第4話 没落貴族限定の仕事3
胸糞悪い眠りから覚めたとき、背中に焼けるような痛みが走った。
あの悪夢から解放されてもなお、脈打つ鼓動が静まることはない。
まだこれはほんの手始めに過ぎず、この後に待ち受ける強烈な裁きを彼は知っているのだ。
― 「終わったら酒場にこい。 無事に戻ってこれたらの話だが…。」 ―
クレマルドの言いたいことが今だからわかる。
リクターの心は悔しさでいっぱいになった。
何度も少女の言うことを聞いていればよかったと、よく考えもせず利益に飛び込んだ自分を責めた。
だが、彼はふと後頭部に違和感を覚えた。
ここはあの冷たい死を招くベンチではなく、あたたかい何かだ。
そこに仰向けに寝かされて、酒場のかびくさい天井を見つめていることは察しがついた。
どうやら今日は休業日らしく、夜だというのに人っ子一人いない酒場はしんと静まり返っていた。
だが、これは…。
どこか懐かしいすべすべした光沢のある布に、かつての死に別れになったという母に似た甘い匂いが、彼の鼻腔をくすぐった。
「あ、アシェット…。」
もう夜も更けたのだろうか、真っ暗闇の窓際の席で、ろうそく一つをテーブルに灯したまま、うたた寝をしている少女が目に入った。
あの高飛車な令嬢が見せる、意外にも優しい寝顔。
リクターは彼女の膝から上に横たわるように頭を置いていたのだ。
少年はちょっとした出来心で偶然を装って、頭の向きを変えた。
初めはほぼ無反応だった彼女は、うなされたようにむにゃむにゃと口を動かしたあと、頭を元の位置に戻した少年に驚いたようで、鳥のひなみたいに小さく鳴いた。
「ひゃん…。」
どうやら少年の髪の毛の先端がくすぐったかったようだ。
だが、彼の胸の奥にある本能は彼女のみせるかわいらしい反応に、実に忠実だった。
よく見ると、ピンクドレスの生地の上にあしらった、縦にスカートの下までのびているいくつもの白く細長いフリルのヒダが、胸元で微妙に上下している。
それが少年の寝ている位置からだと、ドアップと言っていいくらい丸見えなのだ。
首まわりのレースの険しい壁が、まさしく理性と規律の防波堤の役割をはたしていたが、ドレスのいたるところで輝くブドウを模した金の装飾が高貴さを与え、彼女の知性の見せる愛らしさが逆に彼を魅惑の果てへと誘ってしまった。
「は…はーーーーっ…。」
彼女がうなされるたびに、胸から腰のあたりまで続いているコルセットの編み上げが、背中に張り付いていて、ピンと伸びたりゆるくなったりした。
相当苦しいようで、それなら僕がほどいてあげようと、少年が手を伸ばそうとしたときだった。
「ダメ…。 ほどかないで…。」
細くて白い腕は、可憐な女神の彫刻さえも嫉妬しそうなくらい、つややかだった。
「え?」
目をつぶったままだったため、リクターは少女が起きていることに全く気付くことができなかった。
「ほどいたら、結ぶの大変なんだから…。」
いたずらに対する仕返しが来ると身構えていた少年だったが、あれは本当に眠っていたときだったからばれなかったと思った。
その矢先…。
「いけない坊やにはお仕置きが必要みたいね…。」
彼女がパンパンと両手を払って不気味な準備を始めた。
「あ、いや、ちょっと待ってってば。 だって…。」
「問答無用!」
パーンと強烈なビンタの音が酒場に響き渡った。
リクターはそのまま彼女の膝の上でビンタを受けるという、まさに最も斬新なやり方でロマンティックな雰囲気をぶち壊すという偉業を成し遂げた。
「さあ、理由を聞かせてもらいましょうか? すけべな坊や…。」
「あ、あの寝顔は…反則だ…。」
「じゃあ、もっと反則なことしてみる?」
