第2話 没落貴族限定の仕事1
悪夢のような一夜が明けた朝、二人は身を寄せ合うようにして、どこかの貴族が捨てて行った毛布にくるまった状態で目を覚ました。
これまでのようなすがすがしい朝ではなく、それは今日から地獄の入り口となるのだ。
リクターは少なくともいい気分ではなかった。
器用にも、体に力が入りっぱなしのまま眠ってしまったようで、丸めていた背中に鈍い痛みが走った。
公園の朝の空気は、そんなリクターたちの苦労を気にも留めないかのように、皮肉にも美しい陽光を木漏れ日の間から迎えていた。
「アシェット、君はまだ寝てて。 僕はちょっと行くところがあるから。」
「え? ちょっとぉ、どこ行くのよ…。」
寝ぼけ眼のままの彼女にかまっているほど今は余裕がないと、彼には分っていた。
「下町の酒場だよ。 朝なら客はいないだろうし、煙たがられることもない。 働くことのできる場所を知っているかもしれないね。」
パン屋で経験したことを、少年が活かして考え抜いた結論がそれだった。
もっとも考えたところで、貧乏人にはそれなりの選択肢しかなかったわけだが…。
「昨日の約束は忘れたわけ? 私、言ったわよね? あなたにギルドの王になれって。」
「ああ、わかってるよ。 ギルドを始めるにはどうすればいいかも聞いてくるよ。 でもその前に僕はまだ仕事というものをしたことがない。 ギルドを始める準備ってことでもいいだろう?」
彼女は乱れた金髪を揺らしてととのえながら大きく息を吸った。
「…。 そうね、いいわ。 ところで、朝ご飯は?」
どうやらこのお嬢様は、彼が飯のしたくをするという前提でものを考えているらしい。
この生活に入ってからまだ日が経っていないこともあって、まだ自分のおかれている立場をはっきりわかっていないようだ。
共同で生活する以上は、そうしたことはきちんと理解しておいてもらいたいという願いをこめ、リクターは少しきつい言葉を投げかけた。
「そんなものないに決まってるだろう。 僕たち、お金なんて1ムーも持ってないんだからさ。 じゃあ、もう行くよ。」
まるで今まで苦しい生活であったかのように、リクターの口調はすでに目の前の現実に適応し始めていた。
下町では見るも無残な光景が広がっていた。
朝帰りの労働者のふらつく足、酒に酔って有り金を使い果たしたことすら忘れたかった、青白い顔をした娼婦の群れとすれ違うたびに、彼はできるだけ目を合わせないように努めなくてはならなかった。
狭い路地は異臭が立ち込めていて、誰の流したかわからない料理のゆで汁や、そこら中に散乱している野菜の刻みカスが、老朽化してひび割れた側溝にたまっている。
「前に来たけど、変わってないな。」
少年はその不気味さを改めて感じつつ、急いで酒場に向かった。
派手な赤の配色に、赤い字でパブと書かれた目がチカチカする看板の下にある階段を下りてくると、嘔吐物のシミが狭い壁にぴちゃぴちゃと音を立てて垂れ落ちていた。
「マスターはいるかい?」
階段を下りた突き当りにあるドアをくぐった先に、男が濡れぞうきんでテーブルをきれいに拭いているところだった。
肉体労働で鍛えられた体には似合わない黒いベストを着こんでいて、その下から白いシャツがのぞいていた。
「悪いが、店じまいをしている最中でな。 また夜来てくれ。」
何か悪いことをしているわけではないが、中年で小太りの男の態度は、昨日のパン屋よりも無愛想だった。
「酒はいらないよ。 あんたと話がしたい。」
せっせと片づけをするマスターは少年の顔も見ずになんだ、と今度は少し面倒くさそうに眉間にしわをよせた。
「このあたりに、どこか働ける場所はないかな? ちなみに没落貴族でもなんなく受け入れてくれるような、そんなところがあれば、ぜひ!」
「さあな。 俺なんかより、奴隷のほうが詳しいんじゃないか?」
「奴隷じゃだめなんだ!」
少年の必死になっている叫び声に、ふとマスターが顔をあげた。
「お前、没落貴族だな?」
どうせあんたもパン屋と同じように、自分を追い出すのだろう、と彼は投げやりになって答えた。
「だから、そうだと言ってるだろう!」
「没落貴族限定の仕事があるんだが、やるか?」
なにやら非常にうさんくさい感じがするが、手段を選んでいる暇はない。
彼は待っていた仕事という言葉に、全神経を集中させて素早く反応した。
「そ、それはどんな仕事なんです? いいえ、どんな仕事だろうとやらせてください!」
「待て待て、そう焦るな。 言っておくがあぶねえ仕事だから、給料も半端じゃねえし、危険も伴う。それでもやるのか? 三日間だが見事こなしたら、将来は約束してやるぜ?」
将来が約束された仕事なんて、どんなに待遇がよいのだろうと、彼はますます興味を持った。
「やります! 僕、がんばりますマスター!」
マスターはしばらくうなづいてから、いきなり大ジョッキでうす茶色い液体を注いだ。
「これは酒の原料に乏しいユーヴェイルに昔から伝わるワイン、ユーヴェニー・モッジョだ。 少し苦いが味は悪くない。」
この酒場のマスターは以前にも来た時に、客には酒について熱く語る癖があった。
確か、リクターが以前酒場に来た時にもそんな記憶が残っていて、少年は心の隅で懐かしい想いに浸ろうとした。
しかし彼はいきなり酒を手渡されて途方に暮れてしまい、それを見かねたクレマルドはジョッキを彼の方に押し進めた。
「クレマルドでいい。 飲め。 お前が今からやろうとしていることは、とにかく体力も精神力も必要になる。 後悔だけはしないようにって意味で、こいつを保険としてとっとけ。 あと、食い物が食いたけりゃ、いつでも言え。」
食い物と言えば、とリクターは公園で待っている少女のことを思い出した。
「あと一人、女の子がいるんです。 僕と同じくらいの。 その子にも食べ物をくれませんか?」
「お安い御用よ。 チーズと、パン。 それに出来立てのハムだ。」
「あ、ありがとうございます! あと、できればギルドになる方法を教えてほしいんですけど…。」
仕事をやると決断したとたん、こんなに待遇がよくなるとは、と彼はすっかり有頂天になりかかったが、感謝はと謙虚な心は忘れなかった。
夕べはなにも口にできなかった分、嬉しかったのだろうと、自分に言い聞かせた。
「早まるなよ? ギルドを始めるには金がいる。 それにギルドを全く知らないやつが始めたって、右も左もわからず、たちまち解散するのがオチだ。 まずは今日言われた仕事をこなしてからだ。 そしたら俺がいろいろ話してやる。」
「本当に、いろいろ面倒かけます。」
「いいか。 そいつをお嬢さんにくれたら、さっそく依頼人がお前の元にくる。 場所は正午の下町広場の前だ。 騎兵隊の格好をしてるからすぐにわかる。 あとは依頼人の指示に従え。 終わって俺の酒場にくれば、報酬をやる。 まあ、無事に来れればの話だが…わかったか?」
「ええ? は、はい。 わかりました! じゃあ、急ぐんで!」
騎兵隊という言葉が少々気にかかったが、リクターは目の前に置かれた食べ物を持って、酒場を後にした。
それがとんでもないことになるとも知らずに…。
そう言えば、どの程度まで金持ちになったら「お嬢様」になるんだろう?一億?とりあえず更新です。