観測者は招かれた
招待状は、正式だった。
封蝋は三つ。
王家、評議会、同盟軍。
どれか一つでも欠けていれば、
俺は受け取らなかった。
会議が行われるのは、同盟中央都市ヴァレスト。
世界でも指折りの大国が集まる場所だ。
迎えは丁重だった。
警戒はあるが、敵意はない。
「記録官ロウ殿。
遠路、感謝します」
そう言って頭を下げたのは、
この場で最も発言力のある評議長だった。
英雄でも、神官でもない。
老練な政治家だ。
「本日は、“助言”を求めるわけではありません」
彼は最初に、そう釘を刺した。
「あなたの立場は理解している。
判断はしない。
忠告は一度だけ」
知っている。
俺の記録が、すでにここまで届いている。
会議室は広い。
円卓には、各国の代表が揃っていた。
誰も軽口を叩かない。
誰も余裕を見せない。
議題は、一つだけだ。
「同盟再編条約」
軍事、交易、通行権、
すべてを再定義する大規模な取り決め。
これが失敗すれば、
世界は戦争に近づく。
成功しても、
誰かが不利益を被る。
判断の重さが、空気に沈んでいた。
評議長が言う。
「我々は、すでに結論を出しています」
そう言って、条約案を机に置いた。
「ただ一つだけ、確認したい」
彼の視線が、俺に向く。
「この判断は、
我々を滅ぼしますか?」
一瞬、
会議室の音が消えた。
俺は、条約案に目を落とす。
読み終える前から、
答えは分かっている。
判断が固まった瞬間、
その先の“戻れない地点”が、
いつも通り、はっきりと見えていた。
俺は顔を上げて、言う。
「――はい」
それだけだった。
誰も声を出さなかった。
怒号も、否定もない。
ただ、重い沈黙。
評議長は、深く息を吐いた。
「……理由は?」
「説明はできません」
それも、すでに分かっていた質問だ。
誰かが言った。
「しかし、これは
最も慎重に練られた案だ」
別の代表が続ける。
「各国の犠牲も、最小限に抑えている」
すべて、正しい。
それでも、
結果は変わらない。
評議長が、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
その反応に、俺は少しだけ驚いた。
「では――
修正案を検討しましょう」
その言葉で、
会議室の空気が変わった。
彼らは、
判断を変えようとしている。
それも――
俺の一言を起点に。
俺は、嫌な予感を覚えた。
これは、今までとは違う。
ここでは、
観測が“使われ始めている”。
修正は、慎重に行われた。
条約そのものを捨てる者はいない。
それは、ここまで積み上げてきた交渉の否定になる。
だから彼らは、
少しずつ変えることを選んだ。
「この条文を分離してはどうか」
「軍事条項だけ、段階的発効にする」
「通行権の範囲を限定する案は?」
修正案が出るたびに、
評議長は俺を見る。
「……これは?」
俺は、目を閉じる。
一度、判断が下される。
その瞬間、未来の輪郭が浮かぶ。
「――滅びます」
会議室に、短い溜息が落ちる。
誰も反論しない。
誰も理由を求めない。
「では、次」
条文が書き換えられる。
文言が削られ、条件が付け加えられる。
「これなら?」
俺は、もう一度答える。
「滅びません」
今度は、空気が変わった。
誰かが小さく頷き、
誰かが安堵の息を吐く。
「記録官の判断によれば、安全だ」
その言葉が、自然に使われた。
俺は、訂正しなかった。
訂正できなかった。
次の修正。
次の確認。
「これは?」
「滅びます」
「では、これは?」
「……滅びません」
会議は、効率的になっていく。
議論は減り、
代わりに確認が増えた。
理由を詰める必要がない。
反論を用意する必要もない。
結果だけが、分かるからだ。
気づいた時には、
誰も“なぜ”を口にしなくなっていた。
「安全か」
「危険か」
その二択だけが、残る。
評議長が言った。
「これは、便利ですね」
悪意はなかった。
ただの事実確認だった。
だが、その瞬間、
俺の中で何かが決定的にずれた。
これは、忠告じゃない。
これは――
判断そのものだ。
俺は、判断しない。
それが、ここまで守ってきた線だった。
だが今、
俺はその線の上に立たされている。
最後に、評議長が問いかける。
