彼女が眼鏡をかけた理由
その頃まだ、獣人は少女でした。
親や部族から離れ、少女は一人、獣の群れで育ちました。
どうしてこんな暮らしになったのか、それは少女にもわかりません。
群れの獣たちは、獲物の取り方や野山の暮らしについては教えてくれましたが、それ以外のことは教えてくれませんでした。
少女にはそれで充分でした。
同じ土地には、他にも獣たちや、人間の猟師や、ゴブリンやオークといった魔物たちが住んでいます。
彼らとの獲物の奪い合い。自然の中で寝て起きる日々。
何日もごはんが食べられないこともあったけれど、それでも少女は生きていました。
死んでしまうものもいました。少女にはまだ「死んでしまうことの悲しみ」は早かったので、ただただ怖かったことをおぼえています。
ある日、少女は捕らえられました。
気づけばそこは、人間が住む大きなお屋敷の中です。
お屋敷には仲間の獣はいません。獲物を奪い合った、猟師や魔物もいません。
さびしくて泣いてしまうこともあったけれど、ねぐらはいつもあったかくて、ごはんがいつでも食べられました。
「かわいいい獣人だねえ。お前、名前はなんて言うんだ?」
「かわいい?」
「かわいいって、わからないか? 少しずつ人間の言葉を覚えて行きなさい。それよりお前の名前だよ、名前」
「なまえ」
「名前がないのか? そうだねえ、お前は……レパルドだ。どうだいレパルド、いい名前だろう!」
「れぱるど」
言葉を教えられ、服を着せられ、名前を与えられて。
今までの暮らしには無かったことばかりで、難しいことも多かったけれど、少女は楽しくもありました。
寝るときに一緒にくっついてくれる、仲間の獣のふさふさとした毛は、ここにはありません。
それでもねぐらはいつもあったかくて、ごはんがいつでも食べられました。
さびしくて、泣いてしまうことも、あったけれど。この檻の中だと、誰も死にませんでした。
たまに人間の狩りに付き合わされることもありました。そんなときは、首に鎖を付けられました。
野山の中で、走り出してどこかに行ってしまいたい気持ちが、わき上がります。
でも、あったかいねぐらと、いつでも食べられるごはんのことを思って、それはやめておくことにしました。
獣人の少女は、人間に大事に育てられました。
ときどき檻の中に別の生き物が増えたり、違う檻に魔物が入れられてきたりすることもありましたが、みんないつの間にかいなくなりました。
少女はすでに少女ではなくなっていました。時間がたち、人間の言葉もおぼえました。
ある日のことです。
檻の鍵が開いていることに気づいた獣人は、檻を抜け出しました。
よくきく鼻や、身のこなしの素早さで、人間のお屋敷をあちこち歩いて回ります。見つかったら怒られそうなので、誰にも見つからないように。
けれど、お屋敷の中を歩き回ったことはほとんどありませんし、いろんな臭いが混じりあってしまって、獣人は迷子になってしまいます。
「ここはどこだろう?」
そう思いながら入り込んだ小さな部屋には、たくさんの本と、大事そうに布にくるまれた品物が、ありました。
ためしに本を読んでみました。
そこに書かれている文字は、獣人が教わった文字と違って、とても小さな字です。
一枚の紙に、いっぱい言葉が書かれていて、彼女には読むのが大変でした。
本の近くには、眼鏡が置いてありました。
人間が本を読む時、これを顔につけていることがあるのを思い出した獣人は、眼鏡をかけてみました。
大丈夫です、これなら読めます。書いてあることの意味はよくわからなくても、これなら文字を読むことは出来ました。
そんな本の中で、読んでいて意味が分かる本がありました。
そこには彼女のことが書かれていました。何年にもわたって、書かれていました。彼女をほめる言葉が、いっぱい書かれていました。
これは、人間の日記です。
人間の日記には、獣人以外の別の生き物や、魔物のことも書かれていました。
獣人と同じ檻や、違う檻に入れられていた、ものたち。いつか出会ったことのある彼らの、その暮らしぶりについて書かれています。
商人や見世物小屋から、『買った』とか、『売った』とか、『下げた』とかも、書かれていました。
『下げた』場所が地下だとも、書いてありました。
