ドッペルゲンガー
フィクションです。
「あなた自身はいたって正常ですね」
精神科医は朗らかに笑いかけながらそう言った。
言われた近藤孝明は半分安堵したが、同時に抱いた不安だけを口にした。精神科医の言葉が信じ切れなかったのだ。
「本当に俺は多重人格じゃないんですね?」
インターネット掲示板に孝明しか知らないような事が書かれていたり、孝明を名乗るメールが友人に届いたりしているのだ。
メールに関しては携帯の発信履歴や着信履歴、アドレスなどを突き合わせる事で、ようやく孝明が送った物ではないと理解してもらえた。
いや、友人はまだ疑っているかもしれない。単なる悪ふざけならどれだけ良いか。
孝明はメールの内容を思い出して身震いした。
「信じられない理由はやはり、このメールですか?」
まるで孝明の心中を覗き込んだように精神科医が核心を突いた。片手には孝明が持参した、友人と偽孝明のメールがプリントされた紙を持っている。
「凄いですね。中学時代の思い出話で盛り上がっている。本人ですら偽者と断言出来なくなるのも頷けます」
その通りだ。何故、偽者は思い出を語れたのか。その疑問が孝明を苛み、彼は自分が多重人格者ではないかと結論付けたのだ。
それというのも、中学時代の孝明はマイナーな部に所属しており、部員は孝明の他に二人だけ。一人は偽者からメールを送り付けられた友人で、もう一人は親友と呼べる仲だったが一昨年に轢き逃げにあって亡くなっている。
実質的には孝明と友人しか知らないはずの思い出を語れる正体不明の誰か。精神科医の言葉では孝明に別人格は存在しない。
必然的に容疑者は一人に絞られる。
孝明の喉がゴクリと鳴った。
「御友人の自作自演を疑っているなら、間違いですよ」
精神科医に出鼻を挫かれ、孝明は罰が悪そうに咳払いした。
精神科医は苦笑を返すと孝明に一冊のファイルを差し出した。
「これは?」
「読んでみて下さい」
訝しみながらも孝明はファイルに目を通す。
それはネット上の様々なサイトから集められた孝明に関する情報だった。友人やかつての親友のブログ、出身校の卒業生一覧、地区大会の出場記録や成績などネットに点在するちっぽけな情報の羅列。
ゾッとする程の量だった。
孝明は精神科医からメールのプリントを引ったくりファイルの情報と照らし合わせ、確信した。
偽者はネット上で集めた情報を利用して孝明になりすましていたのだ。
「お分かりになりましたか?」
精神科医の問い掛けに孝明は頷いた。精神科医は腕を組むと説明を始める。
「越境性人格性障害でしょう」
詳しく聞くと、近年増えている精神障害の一つであり、他者の情報が蓄積した結果、自己と同一化する病気との事。
俗称ドッペルゲンガー。
「多重人格が一から架空の人格を作るのとは違い、越境性人格性障害、つまりドッペルゲンガーは実在の個人を元に人格を作り上げる病気です」
精神科医が分かりやすく解説を加える。
孝明の偽者はその重症患者らしい。
自分自身を孝明だと錯覚したまま生活している可能性が高い。
「情報化社会の弊害ですね。理想とする自分の人生、それを送っている見知らぬ誰かの情報が大量に手に入る。もし、成り代われるなら……そんな病気なんですよ」
精神科医は椅子に深く腰掛けて悲しそうに目を伏せた。
孝明にも確かにそんな願望があった。一歩間違えば自分もドッペルゲンガーと化していたかもしれない。
うなだれて、膝上に開かれたファイルを見つめていた彼は気付く。
「確か、ドッペルゲンガーって出会ったら……。」
「そりゃあ、自分が二人いたら気持ち悪いですからね」
精神科医の困ったような表情が亡くなった親友に重なった。
越境性人格性障害は創作です。