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◇
「あはははは」
不意に笑い声が上がる。僕は庭に向けていた視線を戻して亜希子を見た。
隣に座る亜希子はそれぞれの手でお腹と口元を押さえ、可笑しそうに声を上げて笑っている。こんなに愉快そうにしている亜希子の姿を見るのも随分と久しぶりだ。僕は何がそんなに可笑しなものかと眉根を寄せて観察した。涙が出るほど笑い転げる亜希子の姿を訝しげに眺めている内に、彼女の笑い声に混じって幾分低い声が聞こえてきた。後から男性のしわ枯れ声。
「それが本当なのよ」
「あれにはまいったな。あの時は俺も随分と慌てたもんだ」
「あはははは」
子供の頃の記憶。夏の夜、尿意をもよおし起きだした僕は寝ぼけてパジャマをずり下げ、居間の畳の上に放尿してしまった。まだ起きてテレビの前に座りビールを飲んでいた父は、慌てて僕を抱き抱えてトイレへ連れて行こうとしたが、僕の小便は止まらずに畳と廊下を汚してしまったのだ。
漏れ聞こえた会話からそんな昔のことを思い出し、僕は恥ずかしさで一杯になった。
「そんな子供の頃の話、するなよ」
僕は無責任に笑い声を上げる亜希子と、声の主に向かって言った。
「……健児?」
驚いた顔をした父が僕を振り返った。当の僕も、何だか突然のことにびっくりしていた。急に今まで掛かっていた頭の中の靄がきれいさっぱり消えてしまっていたからだ。
「……やあ、父さん。母さんも」
「あんた……」
母親が涙に潤んだ目で僕を見ている。僕はどうしていいか分からずに照れ隠し頭を掻き、笑った。
「何だか随分久しぶりだね。家が急に明るくなった」と僕。
「何言ってるんだ。昔から変わらんよ」と父。
「そうだっけ」とぼける僕。隣で亜希子が笑った。
彼女の笑い声に引き込まれて戻ってこれたのだ。両親が居る、懐かしい我が家に。
「お帰り、ケンちゃん」
亜希子が笑う。それはさっきまでの賑やかなものではなく、静かな風がそよぐ様な優しい微笑みだった。
「──ただいま」
父親と母親に。
そして、言葉にならないありがとうを亜希子に。
ほんの少しだけ手を伸ばして、そばにある彼女の小指を握った。
今日から少しずつ変わるだろう。今まで失ってきたものをちょっとずつでも取り戻すんだ。亜希子という太陽に照らされながら。
〈了〉