「何を『下げた』んだろう?」
気になった獣人は、部屋から出て、地下への階段を探し、こっそり降りてみました。
地下にはたくさんの檻がありました。
獣人がいつもいる檻とは違った、陰気な檻。
檻の中には、獣人が会ったことのある生き物、魔物、会ったことのないものもいます。
檻の中にいた一匹の小悪魔が、言いました。
「おや、お前も遂に『下げられた』のかい。まあでも、長い間お気に入りだったみたいだから、俺らよりはだいぶ、マシだろうね」
獣人はびっくりして、地下から出ました。
獣人は、人間に大切に育てられました。
地下の檻にいたものたちも、獣人と同じように地上の檻にいた時は、大切にされていたはずです。
でも地下のあの様子は、それほど大切にされているようには、見えませんでした。
『下げられた』からでしょうか。
もう一度日記を読み返して、気持ちを整理してみよう。獣人はあの部屋に戻ることにしました。
人間たちは、獣人が檻を抜けだしたことに気づいた様子で、ものものしくお屋敷の中を探しまわっています。
慎重にそれを避けて、本のあった小部屋に戻ります。
日記を読み返しました。
地下のあの様子を見た後で読み返すと、日記の中身がもっとよくわかりました。
彼らが、獣人と比べられていたこと。
比べた上で、地下に『下げられた』こと。
日記にはこう書かれていました。
「レパルドは成長し、今や大人の人間と変わらないようになってきている。この子を下げることはもうないだろう。檻から出してもいいのではないか」
古い日記もありました。そこにはこう書かれていました。
「レパルドは成長とともに新たな発見がある。どんな物珍しいペットと比べても、下げることがない。素晴らしい」
もっと古い日記もありました。そこにはこう書かれていました。
「拾った獣人を今日、檻に入れた。名はレパルドとした。お互いにとってあの事故が、不幸中の幸いとなるかもしれない。そう予感させる子だ」
「あの事故ってなんだろう」
そう思って獣人はページをめくります。
するとそこには、人間が獣の一団と出くわしたことや、戦ってそれを倒したことが、書かれていました。
獣の一団には獣人の子供が混ざっていたこと、その子供を連れ帰ったことなども、書かれています。
倒した獣は立派な毛並みだったので、剥製にしたとも書かれていました。
獣を檻に入れたかったけれど、代わりに獣人の子供を拾ったので、こちらにしようとも、書かれていました。
獣人は気づきました。
この小さな部屋には、たくさんの本と、大事そうに布にくるまれた品物が、あります。
この布にくるまれた品物は、もしかすると。
おそるおそる、布を取り払いました。
「レパルド! こんなところにいたのか!」
人間が、小部屋にいる獣人を見つけ、声をかけました。
何が起きたのか、獣人にはわかりませんでした。
なんだか、思い出せない夢を見ていたみたいです。
いつの間にか、目の前には人間が倒れていました。
獣人は血の臭いを感じました。
床には血が広がっていましたし、獣人の口にも、血が付いています。
「ご主人……様……? おい、こっちだ! ご主人様がお倒れになっているぞ!」
「レパルドだ!! しまった、手遅れだったか!」
お館のいろいろな人間が、次々にやってきます。
獣人は、威嚇の叫び声を上げました。
そして、散らばった本の中から日記を拾い、小部屋の窓を破って、逃げ出したのです。
人間たちは口々に、「待て」とか、「追え」とか、「いいんだ」とか、言っていました。
逃げながら獣人は考えました。
あのまま怒り狂って、あの場にいる人間を皆殺しにしようとしても、おかしくなかったはずなのに。
どうして逃げ出したのだろう。
それは、檻の中で育てられた自分が、あそこで大勢の人間と戦っても、勝てないだろうと判断したから。
どうしてそんな判断を、したんだろう。
それは、自分が賢いから。
賢いのだったら、こんな日記を持って逃げるなんて、無意味なことはしなかった。
ましてや、日記だと思って持ってきた本は、日記じゃなくて、難しい言葉の並んだ本だった。
自分は、賢くない。
獣人は、賢くなろうとしました。
戦えるだけの力も身につけようとしました。
人間に与えられたあたたかいねぐらも、ごはんも、もうないのです。
