マイナス九万九千九百九十六日目
時間を遡る中で、俺は幻を見ていた。
夢かもしれない。夢じゃないかもしれない。
思い出かもしれない。これから起きることなのかもしれない。
視線はやたらと低かった。小さな子供の目の高さで、酒場の看板を見上げる。
この男の子は、俺だろうか。
目の前にいる、同い年ぐらいの女の子は、誰だろうか。
酒場の前で、男の子は言った。
「じゃあ俺、冒険者になるよ!」
「うん、待ってる。そうしたら結婚、しようね」
楽しそうに笑う女の子の薬指には、クローバーをよじった指輪が、はめられていた。
幻の余韻に浸るヒマもなく、俺たちは時を超えて、過去へと舞い戻った。
場所は先程と同じ、ダンジョンの最下層の一室。女神像の手のひらの上だ。
過去にも未来にも行けるというこの大層なお宝を、自らの身で体験し、それから俺たちが何をしていたかというと……。
早速言い争いをしていた。
「部屋に老人どもがいない。振動も収まった。どうやら過去に戻ることは成功したようだな。予定と違い、十万日前に戻ったようだが」
「じゅ、じゅうまんにちまえ!? なんだよそれレパルド! どうしてそんなことになったんだ……?」
驚く俺に返ってきたのは、明快な犯人情報だ。
「機械については詳しくないのでよくわからん。だが恐らくは、発動前に不確定要素が混ざってきたせいだろう。おい盗賊、なんということをしてくれた」
「ピットてめえ! お前のせいか!」
「だ、だってさ! だってさ! 宝のご利益が何ももらえないのが悔しくってさ! たった一日前だったとしても、一緒に過去に戻れば、何か得することもあるかもなーと思ってさ?」
「貴様が欲をかいたおかげで、一日前ではなく、十万日前に戻ることに成功した。十万倍になったぞ、これで満足か」
「どうするんだよピット! この装置は何十年に一回しか使えないんだぞ? 予定崩れまくりだぞ!」
「そ、そう怒らないでよ二人ともさ。ねえちょっとホラ、そこのかわい子ちゃんも何か言ってやってよ。ボクの擁護的なことをさ、ホラ」
俺とレパルドに追い詰められたピットは、ゴシカに話を振る。するとアンデッドの女王は、盗賊の擦り寄りを意に介さずに、素っ頓狂な声を上げた。
「あれ? エ・メスがいるよ?」
きょろきょろと部屋を見回していた彼女は、壁際に立つ人影にいち早く気づいた。
そこには立ったまま眠る、エ・メスがいた。
服装こそ少し違うが、見慣れた顔立ちにメイド服。右目に眼帯もしている。
「やったー! もう助けちゃったね、エ・メスのこと! 寝てるけど傷もないし、さっきのエ・メスより元気そう!」
無傷なメイドゴーレムを見つけ、飛びついて抱きしめかねない喜びを示すゴシカ。
だがそれに対して、現実主義者の獣人が、ひとつの事実を突きつける。
「待てゴシカ。あれはこの部屋に安置されていたという、起動前のゴーレムだ」
「え? 起動前?」
「今が十万日前ということは、我々はざっと百年ぐらい前に戻ったはずだ。おい盗賊、計算しろ」
「えっ、ボク?」
指し示されたピットは、不思議な顔をして疑問を呈す。
それに対してレパルドは、盗賊に向けた指をぐいぐい進ませ、爪を差し込んでいった。
「計算しろ」
「う、うん。計算するから、爪食い込ませないで? いたたたた」
ドクターの言うことに涙目で助手は従い、紙片を取り出し計算を始める。
助手役、大変だな。俺が抜擢されなくて本当によかった。
「百年ほど前であれば、老人たちがダンジョンマスターとしてここにやってきて、ゴーレムを起動するよりも遥か以前ということになる。ということは、あそこにいるのは我々の知るゴーレムとは似て非なる存在だ。同一の個体ではあるが、わたしたちのことを認識してはいまい。そもそも起動の方法も、わたしにはわかるかどうか」
「そっかー……あの子を起こしたら、エ・メスは助かるの?」
「どうもならんだろうな。今から九万九千九百九十九日後にリッチーの魔法をその身に受け、いずれにしろ十万日後には倒れることになるだろう」
「はいレパルド、計算したよ? 十万日前って、だいたい二百七十年前ぐらいだね」
「……お前、計算早いな」
