第五章 【白に溶ける距離】
昨夜は月が薄く欠けていた。
夜半に降った雪が、騎士団の石畳に薄く残っていた。
朝の光がその白を照らすたび、昨日の東屋での静かな時間が胸の奥で蘇る。
──君の弟と、向き合うべきだ。
言葉にした時よりも、今の方がその重みが深い。
恋人としての決意ではなく、“リヴィアの家族”という繊細な領域へ踏み込む覚悟だった。
胸の奥がわずかに緊張を帯びたその時──
控え室へ向かう通路で、ルシアンとすれ違った。
昨日より少し背筋を伸ばしてはいるが、視線だけが揺れている。
アシェルの存在に気付くと、少年は一瞬こちらを見て──すぐ顔を逸らした。
逃げているのではない。迷いが残る歩幅だった。
昨日の会話を耳にしたのか、リヴィアの変化から察したのか。
あの少年は、姉の心の揺れに敏い。
「気付いていたか、兄上」
背後から声がする。振り返るとシルヴァンがいた。
「あいつ……兄上を見ると歩幅がわずかに狂う」
「……そう見えたか」
「見えた。兄上が気付くより前からな」
淡々とした声音の奥に、弟としての配慮が滲む。
アシェルは短く息を吐いた。
「……今日のうちに話すべきだな」
「そう思うなら迷うな。迷いは、あの年頃の子には全部伝わる」
続いたのは──
「アシェル兄なら大丈夫だって!もう一人弟が増えるだけだし!」
レオンが唐突に肩を叩いてきた。
「……兄ではないと言っている」
「えー!?姉の恋人ならもう兄だろ!」
アシェルは額を押さえた。
この末弟は、こういう時だけ核心を突く。
だが、シルヴァンが苦笑する。
その“いつもの兄弟の空気”が、かえってルシアンとの距離を際立たせた。
──自分は彼にとって、まだ“姉の傍に立つ得体の知れない大人”なのだ。
胸のどこかが、小さく疼いた。
*
訓練場へ向かう途中、リヴィアと出会う。
彼女はアシェルを見つけると、凛とした空気の中でふわりと微笑んだ。
「アシェル様。……今日、ルシアンに声をかけてあげてください」
「……何か感じているようだな」
「ええ。昨日、帰る途中も……何度も振り返っていました。“アシェル様は怒っていないか” と」
アシェルは目を瞬いた。
怒っているどころか、どう接するべきか迷っているのは自分の方だ。
「……話そう、今日」
「はい。ありがとうございます」
控えめな礼に、背中をそっと押される。
触れたいと思った手は空中で止まり、代わりに名を呼んだ。
「……リヴィア」
「はい?」
「君の大切な家族だからこそ慎重になる。それだけは……分かっていてほしい」
驚きに揺れた瞳が、すぐに柔らかな光を宿す。
「アシェル様なら……大丈夫です。ルシアンはきっと、分かってくれます」
その確信に満ちた声が、静かに胸へ染みていく。
──行かなくては。
*
昼時、裏庭。
人の気配が薄く、雪解けの滴だけが静かに響く場所。
ちょうどルシアンが一人で道具を片付けていた。
アシェルが近付くと、その気配に彼の肩がぴくりと揺れる。
振り返るまでの数秒が、やけに長い。
「ルシアン」
名を呼ぶと、その動きが止まる。
「……アシェル、様」
声は震えていない。だが視線が揺れる。
“向き合う覚悟” を整えるための揺れだ。
「昨日の朝礼……君が私を見ていたのを気付いていた」
少年の耳が、赤くなる。
「み、見ていたわけじゃ……」
「なら何を見ていた?」
「……あ、姉……?」
嘘のつけない声だった。
(……姉を案じている)
胸の奥にさざ波のような感情が広がる。
「リヴィアは、君がこちらを見ていたことを心配していた。迷っているのではないかと」
ルシアンの瞳がはっと震えた。
「……姉上、が」
「そうだ。彼女は君のことになると、強いくせにすぐ不安になる」
少年は唇を噛んだ。
そして──こぼれるように言った。
「……俺、アシェル様に嫌われたかと思って」
「嫌う理由などない」
「……俺から、姉を……取ったから」
吐き出された声は幼く、真っ直ぐだった。
胸の奥に鈍く刺さる。
(そう映っていたのか)
突然姉の隣に立った男。
敵視されても不思議ではない。
