東京スカイ
亜希子は東京には空がないと言う。そんな亜希子の言葉に僕は苦笑を浮かべて空を見上げた。
東京にも空はある。
暗くそびえ立つ高層ビルディング。四方をビルに囲まれたその遥か高く、キャンパスから切り取られたような小さな空間。雲間から覗く太陽の様に、ビルの谷間から見える空は夏のこの時期、光化学スモッグで薄黒く染まる。それが見慣れた僕の東京の空だ。
東京を故郷と言うと人は笑う。都会にはノスタルジィに駆られる何かしらが感じられないからだろう。
だが僕にとって東京は確かに故郷であり、盆や正月に田舎に帰るというならば、それは確かに東京に他ならない。
僕は盲目だった。精神的盲人。普段の生活の中で認識出来ないものが多々あり、その中にはごく親しい間柄である筈の人間も含まれた。僕の父や母もそういった者達の中に含まれた。
僕を取り巻く全ての人間と意思の疎通が交わせなくなれば、それは精神的な死を意味する。僕はそうなることを恐れた。
「どこか田舎にでも行って気を休めたらどうだ?」
「母さんも心配している」
「仕事のし過ぎじゃないのか」
聞き慣れた父の低いしわ枯れ声は僕の耳の中へと飛び込み、体の内側を夏の蚊の様に耳障りな音をたてて飛び回った。
その父の姿も、声すらも、今となっては記憶の遥か片隅へと追いやられてしまった。古いアルバムを引っ張り出して見れば、僅かに記憶する父の顔がボンヤリと写真の中の男性と重なる。だが、そこに写る写真の中の男性を一々、亜希子に訊ねなければ、僕にはそれが父なのだと認識することは困難であった。
「東京って狭いのね」
亜希子が呟く。
実に何年かぶりの故郷の空。思い出が希薄となったここ数年は盆や正月にさえ帰ろうとは思わなかった。
「そうかな。生まれ育ちがこっちだから、特に何とも思わないけど」
「少しでも空間があれば何かしら埋めてしまわないと気が済まないみたい。何て言えばいいのかしら、隙間症候群? 何かそんな病に侵された人たちが作ったような街ね」
僕は笑った。亜希子の例えがおかしかったからだ。
初めて訪れたという東京。その空を見て漏らした最初の言葉がこれなのだから、先が思いやられる。
「ここはオフィス街だから余計にそう感じるんだよ。僕の実家の方は同じ東京でも田舎の方だから」
亜希子はムクムクと鎌首をもたげてくる好奇心を必死に押さえ付けてでもいるように、つんと澄ました顔を作っている。だけど僕には亜希子が普段あまり見せることのない静かな興奮に包まれているのが感じられた。
昼飯を東京駅付近のカフェレストランで済ませ、僕たちは再び駅に向かい、今度は私鉄に乗り換えてカタンコトンと更に一時間ほど電車に揺られた。