それどころか、人間は獣人を追い立てました。「あれは捕まえなくてはならない」と、どこまでも追ってきました。
死なないために獣人は、賢くて強くならなければ、ならないのです。
難しい本をなんとか読み続けながら、獣人は、逃げました。
本で覚えた方法で、自分で怪我の手当をしたり、薬を作ったりしました。
その方法が間違っていて、大変な思いをしたこともありました。
そういう時は本を何度も読み返して、文章を読み間違えていた所に気づき、やりなおして成功することもあったのです。
いつの間にか獣人は、本と眼鏡が手放せなくなっていました。
何度か冬を越しました。
逃げ続けて、疲れて、洞窟の中に、獣人は迷い込みます。
追っ手はもう来ないはず。今もし来たとしたら、戦える力や逃げる力が、あるかどうか。
静かに息を殺しながら、獣人はそんなことを考えていました。
ところがそんな時、近づいてくる人間がいたのです。
「……あれ? 新しい子?」
黒い服の若い女でした。
武器は持っていないものの、もしかすると追っ手が雇った魔法使いかもしれません。
「わー、獣人で眼鏡かけてるのって珍しくない? あっ、本とか持ってる! 勉強家なのかなー」
寄ってくる人間を前にして、獣人は立ち上がりました。
牙をむき、爪を鳴らして、後ずさりをします。
戦う力は残っていなくても、それを見せたら、つけこまれてしまいます。
「寄るな、人間」
「あたし人間じゃないよー。アンデッドだから」
「は? バカなことを言うな。死臭がしない」
「でもほら、ね?」
獣人に触れてきた手は、とても冷たいものでした。
確かに、まるで死人の手のようです。
それにも驚きましたが、逃げることも出来ずに一瞬で手を掴まれたことに、獣人はもっと驚きました。
振り払おうかとも思いましたが、それよりも獣人はもう、疲れてしまっていたのです。
獣人は、おとなしく座り込みました。
「……死体なら、いいか」
「あっ、そういう言い方はないよ! 確かに死体だけど! あたしはね、ゴシカっていうの。あなたの名前は?」
ニコニコ笑いながら、ゴシカは聞きました。
「……レパルド、だ」
「へえ、レパルド? かわいい名前!」
人間に付けられた、しばらく使うこともなかった名前を思わず言ってしまったのは、逃げ続けた疲れのせいだと思うことにしました。
「ふん。名前にかわいいも何もない」
「えっ、レパルドって、かわいいとか言われるの嫌いな方かな? えっと、じゃあ……いい名前?」
「いい名前のわけがあるか。そもそもわたしは調査分類上、ワークリーチャー属ワータイガー門の獣人だぞ。トラならまだしも、レパードとはなんら関係ないのだ」
「……何それ、今の専門用語! かっこいい! 頭良さそう!」
「黙れ、騒ぐな。本で少し学んだだけだ」
「その本で!? そんなこと出来るのレパルド! わー、面白い! 詳しく聞かせてー!」
「ぐいぐい来るな。わたしは疲れているのだ」
「あっ、ご、ごめんね? あたし疲れるとかよくわからなくって! 何かごはんとか持ってくる?」
「……。貴様に、用意できるのならな」
久しぶりの話し相手は、死体らしくない死体でした。獣人は戸惑いました。
少し、安心もしました。
「ごはん何か探して持ってくるから、そしたらあなたの話、もっと聞かせてね? なんだか楽しそう!」
「……いや。おい、ゴシカと言ったな。食料だけでは足りん。話してやってもいいが、もうひとつ条件がある」
「もうひとつ、条件?」
「ああ。わたしは……ここをねぐらにしたい。いいか、ゴシカ?」
「うん! そうしなよ、レパルド!」
獣人はごはんを食べながら、今まで自分に起きたことを、話しました。
死体の女王はその話を聞いて、驚いたり、悲しんだりしました。
ここは、薄暗くてじめじめした洞窟です。それでも、雨や風は防げます。
地上に比べれば狭いけれど、獣人のいた檻よりは、ずっとずっと広いところでした。
そして、話し相手がいました。
こんなに話をしたのは、いつ以来だったでしょうか。
暗いけれど、寒くもない洞窟の中で、獣人は話をし続けました。
まるで人間のような、死体に向かって。ずっとずっと、眠くなるまで、話をし続けました。
死体はずっとずっと、その話を、聞き続けました。