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「そうなんです。もう五年になりますね」
隣に座った亜希子が両親に声を掛けている。ちゃぶ台にはお茶請けに煎餅が出され、ほうじ茶の芳ばしい香りが湯飲みから立ち上ぼっている。
会話は常に亜希子が中心となって、僕のことだとか両親の最近だとか、田舎での二人の暮らしぶりなどを話していた。僕は落ち着かな気に窓の外を眺める。手入れの良く行き届いた庭には柿の木と父の自慢の池が佇み、ここからでは望むことは出来ないが、色鮮やかな錦鯉が数匹涼しげに泳いでいることだろう。
今の僕の心境をどう説明すればいいのか。上手い言葉が見つからないが、情けないという感じに近いとも言える。全身がこそばゆく、ソワソワと落ち着かない胸やけのような、そんな感じである。
亜希子がチラリと僕を見て話しを振るが、半ば心ここにあらずであったので曖昧な返事しか出来ない。呆れたような視線と無駄に明るい声の調子が皮肉にも好対照である。僕は亜希子の無言の苦情に苦笑を漏らし、また庭先に意識を投げる。そこには幼少の頃の思い出が星の数ほど詰まっていた。
僕が精神的な盲人となってしまったのはいつの頃だったか。それすらも遠い記憶の片隅に追いやられ、思い出すのも困難な程だ。
確か中学に上がる頃だったか。思春期の盛りであったように思う。
僕は何処にでもいる普通の目立たない学生で、クラスのお調子者や人気者たちの陰に隠れ、とにかく内気で人見知りのする子供だった。先生にしろ同級生にしろうけが良い訳でもなく、悪くも無いが、ただあまり相手にされない存在ではあった。同級生たちが教室で起こす様々な事件を一人窓越しにでも見ているような冷めた子供でもあった。
中学、高校とそんな風に過ごして、高校卒業と同時に大手の電子機器メーカーの下請け会社に就職し、東京での研修を終えるとしばらくして地方の工場勤めとなった。
日々色褪せてくる毎日に何かしらの変化を望んでいたのかも知れない。父と母の顔がまだ心に映る間に自分自身を取り戻したかったのだと思う。
亜希子と知り合ったのはそんな時だった。彼女の回りだけが明るく輝いて見える。それは長い間、暗闇を歩いて来た僕にとって唯一の希望にも見えたし、これからの一歩を踏み出す道標とも言うべき存在とも言えた。僕は亜希子を好いているとか愛しているとか、そんな簡単な言葉では言い表わすことが出来ない。僕にとって、亜希子はこの世界を照らすたった一つの太陽のような存在なのだから。