プロローグ 没落貴族の誕生
とある晴れた日の陽光まぶしい午後、ユーヴェイル帝国の都ベーヌイは、貧民地区も、そうでない裕福な暮らしを楽しむ富裕地区もガヤガヤと騒がしく人々が路上を行きかっていた。
季節は冷たい空気がいたずらに吹きすさぶ冬だったが、帝都に住まう人間たちはかくも陽気な顔つきをして生を営んでいた。
寒さをものともしないというよりは、むしろ帝都の密集した人口が商店街全体を、人間臭い淀んだ空気で満たしているおかげと言った方が適切だった。
石畳で舗装された道を、馬車がつかつかと横柄にも通行人をかき分けていく。
馬車が去っていく時に巻き上がる風に乗り、芳醇なパンの焼きたての香りが子供たちの鼻をくすぐった。
建っているのは食べ物やだけに限らず、街の治安を維持する騎兵隊の庁舎や、剣や鎧兜の強度を確かめる鍛冶屋たちの熱心な仕事の掛け声頼もしい製鉄所、将軍用の見事なマントを日干ししている布屋の華やかな店先が次々と目に入ってくる。
極めつけはその栄華を象徴するかのように、ユーヴェイルの縦に長い旗に描かれた太陽の紋章がいくつもの建物の壁に掛けられ、はためいていた。
初めてここを目にする者たちは皆、帝都ベーヌイには『なんでもある』ことを思い知り、ユーヴェイルの王の権力に畏敬の念を覚える。
表向きは学のない庶民を、王の権力が偉大なものとして信じ込ませたつもりのユーヴェイルも、実際には一つの国を多くの権力者が統治している状況にあった。
一国の主であろうと、今や権力者たちの顔色をうかがわなくてはならず、皮肉なことに王は王でありながら、ほとんどは自分一人の決断で決められることはなかった。
王以外にも、不幸な者は大勢いた。
しかもその中の一人であり、貧民地区から小高い丘の上にある、貴族街の公園ですすり泣く一人の裕福な少年にそれは起こった。
もうじき17になるリクター・ウィリアム・クレッグハートは、その他大勢の貴族とは違った事態に焦っていた。
「ああ、どうしようどうしよう…。」
よく手入れされた、長いまっすぐにのびた茶髪を揺らして、右往左往している。
頼りなさそうな声で、いかにも困っていることを誰かに知らしめたいのではと錯覚させるような声だった。
腰には護身用のレイピアと、今ベーヌイで流行している表面にローブを羽織った論議中の文官たちのレリーフの施された皮靴、それに名のあるギルドから高値で買った猛獣の毛皮を原料に使った白い上着。
リクターの格好も、貴族の若者らしく豪華絢爛なのに、なぜか彼は大きくため息ばかりついている。
年頃だから恋煩いなのかとも思えるが、どうやら逼迫した表情からしてそうではないらしい。
「ああ、どうしよう、どうしよう…。」
彼の様子をそばで観察していた、別の屋敷のメイドがふと感づいたように、そそくさと立ち去った。
まるで虫けらでも見るような目で彼をあざ笑っている。
貴族の息子ならば、心配した使用人の一人や二人、すぐに駆けつけるだろう。
だが、それすら来ない理由は一つしかない。
彼のクレッグハート家が没落したことを意味していたのだ。
クレッグハート家は由緒正しい貴族というより、成り上がった身分だった。
それゆえに特権は認められず、経営難から脱することがついにかなわなかったのだ。
その結果として、今リクターは屋敷を差し押えられ、父を不当な所得隠しの罪で逮捕しにきた騎兵隊に持って行かれたせいで、寒空の下に座り込んでいる。
力尽き、はかなく枯れ枝から落ちた茶色い葉が、目の前のリクターを象徴しているようで、楽しげに笑う裕福な子づれの親が彼に気づいてそそくさと立ち去ったのを見て、彼はこの公園にいることを一層みじめに感じた。
むしろ殺してくれたほうがよかったと、リクターは今になって後悔し始めていた。
急に自身の力を誇示したくてたまらなくなり、レイピアを公園の木にガリガリと突き刺して、それでも飽き足らずに今度は持っていた剣を投げて、鬼のように顔をくしゃくしゃにして拾った。
もちろん、誰も見ていないことを確認してからのことだ。
今後彼を待つのは、奴隷身分へと転落してゆく自分と、その様子を見た今まで踏みつけられていた者たちが引き起こすであろう、リクターへの復讐。
それが頭をよぎるとぞっとした。
金持ちには耐えがたいことだったが、さすがに空腹となっては体面を気にせずになどいられない。
腹の虫が鳴ったことに気付いた彼は、とりあえずいつもの行きつけのパン屋に足を運んだ。
「いらっしゃい…。」
リクターを見るなり、いつもは笑顔の店主の表情がひきつっていた。
クレッグハート家が没落した知らせは早くも届いているらしい。
