神は沈黙を選ばなかった
神殿国家ルセインは、静かな国だった。
城壁は低く、兵の数も多くない。
それでも、この国は長く戦火を免れてきた。
理由は明確だ。
彼らは、判断を神に委ねている。
白い神殿の奥、円形の会議室には神官たちが集っていた。
武装した者はいない。
机の上にあるのは、聖典と記録帳だけだ。
「次の神託は、三日後に下ります」
大神官が、穏やかに告げる。
軍の配置。
税の配分。
国境警備。
それらはすべて、
神託が下ってから決められる。
人が決めることはない。
少なくとも、彼らはそう信じている。
俺の立場は、外部監査官だった。
神託の内容と、その結果を記録し、
過去との整合性を整理する役目だ。
「あなたは、神を信じますか?」
若い神官が、ためらいがちに聞いてきた。
「判断はしません」
俺はそう答えた。
彼は、少し困った顔をする。
「ここでは、それは同じ意味です」
違う、と言いかけてやめた。
説明しても、理解されない。
神託が下りるという事実が、
この国では最大の安心材料だった。
「神は、我らを導かれる」
「だから、迷わない」
「だから、誤らない」
神官たちは、そう口にする。
だが、俺には分かっていた。
ここでも、
判断は行われている。
誰が神託を請うか。
どの言葉を重視するか。
どの解釈を採用するか。
それらはすべて、人の選択だ。
三日後、神託は下りた。
簡潔な言葉だった。
「守りを固めるな。
刃は外に向けよ。」
会議室が、安堵の空気に包まれる。
「防衛は不要ということだ」
「神が、戦いを望まれている」
「我らは、迷わず進める」
俺は、一度だけ口を開いた。
「その神託は、この国を滅ぼします」
空気が、止まった。
大神官が、静かに俺を見る。
「それは、神に逆らう言葉ですか?」
「いいえ」
俺は首を振った。
「判断に対する忠告です」
神官たちは、理解できないという顔をした。
彼らは、
自分たちは判断していない
と、本気で信じている。
それが、この国の強さであり、
同時に――
最も脆い部分だった。
神託は、一度で終わらなかった。
正式な文言が記録された翌日、
神官会議は再び招集された。
「神託の解釈について、確認が必要です」
大神官はそう言って、聖典を開く。
「守りを固めるな。
刃は外に向けよ。」
短い言葉だ。
だからこそ、余地がある。
「“守りを固めるな”とは、
城壁の補修を止めよ、という意味でしょうか」
「いや、心の守りを指しているのでは?」
「“刃”とは軍のことか、それとも信仰のことか」
議論は、穏やかだった。
誰も声を荒らげない。
なぜなら、
これは“判断”ではなく“解釈”だからだ。
「神は、我らに攻勢を求めておられる」
そう結論づけたのは、中堅の神官だった。
「外に刃を向けるとは、
敵地への進軍を意味するのでしょう」
反対意見は、すぐに出なかった。
攻勢は、この国の理念と合致する。
信仰を広め、神の意志を示す――
美しい物語だ。
「だが、防衛を完全に捨てるのは危険では?」
若い神官が、控えめに口を挟む。
大神官は、静かに首を振った。
「神は“守りを固めるな”と仰った。
それを疑うのは、我らの役目ではない」
その言葉で、議論は終わった。
結論は、こう記録された。
『神託に従い、防衛体制を縮小。
外征準備を開始する』
俺は、その文面を記録帳に写す。
その横で、別の書類が回されていた。
「再請願の件ですが……」
「念のため、だ」
大神官が言う。
「神託が重なることで、
解釈が明確になることもある」
再請願。
神に、もう一度尋ねる行為だ。
だが、質問の仕方は変えられていた。
「守りを捨てよ、とは
全面的な撤去を意味するのか?」
数日後、再び神託が下りる。
「迷うな。
進め。」
会議室に、安堵が広がった。
「やはり、神は前進を望まれている」
「これで、疑念は消えた」
だが、疑念が消えたのは
結論を疑う理由だけだ。
俺は、二つの神託を並べて記録する。
最初の言葉。
再請願の言葉。
どちらも、神のものだ。
だが、その使われ方は、人のものだった。
「あなたは、まだ反対ですか?」
