英雄は耳を貸した
独立防衛軍団は、野営地を移動していた。
規模は大きくない。
だが、無駄がなく、統率が取れている。
一目で分かる――ここは、即席の寄せ集めではない。
俺は軍団本部の天幕で、指揮官と向かい合っていた。
名はエルヴァン。
この国では英雄と呼ばれている人物だ。
「来てくれて感謝する、記録官殿」
彼はそう言って、軽く頭を下げた。
形式的な礼ではない。
「王国の件も、交易都市の件も、報告は読んだ。
あれは……重い記録だな」
「事実を並べただけです」
俺がそう答えると、エルヴァンは小さく笑った。
「それが一番、重い」
この男は、理解している。
だからこそ、ここに呼ばれた。
「君の立場は聞いている。
判断はしない。忠告は一度だけ。
その先は記録するだけだと」
「その通りです」
「なら、今回も聞こう」
エルヴァンは地図を広げた。
国境線。
敵軍の布陣。
補給路。
情報は正確だった。
判断も、拙速ではない。
「我々は、この地点で敵を迎え撃つ」
「決戦ですか」
「そうだ」
彼は即答した。
「時間をかければ、国が持たない。
民も、軍も、長期戦に耐えられない」
理由は明確だった。
感情論ではない。
俺は、地図の一点を指す。
「この補給路は、断たれます」
エルヴァンは視線を落とす。
「可能性はあるな」
「可能性ではありません。起こります」
「対策は?」
「別ルートの確保。
主力の前進速度を落とすこと」
彼は少し考え、頷いた。
「採用しよう」
即断だった。
部下たちがざわめく。
英雄が、外部記録官の意見を採用した。
だが、俺は続けた。
「もう一つ。
決戦は避けるべきです」
エルヴァンは、そこで初めて黙った。
「……それは、できない」
理由を説明する必要はなかった。
彼の立場なら、誰でも分かる。
勝たねばならない。
守らねばならない。
期待に応えねばならない。
「忠告は、ここまでです」
俺はそう言って、地図から手を離した。
エルヴァンは、俺を見て言った。
「感謝する。
聞くべきところは聞いた」
それで十分だった。
この男は、耳を貸した。
だが――
すべてを受け入れることは、できなかった。
補給路の再編は、迅速に進められた。
主力部隊の前進速度を落とし、
後方に余力を残す。
馬と人員の消耗を抑え、
輸送を分散させる。
俺の忠告は、正確に実行された。
結果は、すぐに現れる。
敵の小規模な妨害は失敗し、
補給部隊は予定通りに前線へ届いた。
「報告通りだな」
エルヴァンは地図を見ながら言った。
「補給は安定している。
これで、前回のような混乱はない」
副官が頷く。
「兵の士気も高い。
敵の動きも鈍いようです」
事実だった。
軍団は、秩序を保って前進している。
無理も、無駄もない。
小競り合いでは、確実に勝利を重ねた。
損害は最小限。
退却も迅速。
兵たちは、自信を持ち始めていた。
「今回は違う」
誰かが、そう呟いた。
違う、という言葉は伝染する。
野営地全体に、静かな高揚感が広がっていった。
民衆からの使者も届いた。
「軍団が押している、と噂になっています」
「英雄が、また勝つと」
エルヴァンはその報告を、否定しなかった。
否定する理由が、なかったからだ。
俺は、記録帳に淡々と書き付ける。
・補給安定
・損耗低
・士気高揚
数値だけを見れば、理想的な進軍だ。
だが、
それでも変わらないことがある。
決戦は、避けられていない。
エルヴァンは、前線に出続けていた。
敵もまた、距離を保ちつつ撤退しない。
逃げてもいない。
崩れてもいない。
ただ、戦線を引き延ばしている。
「敵は、何を狙っている?」
副官が問いかける。
「時間だろう」
エルヴァンは即答した。
「我々が焦れるのを待っている」
分かっている。
分かっていて、前に進む。
彼は、賭けに出ているのではない。
選んでいる。
俺は、口を挟まない。
忠告は、すでに出した。
ここから先は、彼の判断だ。
夜、天幕の外で兵たちの声が聞こえる。
笑い声。
勝利の話。
明日の進軍の話。
誰もが思っている。
――今回は、勝てる。
その空気は、間違いではない。
