表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

79/92

彼女が眼鏡をかけた理由

 その頃まだ、獣人は少女でした。

 親や部族から離れ、少女は一人、獣の群れで育ちました。

 どうしてこんな暮らしになったのか、それは少女にもわかりません。

 群れの獣たちは、獲物の取り方や野山の暮らしについては教えてくれましたが、それ以外のことは教えてくれませんでした。

 少女にはそれで充分でした。


 同じ土地には、他にも獣たちや、人間の猟師や、ゴブリンやオークといった魔物たちが住んでいます。

 彼らとの獲物の奪い合い。自然の中で寝て起きる日々。

 何日もごはんが食べられないこともあったけれど、それでも少女は生きていました。

 死んでしまうものもいました。少女にはまだ「死んでしまうことの悲しみ」は早かったので、ただただ怖かったことをおぼえています。


 ある日、少女は捕らえられました。

 気づけばそこは、人間が住む大きなお屋敷の中です。

 お屋敷には仲間の獣はいません。獲物を奪い合った、猟師や魔物もいません。

 さびしくて泣いてしまうこともあったけれど、ねぐらはいつもあったかくて、ごはんがいつでも食べられました。


「かわいいい獣人だねえ。お前、名前はなんて言うんだ?」

「かわいい?」

「かわいいって、わからないか? 少しずつ人間の言葉を覚えて行きなさい。それよりお前の名前だよ、名前」

「なまえ」

「名前がないのか? そうだねえ、お前は……レパルドだ。どうだいレパルド、いい名前だろう!」

「れぱるど」


 言葉を教えられ、服を着せられ、名前を与えられて。

 今までの暮らしには無かったことばかりで、難しいことも多かったけれど、少女は楽しくもありました。

 寝るときに一緒にくっついてくれる、仲間の獣のふさふさとした毛は、ここにはありません。

 それでもねぐらはいつもあったかくて、ごはんがいつでも食べられました。

 さびしくて、泣いてしまうことも、あったけれど。この檻の中だと、誰も死にませんでした。


 たまに人間の狩りに付き合わされることもありました。そんなときは、首に鎖を付けられました。

 野山の中で、走り出してどこかに行ってしまいたい気持ちが、わき上がります。

 でも、あったかいねぐらと、いつでも食べられるごはんのことを思って、それはやめておくことにしました。


 獣人の少女は、人間に大事に育てられました。

 ときどき檻の中に別の生き物が増えたり、違う檻に魔物が入れられてきたりすることもありましたが、みんないつの間にかいなくなりました。

 少女はすでに少女ではなくなっていました。時間がたち、人間の言葉もおぼえました。


 ある日のことです。

 檻の鍵が開いていることに気づいた獣人は、檻を抜け出しました。

 よくきく鼻や、身のこなしの素早さで、人間のお屋敷をあちこち歩いて回ります。見つかったら怒られそうなので、誰にも見つからないように。

 けれど、お屋敷の中を歩き回ったことはほとんどありませんし、いろんな臭いが混じりあってしまって、獣人は迷子になってしまいます。

「ここはどこだろう?」

 そう思いながら入り込んだ小さな部屋には、たくさんの本と、大事そうに布にくるまれた品物が、ありました。


 ためしに本を読んでみました。

 そこに書かれている文字は、獣人が教わった文字と違って、とても小さな字です。

 一枚の紙に、いっぱい言葉が書かれていて、彼女には読むのが大変でした。

 本の近くには、眼鏡が置いてありました。

 人間が本を読む時、これを顔につけていることがあるのを思い出した獣人は、眼鏡をかけてみました。

 大丈夫です、これなら読めます。書いてあることの意味はよくわからなくても、これなら文字を読むことは出来ました。


 そんな本の中で、読んでいて意味が分かる本がありました。

 そこには彼女のことが書かれていました。何年にもわたって、書かれていました。彼女をほめる言葉が、いっぱい書かれていました。

 これは、人間の日記です。


 人間の日記には、獣人以外の別の生き物や、魔物のことも書かれていました。

 獣人と同じ檻や、違う檻に入れられていた、ものたち。いつか出会ったことのある彼らの、その暮らしぶりについて書かれています。

 商人や見世物小屋から、『買った』とか、『売った』とか、『下げた』とかも、書かれていました。

 『下げた』場所が地下だとも、書いてありました。

