第四章 【柔らかな風、揺れる境界】
勤務の後半は、妙に呼吸が浅かった。
戦場では乱れない脈が、今日はどうにも一定に戻ってくれない。
原因は明らかだ。
──今日の終わりに、リヴィアと話をする約束。
たったそれだけのことに、どうしてこんなにも心が波立つのか。
自嘲しかけたところで、ゲイル副官が控えめに近寄ってくる。
「アシェル卿。……胸当ての留め具が逆です」
「……すまない」
外す動作がほんの僅か震えているのを、ゲイルは気付いていながら指摘しない。
それが彼の美徳でもあり、年長者の礼節でもある。
「風が変わるものです。いつかは必ず」
そう、低く呟いた。
その一言がわずかに胸へ沈んだ瞬間、廊下の奥から軽い足音が響いた。
レオンだ。
「アシェル兄ー! さっきからずっとそわそわしてるけどさ! 今日なんかあるの!?」
「……何もない」
「あるじゃん!」
即答だった。嬉々とした顔で。
面倒だ、と眉を寄せる前に、別の気配を感じた。
廊下の角で足音が止まる。
整った姿勢。静かな呼吸。
気配だけでわかる。
リヴィアだ。
「兄上、表情を整えた方が良い。末弟のからかいより、彼女の方が早く来る」
横からシルヴァンの小声。
なぜ分かる、と返すより早く、レオンが叫んだ。
「ほらほら来たっ! アシェル兄、耳赤いッ!」
「殴るぞ」
リヴィアの前で拳を振り上げるわけにはいかないので、言葉だけで黙らせる。
それだけでレオンが怯むあたり、兄としての威厳はまだ残っているらしい。
数瞬後、リヴィアが姿を見せた。
淡い光をまとったような歩き方で。
「アシェル様……お時間、よろしいですか」
小さく息を整えた。
騎士団長に呼ばれた時よりも神経が張るというのは、どうにも意味が分からない。
「……ああ。行こう」
その短いやり取りだけで、シルヴァンが深く息を吐き、レオンが椅子から転げ落ちそうになり、ゲイルがひどく上品に微笑んだ。
“雪解け”に続き、今度は 柔らかな“風” が流れ始めていた。
リヴィアと並んで廊下を歩くと、外の空気が想像以上に澄んでいた。
夕刻の光が雪を金色に照らし、騎士団本部の影を長く伸ばしている。
「……ここでは人が多い。場所を変えよう」
私がそう言うと、リヴィアは静かに頷く。
歩幅を揃えようとしているのが分かり、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
外庭の端、誰も通らない小さな東屋に着く。
冬の木々が風に揺れ、静寂が降りる。
ここなら良い──と思った瞬間、先にリヴィアが口を開いた。
「アシェル様。今日……その、朝……」
言いよどむ声は、普段の彼女よりも少し高い。
どこか胸の奥をくすぐる響きだった。
「私のせいで、騎士団の空気を乱してしまったのなら……申し訳ありません」
「あれは……君のせいではない」
断言したつもりなのに、声がわずかに柔らかかった。
その変化に自分でも気づいて、少しだけ視線をそらす。
「団員たちが、色々と──」
「気にしていない」
たしかに、気にしていないはずだ。
だが本音を言えば──
「むしろ……周囲の視線を気にしているのは……私の方だ」
言ってしまった瞬間、空気が変わった。
リヴィアが小さく目を見開き、その後すぐに目を伏せ、きゅっと手袋の端を指でつまんだ。
「……あの。私も……少しだけ、同じでした」
脈が、遅れて追いついてくる。
「朝礼の時、アシェル様が……その……私の方を見ていたので」
「……見ていた」
「……はい」
雪の粒が風に乗って東屋へ舞い込み、リヴィアの髪に触れる。
その白が銀へ、銀が柔らかな青へ変わっていく。
その変化を見るたび、何かが胸に迫った。
私は息を整え、言葉を選ぶ。
「君を見ると……構えが薄れる。騎士としては、あまり褒められたものではない」
それは告白ではない。
けれど、嘘でも誤魔化しでもなかった。
リヴィアは驚いたように顔を上げる。
目が合うと、また少しだけ頬が染まった。
「……私は、構えていないアシェル様の方を見られて……胸がいっぱいです」
風が止まったような静寂が落ちた。
胸の奥で、何かが音を立ててほどけていく。
その時だった。
近くの茂みががさりと揺れる。
……レオンだ。
「シル兄、あれ絶対告白の──うぐっ!?」
次の瞬間、反対側からシルヴァンの手が伸び、レオンの口を塞いだ。
茂みから見えたのは、末弟の足だけだった。
「……気にするな」
「……はい。慣れています」
リヴィアが小さく笑った。
その笑顔は、雪を照らす光よりも温かかった。
私は深く息を吸い、意を決した。
「……話は、まだ続きがある。もう少しだけ、時間をもらえるか」
リヴィアは胸の前で手を重ね、深く頷いた。
「もちろんです」
その返事が、夕刻の冷えた空気を静かに温めていく。
東屋の屋根を叩く風の音だけが、しばらく場を満たしていた。
恋人になったというのに、リヴィアの前だとどうしてこんなにも言葉の選び方に迷うのか。
沈黙を破ったのは、彼女だった。
「……朝のことで、ひとつだけ」
「ん?」
「ルシアンのことです」
その名を聞いた瞬間、アシェルはわずかに眉を上げた。
彼の存在を知らないわけではない。
これまでにも顔を合わせ、礼儀正しく挨拶も交わしている。
だが──それはあくまで“姉の同僚”としての距離感だった。
「今日のルシアン、少し……落ち着きがありませんでした。私のそばに来たかと思えば、すぐに離れて……何度も」
「……君に、何か言いたかったのだろう」
