第三・五章 【雪を溶かすふたりの鼓動】
廊下の石床は、朝の一層濃い冷気で薄く白んで見える。
空槍騎士団の一日は規律正しく、それが好きだった。
けれど今日は、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
……理由は分かっている。
控え室に近付くにつれ、かすかな声が耳に届いた。
「兄上、疲れているなら休んではどうだ」
シルヴァンの落ち着いた声。
その後に続く、少し硬いアシェル様の声。
「問題ない」
その“硬さ”に、私はそっと足を止めた。
彼は、何かを隠すときだけ、あの低さになる。
それに気付いててしまったのは、いつからだろう。
控え室の扉を開けると、アシェル様がこちらを向いた。
驚いたようにわずかに目が開き、ほんの一瞬だけ──呼吸が止まった気配があった。
アシェル様が私に向ける眼差しは、いつもよりも柔らかい。
その変化を感じながら、ふと脇に立つシルヴァンを見る。
彼は何も言わず、ただ兄の横顔を一瞬だけ見つめていた。
深い意味を探るようでもなく、羨ましがる風でもない。
ただ──静かに、安堵しているような目。
けれど私は、そこにわずかな“揺れ”も感じた。
安堵に混じって、ほんのわずかに沈殿する影。
それは嫉妬とも心配とも言えず──ただ、兄をずっと見てきた者だけが抱える色だった。
(……シルヴァン?)
アシェル様が私に返事をし始めると、
その色はすっと消える。
まるで、自分の中の何かを押し込めたように。
私には名前のつけられない感情。
だがシルヴァンが兄に向ける“敬意と距離”の間に小さな緊張が走った瞬間を確かに見た。
そして──その緊張の根は、アシェル様にも届いている気がした。
アシェル様が言葉を区切るたび、視線の端にシルヴァンの存在を探しているのだから。
背後で、レオンが小声で──いや、まったく小さくない声で囁く。
「ほら!やっぱアシェル兄、今──」
すぐにシルヴァンがその口を塞ぐ。
二人のやり取りに、アシェル様の肩がほんのわずかに強張る。
“私のせいで困らせてしまっただろうか”。
そんな思いが胸を掠めると、アシェル様がふっと視線を戻してきた。
それは一瞬のこと。
けれどその一瞬に、「大丈夫だ」と告げるような、静かな眼差しが確かにあった。
私は思わず胸の奥を押さえたくなる衝動を抑え、礼をして控え室を出た。
胸の奥の熱が、歩くたびに広がっていく。
まだ名のつかない、けれど逃れられない、確かな気配。
自分の中で確かに形を変えていく何かがあった。
そう思った時、頬に触れた指先が、知らないうちに熱を持っていた。
廊下の窓からふわりと雪が舞い込み、広げた掌に落ちた冷たい空の一片が、すぐに溶けた。
ほんの一瞬で、形を変えてしまう雪。
それが今の自分の心とどこか似ている気がした。
変わるつもりなどなかったのに、気づけば輪郭が揺らいでいく。
顔を覆い隠したくなるほどの、このじんわりした恥ずかしさと甘さ。
決して騒がしいものではないけれど、
自分の中で確かに“変化していく何か”があった。
その変化が、どこへ向かうのかはまだ分からない。
けれど、アシェル様のあの目を思い出すと──
「……悪くない、かもしれない」
ふっと頬が緩み、私は窓辺に立って雪を見つめながら、小さく息を吐いて、胸の奥の温度を落ち着けようとした。
窓に触れた雪が溶ける音を、初めて聞いた気がした。
第三・五章 了
第三・五章(裏) 沈黙の鼓動
リヴィアが控え室を出ていく。
扉が静かに閉じられた途端、胸の奥に溜めていた息が漏れた。
「……はぁ……」
情けない。
ゲイルはともかく、弟たちにも気づかれるようでは。
だが、仕方がない。
書類を受け取った瞬間、彼女の指先が触れないようにわずかに引かれるのが見えた。
控えめで、慎重で、それでも逃げるわけではない動き。
その細やかさが、胸の奥に心地よい痛みを残した。
──私は彼女に、何を期待しているのだろう。
期待か。
そんなはずはない、と否定しようとしたのに、心が言うことを聞かない。
自問しつつ、扉の方へ一瞬だけ視線を揺らす。
リヴィアの声が、少しだけ高く震えていたこと。
頬がわずかに紅く見えたこと。
話しながら、ほんの一瞬、目を逸らしたこと。
いつもなら気にもしない細部が、今日はすべて胸に残ってしまう。
「兄上、休んだほうがいいのでは?」
シルヴァンが静かに言う。
横を向くと弟の目は、なにもかも見透かすような穏やかさだった。
ほんの一瞬だけ胸がざわつく。
子どもの頃から、彼にだけは弱さを見せたくない──その古い癖がまだ消えない。
「……問題ない」
そう答えた声が、自分でも驚くほど低く抑えられていた。
レオンの騒ぎも、ゲイル副官の視線も頭では理解している。
だが、心が少しだけ指向を変えてしまっていた。
リヴィアへ、自然と向かってしまう。
控え室の喧騒が戻ってくる。
私は額に指を当て、静かに息を整えた。
──変わってしまったのか。
いや、変わりたいと思っているのか。
思考がそこまで至った瞬間、扉の向こうを歩く気配が遠ざかっていくのを感じた。
その歩んでいく方向が、なぜこんなにも気になるのか。
自分自身に苦笑しつつ、私は仕事へ戻った。
だが、胸の奥に残ったわずかな熱だけは、どうにも消えてはくれなかった。
シルヴァンの瞳に一瞬の揺れがあったように思えたのは、気のせいだろうか。
第三・五章(裏) 了