ピットのどうでもいい能力に、俺は思わず感心の声を漏らしてしまった。
「へっへー、とっさに宝の分配するときのために、盗賊ならこういう、ざっとした計算は出来ないとね?」
「んなこと言って、宝を分ける気なんかこれっぽっちもないんだろ」
「場合によるんだよ! グルームは別!」
「なんで俺は別なんだ!」
またもや揉める俺とピットに構わず、レパルドはエ・メスを眺める。
「ふむ。それほど昔にいるということは、やはりこれは起動前のゴーレムであることには違いないようだ」
「ねえねえ、ざっと百年前ってさっき言ってたけどさ、二百七十年前じゃ、だいぶ計算間違えてるよね。もしかしてレパルド、計算苦手?」
「……面倒な計算を生み出す原因になった盗賊が、ほざくな。なんならその罪、死を持って償うか?」
「いたたたたた! 爪! 爪刺さってる! 痛いですごめんなさい!」
無駄なやりあいを続けている、レパルドとピット。
そんなことより本質的な問題の解決はどうするんだ。俺は、頭を抱えていた。
「ていうか本当に、二百七十年前なんかに来ちゃって、どうするんだよ……。俺のお宝、完全に役立たずじゃねーか……」
二百七十年前という数字の、途方もなさ。
十万日前と言い換えても、やはり遠大な数字に思える。
俺が行きたかったのは、たった一日前だったのに。
「まあ、みんなで勝手に話を進めてお宝を使われちゃったボクとしては、ある意味この結果には、せいせいしたけどね!」
「相変わらず反省の色がないな、盗賊」
「痛い、噛まないで!?」
爪を食い込ませるだけでは足りないと感じたのか、レパルドはピットの腕に噛み付いた。
ドクターの表情は、いつものしかめた眉から変化はない。だがピットの傍若無人ぶりに対しては、少々許せないところがあるようで、いつもに増して好戦的だ。
そいつを許せないのは俺も同じだ。レパルドもっとやってやれ。
「盗賊、お前の口が減らんからだぞ」
「ごごごごめんなさい! それ以上やめて! レパルドの口でボクが減る! ボクの体のお肉が減っちゃう!」
「ピットって相変わらず面白い人間だねー! いつも楽しそうだなー」
「腕食いちぎられそうなボクが楽しそうに見えるのかよ、この真っ黒かわい子ちゃんは!!」
「……そういう子なんだ、ゴシカは。俺の生活の苦労がお前にも少しはわかったか」
「あれ? もしかしてピットでも、腕取れたらくっつかないの?」
「くっつかねーよ! ボクをキミみたいなアンデッドと一緒にするな!」
「へー! 腕取れたらくっつかないのに、おじいさんのトラップにあんなに引っかかって、すごいねー!」
「……おいグルーム、このゴシカって子はこれ、皮肉で言ってるの?」
「いいや、だいたいいつもこうだ」
「そうか……大変だったな、お前も……。そりゃ相手が美人でも、結婚躊躇するよね……」
「何だ、この緊迫した状況下で結婚相手を決めたのか、人間。貴様も大概度胸が座ってきたな」
「決めてないから! みんなして話の変なところに食いつくなよ! 今はそれより大事なことがあるだろ?」
「ふむ、確かに。食いつくならこっちのほうが良策か」
「痛い! ちぎれちゃうってばやめてってば!」
なんだか少し懐かしさを感じる、ドタバタぶり。
一瞬顔がほころびそうになったが、事態はそれどころじゃないんだ。ピットの腕も取れそうだし。
結局……どうするんだ、この状況。十万日前で済ませたい用なんて、ここにいる誰にもないはずだぞ。
「確かこの宝って、自動で元の時間に戻る機能はついてるんだっけ? それで元の場所に戻って、もう一度宝が使えるようになるまで……何十年もエネルギー溜め直しか?」
「まあ待て人間。見たところ、そう悲観したものでもないようだ。時間移動のエネルギーは既に溜まっている」
ジジイたちに渡された解読メモを片手に、レパルドは女神の顔を下から見上げた。
ヴェールに隠された瞳の部分には、何らかの数字のようなものが見て取れる。
メモと女神像を繰り返し確認し、ドクターは解読結果を皆に伝えた。
「エネルギーの充填状況は……像の顔の部分で光っている、アレで間違いないようだな。ふむ、やはりエネルギーは溜まっている」