財産を没収された親の息子がパン屋に来たということは、たいてい支払われることのない飲食代のツケをねだりにきたか、自分の元で働かせてくれという住み込み依頼だ。
「あ、あのさ…。」
「出ていけ。」
開口一番、店主は今までとは違い、彼を乞食のように扱った。
「え?」
当然彼もショックを隠し切れずにいたが、店主にとってはこの少年のおかげで客の入りが悪くなったら死活問題だ。
なんとしても全力で不快な思いをさせなくてはならない。
「びた一文持ってないブタなんかに食わせるパンはないし、ブタを雇う部屋も余裕もない。 迷惑なんだよ、このガキ!」
確かに今の彼の所持金は貨幣である最低単位の1ムーすらないのだ。
だが、つい貴族のくせで、彼は頭に上った血を抑えることができなかった。
「ブタはお前だろう!」
勢いあまってリクターは茶色いつやのある長髪を逆立てて、パンの置いてあったテーブルを足で蹴とばした。
べちゃりとパンの間に挟まった身がつぶれたとき、頭が一瞬すかっとしたと思ったら、恐怖が入り込んできた。
「何しやがる!」
いつもは殴られてもへこへこしている店主が、今日は大きな態度に出てきた。
もうリクターのバックにおびえる必要が全くないからだ。
「金もないくせに、うちの商品を台無しにしやがって! 外で住もうが、全部払ってもらうからな!」
自分で自分の首を絞めていることに、まずいと彼は思った。
「でもお前、金は払えないんだろう?」
店主から信じられない言葉が飛び出した。
「騎兵隊に被害届けを出す。 貴族でないお前にそんなことをしたって問題ないからな!」
「待って、待ってくれ!」
「待ってくださいだろう、このブタめ!」
「ま…待ってください…。」
店主はカンカンに怒っていた。
「騎兵隊も、弁償もいやか。 そうだ、お前、このパンで汚れた床を、きれいになめとれ。」
「そ、それは…!」
「商品を台無しにされた俺が、精魂込めて作ったパンだ。 今までお前のような貴族にコケにされ続けた分だ。 なのになんだその顔は! 客ならふつうは壊したもんは弁償するのが筋だろうが! それを俺が特別に弁償も騎兵隊もなしの方法を考えてやったんだ! 少しはありがたく思え!」
もっともな正論を吐かれ、リクターは返す言葉もなかった。
もはや貴族としての誇りなど、過ぎ去った過去の栄華に過ぎない。
この屈辱に耐えなければ本当に一生を、没落貴族どころか奴隷として過ごさなくてはならない。
幼いころから慣れ親しんだ世界をすぐに捨てられるものではないが、必死に今の自分の立場を強制的に頭脳に刷り込むしか道はない。
「わ、わかりました…。」
リクターは半分残った怒りと、屈辱によって少しばかり荒い息をして、ゆっくりと床に膝をついた。
あとは木の床に舌を這わせるだけだ。
「どうした、早くやったらどうだ。」
四つん這いになっている少年を見下ろす店主の目が笑っていた。
こうなったらヤケだと、彼は一気に薬を飲み干す決意とともに床をなめた。
苦い味がした。
いくら泣いても泣いても涙が止まらなかった。
これ以上ない恥ずかしさを味わった彼は、枯葉の積もった公園で人目もはばからずにすすり泣いていた。
夜になってはいたが、眠る気にもなれなかった。
眠ろうにもこの冬の寒さでは顔が冷たくて、とてもではないが横になれたものではないからだ。
「ねえ、ちょっと。」
誰かが彼の服の裾を引っ張った。
「ねえってば。」
「痛いな! 引っ張るなって!」
思わず顔を上げた彼は、自分のそばで立っている一人の少女を見た。
どこかのお嬢様らしく、きれいなピンク色のドレスを身にまとっている。
金髪のウェーブの髪は気品に満ちあふれていて、彼のような境遇に置かれた者に用があるとは思えない。
「言っておくが、僕は没落貴族だ。 あんたみたいなお嬢様が、何の用だい?」
「ねえ、私も仲間に入れてほしいな。」
どういうことか分からないまま、彼はそんな彼女の言葉に唖然とするしかなかった。
さて、ファンタジー小説を作ってみましたが、気に入っていただけたでしょうか? ジャンルは同じですが、今思えば同じような物語が多かったため、今回は少し違った路線で進めていくことにしました。
不定更新ですが、前作に負けないように頑張りたいと思います。
※ちなみに、キーワードにあった帝国都市とは、世界史の用語で、君主によって権力が中央集権化できておらず、諸侯 (貴族でいう侯爵や男爵など)が一つの国家の中で多少の自治力を保って都市の政治を動かしている状態です。いわば国に反抗的な市長や町長がいるのと似たような状態です。




