判断を誤ったのは俺じゃない。
異世界に転移してから、すでに数年が経っていた。
最初の混乱はとっくに過ぎ、言葉も制度も、この国のやり方が自然に身についている。
それでも――ここが自分の居場所だと思えたことは、一度もなかった。
王都中央庁舎。
白石造りの会議室には、長机を囲んで将軍、貴族、文官たちが並んでいる。
俺の席は、壁際の末席だった。
肩書きは官吏補佐。
議決権はない。
発言権も、形式的なものに過ぎない。
議題は国境情勢。
隣国との緊張が限界に達し、軍を進めるか否か――その最終判断を下す会議だった。
俺は一枚の資料を机の上に滑らせた。
「この進軍案は、失敗します」
ざわめきが、一瞬だけ止まる。
将軍の一人が、眉をひそめた。
「理由を述べろ」
「補給線が三日で破綻します。
敵軍の迎撃ではありません。地形と、天候です」
声を張らず、感情を交えず、ただ事実だけを並べた。
ここで必要なのは説得ではない。
判断材料の提示だ。
宰相が資料に目を落とし、数秒だけ黙考する。
それから、静かに口を開いた。
「仮定に過ぎない」
「仮定ではありません。起こります」
「起こる“可能性”の話だ」
違う、と言いかけて、やめた。
このやり取りは、もう何度も繰り返してきた。
会議はそのまま進み、進軍案は多数決で可決された。
俺の意見は、議事録の末尾に短く添えられる。
『慎重論あり。採用せず』
それだけだ。
会議の後、宰相に呼び止められた。
応接室には、俺と彼の二人きり。
「君の意見は、理解できる」
宰相はそう前置きしてから、淡々と続けた。
「だが、君は“最悪の結果”ばかりを口にする」
否定はしなかった。
事実だからだ。
「最悪を想定しなければ、判断は誤ります」
「違う」
宰相は首を振った。
「人は、最悪ばかりを突きつけられると、決断できなくなる。
今、この国に必要なのは前進だ」
処分は、穏便だった。
•官位の剥奪
•王都滞在権の解除
•国境越えの通行許可証の発行
公式な理由はこうなる。
『政務整理に伴う人員再配置』
実質的には、排除だった。
「恨みはあるか?」
形式的に、宰相はそう尋ねた。
「ありません」
本心だった。
判断を下したのは、俺じゃない。
俺はただ、その判断が招く結果を知っているだけだ。
その結果が、王国の滅亡であることも。
王都を出たのは、翌朝だった。
城門の外で振り返っても、特別な感慨は湧かなかった。
この国は、俺を必要としなくなった。
それだけの話だ。
馬車に揺られながら、頭の中で会議の光景を反芻する。
あの場に、激情はなかった。
誰一人として、軽率な判断を下したつもりもない。
むしろ逆だ。
彼らは皆、「慎重に」選んだ。
「敵軍の動向は確認済みか」
「斥候からの報告では、進軍の兆候はなし」
「では、主導権は我々にある」
「補給線については?」
「過去の行軍記録と照合した。問題はない」
そうやって、一つずつ懸念を潰していった。
俺の意見だけが、最後まで“潰しきれない不確定要素”として残った。
だから、切り捨てられた。
合理的な判断だ。
会議とは、そういうものだ。
三日後、最初の報告が届いた。
王都の掲示板に貼り出された、簡素な公文書。
『北部遠征軍、予定通り進軍中。
一部補給遅延あり。現在調整中』
補給遅延。
まだ、誰も気にしない言葉だ。
街の人々は、いつも通りだった。
市場は賑わい、酒場では勝利を見越した話が飛び交う。
「遅れなんて、よくあることだろ」
「戦争なんて、そんなもんだ」
その通りだ。
この段階では、何も“失敗”していない。
五日目。
次の報告は、少しだけ文章が長くなった。
『降雨による道路状況の悪化により、
一部部隊の補給が予定より遅延。
指揮系統に問題はなし』
雨。
予測通りだった。
だが、まだ“想定内”として処理される。
誰も責任を問われない。
七日目。
公文書から、「予定通り」という文言が消えた。
『補給部隊の到着に遅れが生じている。
現地判断により、進軍速度を調整中』
現地判断。
これもまた、正しい。
だが、この時点で
補給線はすでに三か所で分断されていた。
それを正確に把握している者は、いない。
十日目。
報告は掲示されなかった。
代わりに、城門を通る負傷兵の姿が増えた。