「えっ? な、なんで? 一回使うと向こう数十年のエネルギーが飛ぶから、連続使用は出来ないんじゃなかったのか?」
「どうやら、遥か昔に飛んだおかげで、過去のエネルギーが残っているようだ。今ここにある二百七十年前のエネルギーで、再度の時間移動は可能なようだぞ」
「そうなのか? そ、それなら何よりだ……」
中途半端な移動ではなく、大幅な時間移動をしたのが功を奏したようだ。
現代でのエネルギーは、向こう数十年分なくなったけれど……それより更に過去に戻れば、エネルギーがまた溜まっている。言われてみればそれが道理だ。
解説しているドクターと、納得している俺の間で、不思議そうな顔をしているお姫様は一人いたけれど。彼女は「とにかく良かったね!」と笑っていた。
「なーんだ、大騒ぎするほどのことじゃなかったじゃん。ボクって怒られ損じゃない?」
「黙ってろピット。今度は俺がぶん殴るぞ?」
「グルームのパンチだったらかわせるもんねーだ」
ぶんと振ったパンチを、予告通りにかわす盗賊。
小さな体にこの身のこなし。こちらに向けて舌を出した顔が癇に障る。
命中率20%アップの、リフレクトソード+2を抜いてやろうか? この野郎。
「遊んでいるヒマはないぞ貴様ら。老人が装置を起動した今の状態が残っているうちに、当初想定していた時間に行くことにしよう。これが完全に停止してしまったら、再起動するための難しい操作は、わたしにもわからん」
「おっと、そうか。なら急ごう。えっと……九万九千九百九十九日後に、向けて?」
「うん、行こう、ゴー!」
再び手のひらに座り込み、ワクワクした目で先を見据えているゴシカ。
「……あのさ、なんでさっきからゴシカは座ってるの? みんな立ってるのに」
「あたしこそわかんないよ! なんでみんなは立ってるの? おじいさんが『手のひらは座席だ』って言ってたじゃない!」
「あー……言ってたかもね」
「じゃあ、グルームも座って? ね?」
「ん? う、うん」
なんだか流れで、ゴシカと並んで女神の手のひらに座ることになってしまった。
レパルドは像の指先の部分に触れ、再度の時間移動の準備をしている。
「あっ、でもせっかくだから、大昔の遺産をちょっと探しに行ってから戻るのは、どう?」
懲りずにピットはそんなことを言い、この部屋を出ていこうとする。
「別に構わんぞ。お前はここに置いていくがな、盗賊」
「えっ、二百七十年前にボクだけ置き去りにされる? やだなあやめてよそういう冗談!」
「置き去りどころか、むしろ今まで八つ裂きにされず許されていることを驚け」
「あ、は、はい……」
その言葉に竦み上がり、ピットは俺とゴシカの後ろに、おずおずと着席した。
「ねえほらレパルドも、座りなよ!」
「わたしは操作盤を眺めて不測の事態に備える役割がある。貴様らが役に立たんから、わたしが厄介な仕事を老人どもに押し付けられたのだ。そもそもあの老人のどちらかが同乗すれば良かっただけの話だというのに、何も寝不足のわたしに押し付けずとも」
「寝てないで疲れてるんでしょ? 座ろうよ」
Dr.レパルドの言っていることの意味がわかっているのかいないのか、ゴシカは彼女の腕を引く。
しばしの間の後、レパルドはその長い脚を折りたたみ、俺たちの横に座り込んだ。
「なんだかこうしてると、旅行って感じするよね!」
「結婚前の婚前旅行……的なやつ? やったなグルーム、両手に花で」
「うるさいよ、勝手に旅行についてきたお邪魔虫」
「そうだ人間。先ほど貴様が結婚相手を決めたようなことを盗賊と話していたが……」
「話してない!」
ガヤガヤと話しながら、俺たちは改めて、四人揃って時間を飛び越える。
ついさっきまでは一日前だった、今から数えて九万九千九百九十九日後に向けて。
その時俺は、十万日前の部屋に一人安置されていた、エ・メスをふと見た。
まだ当分は動かないであろうこのゴーレムの背後に、小さな人影が……見えた気がした。
その人影は、俺が夢で見た、あの……小さな……?
騒々しい輩がいなくなり、静かになった部屋の中で、少女は独り言を繰り返す。
「……行っちゃった、あの人たち。人間かなあ」
「人間って、元気で……楽しそうで、いいなあ……」
「……。けっこん……?」