だが、十分でもない。
俺は、記録帳を閉じた。
補給は守られた。
布陣も修正された。
士気も高い。
それでもなお、
決戦を選んだという一点だけが、修正されていない。
それが、この戦いの結論になる。
決戦は、避けられなかった。
敵軍は撤退せず、
こちらが前に出れば、必ず応じた。
小規模な衝突を繰り返しながら、
戦線は徐々に狭まっていく。
「このまま押し切れる」
副官が言った。
事実だった。
戦力差は、こちらにある。
補給は安定している。
兵の疲労も、致命的ではない。
敵の損耗の方が、明らかに大きい。
だからこそ――
決断の時が来た。
「全軍、前進」
エルヴァンの命令は、迷いがなかった。
戦場は、激しく動いた。
正面衝突。
密集戦。
剣と槍がぶつかり合い、
魔術が空を裂く。
軍団は、善戦した。
隊列は崩れず、
指揮系統も保たれている。
エルヴァン自身が、前線に立ち続けた。
その姿が、兵を奮い立たせる。
「英雄だ……」
誰かが、そう呟いた。
その通りだった。
だが、敵は退かなかった。
敗れているのに、
崩れていない。
押されながら、
戦場を広げていく。
「後退しているように見せて、
こちらを引き延ばしている」
副官が叫ぶ。
エルヴァンは理解していた。
理解した上で、進んだ。
退けなかった。
退けば、
士気が崩れる。
国が崩れる。
英雄は、
“退けない理由”を背負っている。
戦いは、日を跨いだ。
二日目。
三日目。
勝っているはずなのに、
終わらない。
補給は、まだ届いている。
だが、消耗がそれを上回り始める。
敵は、退かない。
逃げない。
ただ、こちらが疲れるのを待っている。
四日目の朝、
エルヴァンの馬が倒れた。
矢ではない。
疲労だ。
その瞬間、戦線が揺らいだ。
大きく崩れたわけではない。
だが、“完全ではなくなった”。
敵は、それを逃さなかった。
側面から、
後方から、
一斉に圧力がかかる。
「退却!」
副官の声が飛ぶ。
エルヴァンは、遅れて頷いた。
遅れは、致命的だった。
軍団は、壊滅しなかった。
だが、戦場を失った。
それで、十分だった。
敵は追撃しない。
勝利を確認したからだ。
数日後、
小国は降伏した。
条件は、重くない。
軍団の解体。
防衛権の放棄。
エルヴァンは、処刑されなかった。
捕虜にもならなかった。
引退という形で、
表舞台から姿を消した。
民衆は、彼を責めなかった。
「よく戦った」
「英雄だった」
その評価は、正しい。
だが――
戦争は、負けた。
俺は、記録帳に書く。
・補給対策:成功
・布陣修正:成功
・決戦回避:不採用
結論は、簡潔だ。
正しい判断を、すべては選ばなかった。
それだけのことだ。
エルヴァンに会ったのは、降伏文書が交わされた翌日だった。
野営地は解体され、
兵たちはそれぞれの帰路につく準備をしている。
怒号も、嘆きもない。
ただ、終わったという空気だけがあった。
彼は鎧を脱ぎ、
簡素な外套を羽織っていた。
「来たか」
声に疲れはあったが、
後悔の色はなかった。
「忠告は、正しかったな」
彼は先にそう言った。
俺は否定しなかった。
肯定もしない。
「だが、私は決戦を選んだ」
エルヴァンは、視線を遠くに向けた。
「補給を守り、布陣を直し、
それでも退くことはできなかった」
理由を、彼は語らなかった。
語る必要がない。
英雄とは、
勝てる戦いだけを選べる存在ではない。
「君は、どう書く?」
記録官としての問いだった。
「事実を」
それだけ答えた。
エルヴァンは、短く笑った。
「それでいい。
私は、判断した」
彼は間違えたのではない。
逃げたのでもない。
ただ――
選びきれなかった。
俺は記録帳を開き、
最後の一行を書き加える。
彼は正しかった。
だが、正しさは十分ではなかった。
それで、この記録は終わる。
俺は軍団を離れ、
次の場所へ向かう。
また誰かが判断を下し、
また何かが失われるだろう。
それでも俺は、
一度だけ忠告し、
その後は、記録する。
判断を誤ったのは、俺じゃない。
足りなかったのは、
すべてを選ぶ覚悟だった。