「何を『下げた』んだろう?」

 気になった獣人は、部屋から出て、地下への階段を探し、こっそり降りてみました。


 地下にはたくさんの檻がありました。

 獣人がいつもいる檻とは違った、陰気な檻。

 檻の中には、獣人が会ったことのある生き物、魔物、会ったことのないものもいます。


 檻の中にいた一匹の小悪魔が、言いました。

「おや、お前も遂に『下げられた』のかい。まあでも、長い間お気に入りだったみたいだから、俺らよりはだいぶ、マシだろうね」

 獣人はびっくりして、地下から出ました。


 獣人は、人間に大切に育てられました。

 地下の檻にいたものたちも、獣人と同じように地上の檻にいた時は、大切にされていたはずです。

 でも地下のあの様子は、それほど大切にされているようには、見えませんでした。

 『下げられた』からでしょうか。


 もう一度日記を読み返して、気持ちを整理してみよう。獣人はあの部屋に戻ることにしました。

 人間たちは、獣人が檻を抜けだしたことに気づいた様子で、ものものしくお屋敷の中を探しまわっています。

 慎重にそれを避けて、本のあった小部屋に戻ります。


 日記を読み返しました。

 地下のあの様子を見た後で読み返すと、日記の中身がもっとよくわかりました。

 彼らが、獣人と比べられていたこと。

 比べた上で、地下に『下げられた』こと。

 日記にはこう書かれていました。

「レパルドは成長し、今や大人の人間と変わらないようになってきている。この子を下げることはもうないだろう。檻から出してもいいのではないか」


 古い日記もありました。そこにはこう書かれていました。

「レパルドは成長とともに新たな発見がある。どんな物珍しいペットと比べても、下げることがない。素晴らしい」


 もっと古い日記もありました。そこにはこう書かれていました。

「拾った獣人を今日、檻に入れた。名はレパルドとした。お互いにとってあの事故が、不幸中の幸いとなるかもしれない。そう予感させる子だ」


「あの事故ってなんだろう」

 そう思って獣人はページをめくります。

 するとそこには、人間が獣の一団と出くわしたことや、戦ってそれを倒したことが、書かれていました。

 獣の一団には獣人の子供が混ざっていたこと、その子供を連れ帰ったことなども、書かれています。

 倒した獣は立派な毛並みだったので、剥製にしたとも書かれていました。

 獣を檻に入れたかったけれど、代わりに獣人の子供を拾ったので、こちらにしようとも、書かれていました。


 獣人は気づきました。

 この小さな部屋には、たくさんの本と、大事そうに布にくるまれた品物が、あります。

 この布にくるまれた品物は、もしかすると。

 おそるおそる、布を取り払いました。

「レパルド! こんなところにいたのか!」

 人間が、小部屋にいる獣人を見つけ、声をかけました。


 何が起きたのか、獣人にはわかりませんでした。

 なんだか、思い出せない夢を見ていたみたいです。

 いつの間にか、目の前には人間が倒れていました。

 獣人は血の臭いを感じました。

 床には血が広がっていましたし、獣人の口にも、血が付いています。


「ご主人……様……? おい、こっちだ! ご主人様がお倒れになっているぞ!」

「レパルドだ!! しまった、手遅れだったか!」


 お館のいろいろな人間が、次々にやってきます。

 獣人は、威嚇の叫び声を上げました。

 そして、散らばった本の中から日記を拾い、小部屋の窓を破って、逃げ出したのです。

 人間たちは口々に、「待て」とか、「追え」とか、「いいんだ」とか、言っていました。


 逃げながら獣人は考えました。

 あのまま怒り狂って、あの場にいる人間を皆殺しにしようとしても、おかしくなかったはずなのに。

 どうして逃げ出したのだろう。

 それは、檻の中で育てられた自分が、あそこで大勢の人間と戦っても、勝てないだろうと判断したから。

 どうしてそんな判断を、したんだろう。

 それは、自分が賢いから。


 賢いのだったら、こんな日記を持って逃げるなんて、無意味なことはしなかった。

 ましてや、日記だと思って持ってきた本は、日記じゃなくて、難しい言葉の並んだ本だった。

 自分は、賢くない。


 獣人は、賢くなろうとしました。

 戦えるだけの力も身につけようとしました。

 人間に与えられたあたたかいねぐらも、ごはんも、もうないのです。