大神官が、俺に尋ねる。
「忠告は、すでにしました」
それ以上は言わない。
ここでは、
忠告は信仰への挑戦と同義になる。
神官たちは、
自分たちは選んでいないと信じている。
だが実際には、
選びやすい神託だけを集めている。
それが、判断でなくて何だろう。
防衛の縮小は、静かに進められた。
城壁の補修が延期され、
見張りの数が減り、
巡回の頻度が落ちる。
理由は、すべて明確だ。
「神託に従っている」
その一言で、説明は不要だった。
外征準備も始まった。
兵は少ないが、信仰は厚い。
「神が共におられる」
それが、この国の最大の戦力だった。
だが、問題は
神託が一つではなかったことだ。
再請願を行ったのは、大神官だけではない。
地方神殿から、別の神託が届く。
「刃は内に向けよ。
汚れを払え。」
会議室が、ざわついた。
「内……?」
「異端の排除では?」
「いや、備えを固めよという意味かもしれない」
神託は、否定し合わない。
だが、解釈は衝突する。
大神官は言った。
「最初の神託が主だ。
こちらは補助的なものと見るべきだろう」
別の神官が反論する。
「しかし、同じ“刃”という言葉を使っている。
神は、何かを正そうとしているのでは?」
どちらも、神託に従っている。
どちらも、神を疑っていない。
だからこそ、
どちらも譲らない。
防衛縮小を続ける派。
内部粛清を進める派。
神託が、陣営を作り始めた。
その間にも、外の世界は動いている。
周辺国の軍が、国境付近で動員を始めた。
交易路が、不安定になった。
だが、会議は止まった。
どの神託を優先するか。
それを決めるのは、人だ。
そして、
誰もその責任を負いたくなかった。
「神が示されるだろう」
「さらなる神託を待つべきだ」
判断は、先延ばしにされた。
その夜、神殿の一つが襲撃された。
犯人は、分からない。
異端か、外敵か、内部か。
分かっているのは、
防衛が薄くなっていたという事実だけだ。
翌朝、
さらに別の神託が下りる。
「遅れるな。
選べ。」
会議室に、沈黙が落ちた。
神は、答えた。
だが、
答えは一つではなかった。
俺は記録帳を閉じる。
ここから先は、
神託ではなく、人が壊す。
神は沈黙していなかった
崩壊は、選択の形を取らなかった。
外敵が国境を越えたのは、
神託が三つに分かれた翌日だった。
防衛は薄く、
軍の再配置も終わっていない。
それでも神官会議は集まった。
「これは、どの神託に該当する?」
誰かが、真剣にそう問いかけた。
「刃は外に向けよ」
「刃は内に向けよ」
「遅れるな。選べ」
どれも、当てはまる。
どれも、決定打にならない。
「神が、我らを試しておられるのだ」
誰かが言う。
「ならば、もう一度――」
再請願の準備が始まった。
その最中、
外城が落ちた。
防衛部隊が足りなかったのではない。
配置されていなかった。
守る判断が、
最後まで保留されていた。
民衆は逃げ惑い、
神殿に押し寄せた。
「神は、何と仰っているのですか」
神官は答えなかった。
答えられなかった。
神は、すでに答えている。
だが、それをどう使うかは、人の判断だ。
都市の一角で、神官同士の衝突が起きた。
異端の排除を主張する派と、
外敵迎撃を優先する派。
どちらも、神託を掲げている。
どちらも、正しい。
だから――
止める者がいなかった。
侵攻は一日で終わった。
抵抗は散発的で、統率がなかった。
神殿国家ルセインは、
戦争に負けたのではない。
判断不能に陥った結果、機能を失った。
俺は、瓦礫の外からその様子を見ていた。
神殿は崩れ、
聖典は焼け、
神官たちは散り散りになった。
それでも、誰も神を責めなかった。
「神の御心は、我らには理解できない」
最後まで、そう言われ続けた。
俺は記録帳を開き、
この国の最終行を書き記す。
神は沈黙していなかった。
人が、聞きたい言葉だけを選んだ。
それで、この記録は終わる。
俺は国を離れる。
次も、同じだろう。
人は、判断から逃げたい。
だが、
逃げるという選択そのものが、
最も重い判断になる。
それを、俺はただ記録する。




