6月25日 2人目
私は、冷たい壁に寄りかかる。
身を屈め、そっと扉の向こうに目を走らせる。およそ前方20メートル、誰もいる気配は無い。駆けだすなら、今だ。私は深呼吸をすると、勢いよく床を蹴り――
「何をしているんですか?」
「ひゃっ!」
突然、後ろからかかった声に跳び上がってしまった。
帰りのホームルームを免除してもらい、人の眼を掻い潜りながら抜き足差し足ようやく辿り着いた校舎裏。人通りの少ない裏門まで、あと少しだというのに、ここで誰かに見つかって騒ぎ立てられたら元も子もない。今日は、アクセルの新メンバーとの顔合わせなのに――。急いで事務所に行かなければならないのに―――。
これから起こり得る展開に、思わずギュッと目を瞑った。しかし――
「こそこそ辺りを確認しながら下校とは、不審者の真似事ですか?」
かけられた言葉は、予想外のものだった。
少なくとも、私の周りで騒ぎ立てる野次馬たちでは無さそうだ。そっと振り返ってみれば、そこには人形のような美少女――大和 奏先輩が佇んでいた。大和先輩は、脱走しようとする私を無表情で見つめている。
「あー、その……大和先輩、何か用ですか?」
正直言えば、この先輩は少しだけ苦手だ。
常に冷静沈着な美少女――といえば、聞こえはいいけれども、氷のように無表情で、驚異的な運動神経を隠し持っている。ついこのあいだ、3年生のテニス部員を相手に、初心者ながら圧倒したという噂を聞いたばかりだ。
その上、つい先日――そう、ちょうど土曜日に行われたライブが終わり、ホッと一息ついていた昼下がりのこと。突然、教室に入って来たかと思えば「一緒に来て貰わないと、都合が悪い」と言われた。さしたる理由も無いようだったので、拒否したところ、今度は軽軽と抱えられ校舎裏まで連れて来られてしまった。抵抗しようと手足を動かしたのだが、まったくもってビクともしない。腹に一撃裏拳を喰らわせてみたのだけれども、金属のように硬くて、逆に私が拳を痛めてしまった。
……ちなみに、彼女は飯田夏音のファンを名乗る先輩に「連れて来てくれ」と頼まれただけだったらしい。サインを書いたら、結構あっさり教室に戻ることが出来た。
阿佐ヶ谷と拳を交える大和先輩の姿を尻目に、だけど。
暴漢目的で拉致されたと思い込んだ阿佐ヶ谷が、校舎裏まで飛んできて、大和先輩と応戦状態になったのだ。長年剣道で鍛えてきた体育会系の阿佐ヶ谷に、文化系の細腕で対抗する大和先輩に、少なからず恐怖を覚えてしまったのは――彼女には悪いが、無理もないのかもしれない。
「怪しげな行動をしていましたので、追いかけてきただけです。
飯田さんは、帰りのホームルームに出なくていいのですか?」
「えっと、この後仕事があるので、学校にホームルーム免除の許可を取ったんです」
正直に応えると、大和先輩は無常上のまま疑問を返してきた。
「伊吹さんもアイドルですが、このような不審者を連想させる下校はしていませんよ?」
「……伊吹さんは、別格ですから」
私は、はははと乾いた笑みを浮かべた。
伊吹琴乃先輩は、私より遥かに先にデビューして、なおかつ売れているアイドルだ。スキャンダルを乗り越えてなお、アイドルとしての自覚と誇りを持っている彼女は、こうしてこそこそ逃げ出すような真似をしない。むしろ、どうどうと正面から逃げ出すだろう。
私みたいな、成り上がりの炎上アイドルとは違う――
「って、そのことは置いておいて!