アシェルは一拍置き、言葉を落とす。
「……ルシアン。私は君から姉を奪ったつもりはない」
少年がかすかに息を飲む。
「なら……どうして……」
「奪わなくても、一緒にいられる。君の姉は、そういう人だ」
ルシアンの喉が震え、視線が上がる。
「私は、君を嫌っていない。姉を大切に思う君を……好ましく思っている」
少年の頬が熱を帯びる。
胸元をぎゅっと握りしめる、アシェルよりも小さな手が震えた。
その仕草は、姉とそっくりだ。
「……アシェル様を……嫌いになんてなれない……」
その声が、幼い決意に変わるまでほんの一瞬。
アシェルは静かに息を吐いた。
「君の姉を、大切にする。それを……君にも伝えておきたかった」
ルシアンは深く息を吸い、拳をぎゅっと握る。
冷気の中で、覚悟が固まっていく。
そして、初めてまっすぐに頭を下げた。
「……姉を、頼みます。アシェル様」
雪が二人の間に静かに落ちていく。
距離が、わずかに縮まった。
──これでようやく、リヴィアの前に立てる。
胸の奥の緊張がひとつほどけた。
*
訓練が終わる頃には、夜の冷気が団舎の回廊を満たしていた。
灯りの魔力球がほのかに揺れ、雪の匂いを含んだ風が窓を叩く。
昼間の言葉が胸の奥で静かに響き続ける。
──姉を取ったから。
簡単には消えない重さだ。
だからこそ、リヴィアにも伝えるべきだと思った。
温室裏の細道。
彼女は一日の締めに夜の空気を吸うのが習慣らしい。
冷気を纏うその背に声をかけた。
「……リヴィア」
振り返った瞳が、ふわりと安堵の光を宿す。
「アシェル様。……お疲れさまです」
その声に、胸の緊張が静かに解ける。
「ルシアンと話をした」
リヴィアの瞳が静かに揺れる。
「……どう、でしたか」
「良い時間だった。君が心配するようなことは、なかった」
彼女は小さく息をつく。
けれど“本当を聞く覚悟”も帯びていた。
だから、隠さなかった。
「……あの子は、私が君を“取った”と思っていたようだ」
リヴィアは息を飲む。
「そんな……」
「責める必要はない。姉を想う者なら自然な感情だ」
彼女の睫毛に落ちた雪が、するりと溶ける。
「……私がもっと説明していれば」
「違う。あれは君ではなく、私が向き合うべきことだ」
そっと距離が縮まる。
触れ合う一歩手前──今日の距離は、それが一番近い。
「君の弟だ。君を大切に思う者に、私はどう映るべきか……考えた」
リヴィアの瞳が驚きに見開かれ、それから静かに微笑んだ。
「……アシェル様は、優しすぎます」
「優しさではない。君が誤解で傷つくのを、見たくないけだ」
その瞬間、彼女はわずかに息を止めた。
「……私の……ために?」
「君のためでなければ、動かない」
夜風が二人の間を通り抜ける。
「……では、ルシアンはなんと?」
アシェルは、もっとも心に残った言葉をそのまま告げた。
「“姉を頼みます” と」
リヴィアの唇が震え、目元に温かさが滲む。
それだけで、今日向き合った意味があった。
「……アシェル様。本当に……ありがとうございます」
「礼などいらない。君の家族と向き合うのは、私の選んだ道だ」
「でも……嬉しいのです。アシェル様が、家族を……そして私自身を、大切に思ってくださることが」
その声が胸の奥深くに落ちていく。
「……リヴィア」
「はい……」
「私は君の家族を大切にする。君の過去も痛みも……全部。ただ、その中心にいるのは──君だ」
リヴィアの頬が静かに紅く染まる。
「……そのようなことを言われたら……胸が、熱くなって困ります」
雪が柔らかく降り続ける。
リヴィアはその白銀の中で、そっと笑った。
「アシェル様。……弟のことを話してくださって、嬉しく思います。私も……前へ進めます」
アシェルはその言葉を、静かに胸に刻んだ。
──前へ進む。
次は“戦場”という現実だ。
だが今だけは、雪夜に揺れる微笑みの温度だけを見つめていたかった。
「……行こう。寒くなる」
「はい」
並んで歩く足跡は、同じ歩幅で白銀の上に続いていった。
第五章 了