彼女はいたずらに満ちた笑みで、うふふと笑い、彼の首筋に指を這わせた。
「たとえば…どんなこと…?」
懲りずに聞いてしまう自分が情けなかった。
「たとえば…毎日私の髪をとかしたり…コルセットのヒモを結んだり。」
自分から聞いておいて、リクターは吹きそうになった。
「これって背中で結ぶから、どうしても他人の手が必要なのよね…。 それをやってくれるメイドももういないし…ちょうどいいわ。」
赤くなりながらも、彼女は挑発的な視線をリクターからそらそうとしない。
「悪かったよ。 この通りだ。 だから、それはナシ、いいだろう?」
しかし、少年の言葉にかえってむすっとした彼女は、酒場のマスターを呼びに行ってくると言って、スタスタと去っていった。
「全く鈍いやつだな、お前は。」
「うわぁ! クレマルド、今の聞いてたの?」
いきなり声を掛けられて、少年はテーブルの下でひっそりとしゃがみこんでいた男をのぞいた。
「危なっかしくて見ていられねえ。 お前以外にあの女の面倒を見てやれるやつがどこにいる? 髪はともかく、ヒモくらいサービスでやってやれ、バカ。」
「でも、どうやって怒った彼女を説得すればいいのさ? あれは小悪魔だ。 僕から言わせればね。」
「お前も男なら、当たって砕けろって言葉を知っとくこったな。 貴族の温室育ちがギルドを作るにはそれくらいの覚悟は持ってなけりゃ務まんねえぞ? 何発でも素直に殴られて来い。 さんざん今日味わった分に比べたら、カスみたいなもんだろう?」
そのとき、リクターの怒りが再燃した。
「そうだ! そのことであんたに言おうって思ってたんだ! よくもだましたな! 何が将来が約束された仕事だ!」
「約束されているとも。」
こうなることがわかっていたような表情で、クレマルドはテーブルにどさりと金貨袋を置いた。
「世の中には稼げなくて困っているやつがたくさんいる。 だからといって犯罪に手を染めたら、そこで終わりさ。 何もかもな。」
「だからって、こんなやりかた、僕は!」
「貴族の坊ちゃんが!」
クレマルドの圧倒的な怒鳴り声が少年の反論を黙殺した。
「貴族の坊ちゃんが、汗水流して働くことがいかに苦痛か、想像できるか? 俺はあえて言わなかった! お前の根性を信じてな! お前は昨日、危険すぎる仕事でも俺についてくると言った! だから俺も信じた! 今までのマヌケの落ちぶれ坊ちゃんどもは一言聞いて、次の日には酒浸りだった。 だがお前は違った! どうするか決めろ。 お前の人生だ。 あと二日の試練に逃げて一生をむげに過ごすか、ギルドで一旗揚げて、貴族に返り咲くのかをな!」
沈黙が支配していたが、リクターの心は水をかける余地のないくらいに炎が燃え盛っていた。
貴族が人前で晒し者にされる仕事など、死んでもやるはずがない。
そういったことを予想して、あえてクレマルドは仕事の内容は少年に教えなかった。
リクターが逃げて一生を棒に振らないように…。
そう思うと、少年のマスターに感謝しきれない心の炎は、いっそう勢いを増した。
「僕は…僕は父を超えたい! 超えるどころか、もっともっと大きくなりたい!」
「そうよ。 あなたはギルドの頂点に君臨する男よ。」
戻ってきたアシェットが、決意に満ちた瞳でマスターを見据えていた。
「クレマルド…僕、やります! どんなことにも耐えてみせます!」
少年の手には、すでに庶民の半年分の給料があふれていた。
毎日寒くてイライラしますが、見ず知らずの通行人に向かってよだれを飛ばすのはやめたほうがいいと私は思います。これからはいっそう精進してよだれを一滴残らず飲み干すことを誓います!という長い前置きは置いといて、更新します。