中が小さく消えた頃、1人の女性が呟いた。
阿佐ヶ谷は、ゆっくり斜め後ろの女性――つまり先程、夏音と目が合ってしまった女性を振り返る。
「どうです?URONAレコード期待の新人であり、10年に一度の逸材アイドルですよ?」
阿佐ヶ谷は挑戦っぽい口調で、女性に語りかける。
女性は、面白そうに口元を歪めていた。
「まぁ、しっかり観察できたから良かったけど。でも、待ち合わせをほったらかして練習だなんて――ねぇ」
「それが飯田夏音です。カレーを煮込めば煮込むほど旨味が出るように、追い詰めれば追いつめる程、成長していくアイドルですよ―――米山氏」
最後の一言を発した瞬間、女性の雰囲気ががらりと変わる。
眉をひそめたかと思うと、どことなく太い腕をダンっと机に叩き付けた。そして、黒いオーラを放ちながら悪魔のような微笑みを浮かべ――
「私のことは、ジョアンナと呼びなさいと言ったわよね、マネージャーの坊や?」
「す、すみません」
阿佐ヶ谷は、慌てた頭を下げる。
本名、米山貴和氏――有名作曲家ジョアンナは、ふんっと鼻を鳴らした。
「3日待ちなさい。曲を作ってあげても良くってよ。
最近にしてはベタであり珍しいアイドルみたいだから」
ジョアンナは、長い金髪を靡かせる。
紅いヒールを鳴らし、颯爽と店を出るその姿は、誰がどう見ても優雅な女性にしか見えなかった。
弥塚泉さんから、ベーカリー「シャーロック」をお借りしました。