その、ちょっと今は私の周りが、あまりにも騒がしいので、こうして、こっそり帰ることにしているんです。今なら、裏門に誰もいませんし」
「……裏門に人ならいますよ?」
若干、大和先輩の顔に怪訝そうな色が映った。
「え?」
「銀杏の陰に1人、プール脇に1人カメラを構えた不審者が隠れています。
こっそり出ていくのであれば、体育館裏の塀を越えて出て行った方が良いかと思います」
「……あ、ありがとうございます」
この位置からだと、銀杏の木なんて見えないし、プール脇なんてもっと見えない。どうして分かったのか理解に苦しむが、きっと超人的な大和奏先輩が言うのだからそうなのだろう。
深く考えるのは駄目だ。私は大和先輩に礼を言うと、扉を潜り体育館裏へ駆けるのだった。
「貴方が、飯田夏音さんですね」
やっとの思いで、事務所に転がり込む。すると、柔らかそうな笑みを浮かべた少女が待っていた。カチューシャのようなヘッドドレスと、くるりとした巻き毛が特徴的な少女の後ろにはパソコンが置かれている。ちらりと画面に目をやれば、ついこのあいだ録音したばかりの実況動画だという事が分かった。情けない私の悲鳴と、巡さんのプロ級の悲鳴が聞こえてくる。
「飯田さんは、多趣味ですね。お母さん――じゃなかった、私、嬉しいわ」
「……お母さん?」
気のせいか、今――妙な言葉が聞こえた。
「お母さん」だなんて、アイドルから発せられるとは到底考えられない。言葉の意味を考えていると、少女は私の手を握った。柔らかい手が武骨な手を包みこむ。
「私、花織優華と申します。これから一緒に、頑張りましょう!」
「は、はい!」
どうやら、彼女がアイドルとして一緒に頑張る仲間らしい。
同年代のはずなのに、どことなく年上臭がする。いや、年上臭じゃない。どことなく暖かい包容力というか、なんというか――。
「でも、飯田さん? ちゃんとご飯食べてる? 顔色悪いわよ」
暖かさの意味を考えていると、花織は私の顔を心配そうに覗き込んでくる。
これから仲良く切磋琢磨する相手に、いきなり体調を気遣われるとは。私は、何でもないと首を横に振る。
「えっ? いや、ちゃんと食べましたけど――」
「朝、何食べた?」
「えっと、作る時間が無かったので、冷凍食品を適当にチンして――」
「ダメよ!栄養バランスを考えた食事をとらないと!
お母さんが作ってあげるから、そこに座ってて」
「……へ?」
困惑する私をよそに、花織は意気揚々と備え付けの台所へと歩いていく。
何、お母さん?誰の?私の?……いや、絶対に、私と彼女には血の繋がりが無い。それは、100%断言できることだ。第一、何処からどう見ても、彼女は私と同年代にしか見えない。若作りにも程がある。
「おっ、美味そうな匂いだな」
書類を抱えた阿佐ヶ谷が、部屋に入ってきた。
ニボシから出汁を取る花織に一切動揺することも無く、阿佐ヶ谷は私の隣に腰を掛ける。まがりなりにも、阿佐ヶ谷は私達のマネージャーだ。きっと、何か事情を知っているはず。私は、阿佐ヶ谷に詰め寄り耳元でささやいた。
「ねぇ、あの人――いきなり料理作り始めたんだけど? というか、お母さんって何?」
「ん?あぁ、花織は『お母さん系アイドル』を目指している。
つまり、包容力のあるアイドルだな」
阿佐ヶ谷は、何でもないように言ってのける。
呆気にとられる私をよそに、味噌汁うまそうだなーと幸せそうに阿佐ヶ谷は言い放ち、花織は鼻歌交じりにネギを刻む。そんな2人の姿を見て、私は小さくため息をついた。
「……この事務所に、正統派や清純系はいないの?」
これが、私と花織優華との出会いだった。
アッキさんから、花織優華さんを
綺羅ケンイチさんから大和奏さん(と、伊吹さんを名前だけ)をお借りしました。