「ええ。でも、それだけではなくて……」
リヴィアは困ったように笑みを浮かべる。
「アシェル様の方も……ちら、と見ていて。その度に、また逃げてしまって」
アシェルはその言葉に短く息を吐いた。
驚きではなく、納得に近い。
──あの少年は、姉を大切にしている。
そして、アシェルが“姉の恋人”であることも、もう知っている。
「……いずれ、きちんと話す必要があるな」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついて出た。
戦場ではどんな敵にも躊躇わないのに、リヴィアの弟となると、少し背筋が伸びる。
彼女は柔らかく笑った。
「ありがとうございます。ルシアンは、きっと……アシェル様にどう接していいか迷っているだけなんです」
「それは私も同じだ。“同僚の弟”としてではなく……君の大切な家族として向き合うなら、言葉を選ばねばならない」
ほんの一瞬、風の音が止まった気がした。
リヴィアの瞳がふわりと揺れ、どこか嬉しそうな色を帯びる。
「……そう言っていただけて、嬉しいです。私も、あなたのご家族を大事にしたいと思っております」
アシェルもまた、胸の奥で小さな緊張と温度が混ざり合うのを感じていた。
──避けては通れない。
いずれ必ず話す時が来る。
その予感だけが、静かに深く根を下ろす。
そしてその時のために、今、彼女と話しておきたいことがある。
リヴィアが「ルシアンのこと」を口にしてからの沈黙は、もはや気まずいものではなく、互いの距離を確かめるような、やわらかな間だった。
アシェルはふと、リヴィアの手のあたりへ視線を落とした。
触れようと思えば触れられる距離。
だが、あえて触れない距離でもある。
──触れたいと思った。はっきりと。
「……君の家族にどう映るか、それを考えたのは初めてだ」
リヴィアが目を瞬く。
「アシェル様が、ですか?」
「ああ。姉を想う弟から見れば、私は……どう見えるのだろうな」
「強くて、正しくて……でも、少し不器用で」
リヴィアは、困ったように微笑んだ。
「そして──優しい、と思うはずです」
その言葉は、胸の奥にまっすぐ落ちた。
アシェルは少しだけ肩の力を抜く。
「不器用、か」
「……はい」
「……否定はしない」
二人の視線が重なり、ふっと笑いが生まれた。
その瞬間──風がまた東屋を抜け、雪を散らした。
細かな結晶が二人の間に流れ込み、白い煌めきが一瞬、リヴィアの頬にかかった。
その美しさに、言葉が喉で止まる。
沈黙を破ったのは、またリヴィアだった。
「……アシェル様。先ほどの、続きを……聞かせてほしいです」
「続きを?」
「“君に話したいことがある” と……仰っていました」
その声音は、期待と緊張がゆっくり溶け合った響きだった。
恋人としての、やわらかく深い色。
アシェルは小さく息を吸い、言葉を探す。
「……恋人になって、まだ日が浅いが」
そこで一度、言葉が途切れる。
だが、逃げるような沈黙ではなかった。
「君といると……職務と、それ以外の境界が揺れる」
「境界、ですか?」
「任務の報告や騎士団の話をしているはずなのに、気が付くと──君の表情ばかり見ている」
リヴィアはまた驚き、まばたきした。
「それは……困りますか?」
「困らない。むしろ……その揺らぎが心地いいと思ってしまう」
リヴィアの頬が、ふうわりと赤く染まった。
「……アシェル様が、そんな……」
「君は?」
「私も……揺れています」
目を伏せて、ゆっくりと続ける。
「私、まだ“恋人らしいこと”をどうしたらいいか分からなくて……それで、仕事の話ばかりしてしまって……」
「リヴィア」
呼んだだけで、彼女は顔を上げた。
その事実が、また胸を締め付けるような喜びを生む。
「迷っている君ごと、好ましいと思っている。仕事の顔も、私の前で戸惑う顔も……全部、だ」
リヴィアは胸元を押さえるようにして、そっと息をついた。
「……そんな言い方をされると……」
「困るか?」
「……困りません。ただ……」
「ただ?」
「もっと……聞きたくなってしまいます」
風の音が遠のき、二人きりの世界に色が濃くなる。
アシェルは、手を伸ばすか迷って──やはり伸ばさなかった。
触れないことで、気持ちがより強く滲む距離が、確かにあった。
「……ルシアンにも、“君を大切に想っている” と伝えられるようになりたい」
その言葉に、リヴィアはゆっくりと目を細めた。
「……きっと、伝わります。アシェル様が今、そう考えてくださっていることだけで……十分です」
アシェルは短く息を吸い込み、小さく頷いた。
「なら……次は、君の番だ」
「私の……?」
「君のことを──もっと聞きたい。恋人として、知っておきたい」
リヴィアの瞳が深く揺れ、恥じらいが頬に広がっていく。
「……はい。では、何から……」
その瞬間、遠くでレオンの悲鳴が聞こえた。
「ちょっ、シル兄やめッ──!! いでででででっ!?」
──今日いちばん寒いのは、あれだ。
アシェルとリヴィアは目を合わせ、同時に苦笑した。
だが、もう誰に邪魔されても揺らがないほどに、二人の間には静かで強い“風”が流れていた。
ここから先は、恋人としての“互いの素顔”の時間だ。
リヴィアはもう半歩だけ寄った。
小さな勇気が、雪より静かに距離を縮めた。
風が、二人の間にある境界をそっと撫でていった。
それは──これから先の変化を告げるように。
第四章 了