 それどころか、人間は獣人を追い立てました。「あれは捕まえなくてはならない」と、どこまでも追ってきました。

 死なないために獣人は、賢くて強くならなければ、ならないのです。


 難しい本をなんとか読み続けながら、獣人は、逃げました。

 本で覚えた方法で、自分で怪我の手当をしたり、薬を作ったりしました。

 その方法が間違っていて、大変な思いをしたこともありました。

 そういう時は本を何度も読み返して、文章を読み間違えていた所に気づき、やりなおして成功することもあったのです。

 いつの間にか獣人は、本と眼鏡が手放せなくなっていました。


 何度か冬を越しました。

 逃げ続けて、疲れて、洞窟の中に、獣人は迷い込みます。

 追っ手はもう来ないはず。今もし来たとしたら、戦える力や逃げる力が、あるかどうか。

 静かに息を殺しながら、獣人はそんなことを考えていました。

 ところがそんな時、近づいてくる人間がいたのです。


「……あれ? 新しい子?」


 黒い服の若い女でした。

 武器は持っていないものの、もしかすると追っ手が雇った魔法使いかもしれません。


「わー、獣人で眼鏡かけてるのって珍しくない? あっ、本とか持ってる! 勉強家なのかなー」


 寄ってくる人間を前にして、獣人は立ち上がりました。

 牙をむき、爪を鳴らして、後ずさりをします。

 戦う力は残っていなくても、それを見せたら、つけこまれてしまいます。


「寄るな、人間」

「あたし人間じゃないよー。アンデッドだから」

「は? バカなことを言うな。死臭がしない」

「でもほら、ね?」


 獣人に触れてきた手は、とても冷たいものでした。

 確かに、まるで死人の手のようです。

 それにも驚きましたが、逃げることも出来ずに一瞬で手を掴まれたことに、獣人はもっと驚きました。

 振り払おうかとも思いましたが、それよりも獣人はもう、疲れてしまっていたのです。

 獣人は、おとなしく座り込みました。


「……死体なら、いいか」

「あっ、そういう言い方はないよ! 確かに死体だけど! あたしはね、ゴシカっていうの。あなたの名前は?」

 ニコニコ笑いながら、ゴシカは聞きました。


「……レパルド、だ」

「へえ、レパルド? かわいい名前!」


 人間に付けられた、しばらく使うこともなかった名前を思わず言ってしまったのは、逃げ続けた疲れのせいだと思うことにしました。


「ふん。名前にかわいいも何もない」

「えっ、レパルドって、かわいいとか言われるの嫌いな方かな? えっと、じゃあ……いい名前?」

「いい名前のわけがあるか。そもそもわたしは調査分類上、ワークリーチャー属ワータイガー門の獣人だぞ。トラならまだしも、レパードとはなんら関係ないのだ」

「……何それ、今の専門用語! かっこいい! 頭良さそう!」

「黙れ、騒ぐな。本で少し学んだだけだ」

「その本で!? そんなこと出来るのレパルド! わー、面白い! 詳しく聞かせてー!」

「ぐいぐい来るな。わたしは疲れているのだ」

「あっ、ご、ごめんね? あたし疲れるとかよくわからなくって! 何かごはんとか持ってくる?」

「……。貴様に、用意できるのならな」


 久しぶりの話し相手は、死体らしくない死体でした。獣人は戸惑いました。

 少し、安心もしました。


「ごはん何か探して持ってくるから、そしたらあなたの話、もっと聞かせてね? なんだか楽しそう!」

「……いや。おい、ゴシカと言ったな。食料だけでは足りん。話してやってもいいが、もうひとつ条件がある」

「もうひとつ、条件?」

「ああ。わたしは……ここをねぐらにしたい。いいか、ゴシカ?」

「うん! そうしなよ、レパルド!」


 獣人はごはんを食べながら、今まで自分に起きたことを、話しました。

 死体の女王はその話を聞いて、驚いたり、悲しんだりしました。


 ここは、薄暗くてじめじめした洞窟です。それでも、雨や風は防げます。

 地上に比べれば狭いけれど、獣人のいた檻よりは、ずっとずっと広いところでした。

 そして、話し相手がいました。


 こんなに話をしたのは、いつ以来だったでしょうか。

 暗いけれど、寒くもない洞窟の中で、獣人は話をし続けました。

 まるで人間のような、死体に向かって。ずっとずっと、眠くなるまで、話をし続けました。

 死体はずっとずっと、その話を、聞き続けました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