「では、どの案なら
我々は確実に滅びませんか?」
会議室の全員が、俺を見ていた。
沈黙が、長く伸びる。
俺は、答えなかった。
俺が答えなかったことで、
会議は止まった。
誰も怒らない。
誰も責めない。
ただ、困ったように互いの顔を見る。
「……続けましょう」
評議長が、そう言って場を繋いだ。
「我々自身で、最終案をまとめる」
その言葉は、健全だった。
少なくとも、表向きは。
だが、空気は変わっていた。
修正案が出ても、
誰も自信を持って推さない。
「もし、これが危険だったら?」
「いや、先ほどの案よりは……」
比較の基準が、
俺の沈黙になっている。
「記録官は、どう思う?」
誰かが、思わずそう漏らした。
評議長が咳払いをする。
「……失礼。
彼は、判断しない」
そう言いながらも、
その視線には期待が残っている。
俺が口を開かない限り、
誰も確信を持てない。
結局、条約案は
最初の案よりも弱く、
だが決断の根拠も薄いものになった。
安全かどうかは、分からない。
だが、
「記録官が否定しなかった」
という理由で、採択された。
その夜、
評議長が俺を呼び止めた。
「あなたは、正しい」
唐突な言葉だった。
「あなたが判断しないから、
我々は自由だ」
俺は、首を振った。
「いいえ。
自由ではありません」
だが、彼は続ける。
「もし、あなたが答えてくれれば、
我々はもっと良い判断ができた」
その言葉は、
責めでも、依存でもない。
委任だった。
俺は、そこで初めて理解した。
世界はもう、
俺の沈黙すら利用している。
数日後、条約は締結された。
大きな拍手も、歓声もない。
ただ、安堵だけがあった。
「少なくとも、
記録官に否定されなかった」
その一言が、
最大の保証として使われた。
俺は、記録帳に書く。
観測者が沈黙するとき、
世界はそれを肯定と誤解する。
条約がどうなるかは、
まだ分からない。
だが、
一つだけ確かなことがある。
俺がここにいる限り、
誰も完全には判断できない。
それが、この場で生まれた
新しい歪みだった。
条約が締結された翌朝、
同盟中央都市ヴァレストは、普段と変わらない様子だった。
市場は動き、
使節は行き交い、
世界は何事もなかったかのように続いている。
誰もが思っていた。
――今回は、間違えなかった。
理由は単純だ。
致命的だと言われなかった。
否定されなかった。
それだけで、十分だった。
俺は、その空気の中で
評議長から正式な申し出を受けた。
「今後も、同盟の判断に立ち会ってほしい」
予想通りの言葉だった。
「あなたがいるだけで、
我々は慎重になれる」
それは、称賛に近い。
だが、同時に危険な言葉でもある。
「私は、判断しません」
俺は、はっきりと言った。
「これまでも、これからも」
評議長は困ったように笑う。
「ええ、承知しています。
だからこそ――」
「違います」
俺は、彼の言葉を遮った。
「私は、
判断の安全確認装置ではありません」
その場に、沈黙が落ちる。
「私が“滅びる”と言えば、
それを避けるでしょう」
「私が“滅びない”と言えば、
それを選ぶでしょう」
「私が沈黙すれば、
それすら意味を持つ」
評議長は、反論しなかった。
否定できなかったからだ。
「それは、
あなた方が判断を
私に委ねているということです」
俺は、続ける。
「それは、
私が最も拒んできたことです」
世界は、便利なものを手放さない。
それが安全だと思えば、なおさらだ。
だが、
便利になった観測は、
必ず判断を奪う。
「これ以上、
私はこの場に立ち会いません」
評議長は、ゆっくりと頷いた。
「……理解します」
理解しているかどうかは、分からない。
だが、拒否は受け入れられた。
その日のうちに、
俺はヴァレストを離れた。
馬車の中で、記録帳を開く。
第六の記録に、最後の一文を書き足す。
観測は、判断を助けるためにある。
だが、判断を置き換えた瞬間、
それは災厄になる。
帳を閉じる。
世界は、これからも判断を下す。
俺がいなくても。
俺を探してでも。
だが、
少なくとも俺は、
判断を奪う側には立たない。
それが、
観測者として引いた、
最後の線だった。