数は少ない。
だが、理由が曖昧だった。
「敵の奇襲だそうだ」
「いや、事故らしい」
情報が揃わない時点で、状況は悪い。
それでも、王都はまだ落ち着いていた。
公式発表は、翌日になって出された。
『北部遠征軍、戦線整理のため一時後退』
撤退、とは書かれていない。
言葉の選び方が、いかにもこの国らしい。
その夜、俺は別の街にいた。
小さな宿屋の一室で、簡易な地図を広げる。
進軍路、補給拠点、天候。
線を引く必要はなかった。
すでに、結果は確定している。
ここから先は、連鎖だ。
誰かが悪かったわけではない。
判断の一つ一つは、合理的だった。
ただ――
最初の判断だけが、致命的だった。
「だから言ったのに」
声に出しても、誰に届くわけでもない。
俺はただ、その事実を記録する。
この国が、どう滅びるかを。
王都が異変を認識したのは、遅かった。
最初に問題になったのは、数字だった。
兵糧の消費量と、到着量が合わない。
帳簿上は問題がないはずなのに、前線からの要求が急増している。
「現地の管理が甘いのでは?」
「一部将校の横流しではないか」
疑われたのは、末端だった。
宰相府は調査団を編成し、前線へ向かわせた。
その判断自体は、間違っていない。
ただ、遅すぎただけだ。
調査団が到着した頃には、
補給拠点の一つが、すでに放棄されていた。
原因は単純だった。
•道路の寸断
•馬の消耗
•連日の降雨
どれも想定内。
だが、それが同時に起きることだけが、想定されていなかった。
前線は、独自判断で部隊を集結させた。
兵をまとめなければ、防御が成立しない。
結果、補給線はさらに細くなった。
王都では、会議が開かれ続けた。
「なぜ報告が遅れた?」
「報告は上がっていた。重要度が低いと判断された」
「誰が判断した?」
「規定に基づいて処理された」
誰も嘘はついていない。
誰も責任を放棄していない。
ただ、全員が
“自分の判断は正しかった”
と信じているだけだ。
敵軍が動いたのは、その直後だった。
奇襲ではない。
正面突破でもない。
補給の途絶えた部隊を、順番に潰しただけだ。
敗走の報が届いたのは、夜だった。
『北部遠征軍、戦線維持困難』
この文言が使われた時点で、
実質的な敗北は確定している。
翌日、王都は慌ただしくなった。
徴兵の通達。
物資の強制徴発。
税の前倒し徴収。
国は、まだ戦えると思っている。
だが、戦えるのは
準備がある国だけだ。
準備は、最初の判断で失われていた。
数週間後、王都に難民が流れ込んだ。
北部から、次は東部から。
噂は、いつも公式発表より早い。
「軍が全滅したらしい」
「王族が逃げたそうだ」
「いや、まだ持ちこたえている」
真実は、その中間だった。
軍は壊滅し、王族はまだ逃げていない。
逃げる準備をしているだけだ。
その頃、俺は国境を越えていた。
新しい国の小さな街。
地図にも載らない場所だ。
宿屋で、最後の報告書を読んだ。
『王都、防衛体制に移行』
それはつまり、
この国が「負けを認めた」という意味だ。
紙を畳み、鞄にしまう。
これで、この国に関する記録は終わりだ。
判断を誤ったのは、俺じゃない。
忠告を無視した結果については、すでに記録してある。
俺は、次の国へ向かう。
同じことが起きると知りながら。
この能力を、俺は便利だと思ったことがない。
未来が見えるわけじゃない。
勝利の道筋が分かるわけでもない。
ただ――
選ばれた判断が、致命的な結果を招く時だけ、
それを「知ってしまう」。
いつからそうなったのかは、覚えていない。
異世界に来た直後だった気もするし、
気づいたら、そうなっていた気もする。
自分の判断には、使えない。
俺が何を選ぼうと、何も分からない。
分かるのは、いつも他人の判断だ。
王国の会議。
軍の進軍。
補給線の設計。
そして――滅び。
俺は忠告する。
それ以上は、何もしない。
説得もしない。
感情も交えない。
判断を下すのは、俺じゃないからだ。
次の国でも、同じことをするだろう。
一度だけ告げる。
それを採用するかどうかは、相手次第だ。
俺はただ、
誤った判断が招いた結果を記録する。
それが、この世界での
俺の役割らしい。




