第三章 【微熱がほどく、騎士の構え】
冬の朝の光は、昨夜よりも柔らかかった。
それだけで、胸の奥にひそやかに灯った熱が、まだ消えていないことを思い出させる。
空槍騎士団の廊下を進むと、控え室の前でゲイル副官に呼び止められた。
「アシェル卿。……ずいぶん、顔つきが変わられましたな」
「そうか?」
「ええ。数年ぶりに、剣の峰を下ろした人間の顔をしております」
含みのある口調だった。だが不思議と嫌味はない。
彼は私よりひと回り年長で、団内の空気を読むことに長けた男だ。
「団員たちが浮ついているのも、無理はない。……良いものですよ、こういう朝は」
そう言って顎髭を撫でる仕草は、昨日と変わらぬ穏やかさだが──その眼差しの奥にわずかな警戒があった。
「ゲイル、副官として何か言いたいことがあるのだろう?」
「“副官として”ではなく、“年長の騎士として”です」
ゲイルは短く息を吐き、降る雪を見るような目をした。
「アシェル卿。恋は騎士の刃にも、家にも、影を落とす。……その覚悟さえあれば十分です」
静かな忠告だった。責めているのではない。
ただ、私が気付かぬうちに踏むかもしれない“細い氷”を指している。
「……心得ている」
そう答えると、ゲイルは微笑みを深めた。
「ええ。あなたならばそう言うと思っておりました。──さて、朝礼の準備を。騎士たちは、あなたの背を見ております」
その言葉の意味を反芻した時、控え室の扉が開き、リヴィアが出てきた。
真珠色の髪が、朝の光で柔らかく揺れる。
そのわずかな仕草に胸が一瞬だけ熱を帯びたのを、ゲイルは見逃さなかった。
「……ああ。今日は、やはり良い朝ですな」
彼のその一言が、ひどく、静かに、背中を押した。
──朝礼が終わり、騎士たちが控え室へ戻っていく。
扉を開けた瞬間、空気がわずかに揺れた。
団員たちの視線がすっと逸れる。──逸らすまでの数瞬だけ、熱を帯びて。
その視線は敵意ではない。好奇・気付き・確認の混じった妙な温度。
アシェルはそこで初めて「私が、何か変なのだろうか」と自覚に近い違和感を覚えた。
自分の表情を整えようと眉間を指で押すが、その仕草でさえも周囲には“照れている”のだと誤解されてしまうとも知らず。
シルヴァンは執務室の端で報告書を整理している。
歩数にして三歩。声だけが届く距離。
兄の様子に気付くが、近付くことはなく、手元に視線を落としながら声をかけた。
「……兄上、疲れているなら休んではどうだ」
「問題ない」
アシェルは視線を向けずに答える。
シルヴァンはそれ以上踏み込まない。それが彼の、“干渉しない”という弟としての思いやりだ。
末弟が訓練からの逃亡癖についての小言を指導官より頂戴し終わったのか、長兄への全力の突撃を見せた。
「アシェル兄!耳赤くない!?」
「赤くない。あと声が大きい」
「いやいや絶対!何かあるだろ!」
自分の望む答えを引き出そうと長兄に纏わりつく末弟の襟首を、シルヴァンが横から摘まんで引きはがした。
その一連の動きは、昔から変わらない“弟の手際”だった。
アシェルは、その瞬間だけ、胸の奥がわずかにざわつく。
劣っているわけでも、羨ましいと認めたいわけでもない。
ただ──この次弟は、昔からこうだ。
自然に人を扱い、周囲の空気を和ませ、必要なときだけ力を抜き、必要なときにだけ手を伸ばす。
幼い頃から何度も見てきた、“自分にはない軽やかさ”。
レオンが抵抗し、シルヴァンが軽口を叩きながら抑え込むその姿を見て、
アシェルはごく短く、呼吸の深さを変えた。
誰にも気づかれないほどの微差。
だがゲイルだけは横目で見ている。
「……レオン、兄上が本気で嫌がってるのが分からないか」
「え、そう?」
「お前は訓練に戻れ、レオン」
アシェルは冷静を装っているが、耳の先だけが赤いのは誰が見ても明らかだった。
“三兄弟”の距離感の変化を、帳簿をめくりつつ職務的な観察眼で分析しているのは、副官ゲイル。
アシェルの硬さ。
シルヴァンの沈黙ぎみの配慮。
レオンの空気を読まない明るさ。
ゲイルは思う。アシェル卿の重心が少し外へ向いている、と。
「……雪解け前の足音、か」
ゲイルの声は、寒さに耐えきった小さな木の芽を見つけたような、柔らかなものだった。
──兄弟の間に揺れている古い影。
それを風が流していくように、扉がノックされる。
「失礼いたします。先程の件で、少々──」
リヴィアの声が届いた瞬間、アシェルの表情は静かに上向いた。
その“切り替えの速さ”が、ゲイルをさらに驚かせる。
言葉にする前に、心が先に動いてしまう。
アシェルの背の筋肉の張りが一瞬だけ解けて肩が一度、静かに落ち、視線が自然にリヴィアへ向く。
リヴィアも小さく息を吸い、執務室の空気の温度差に気づいて、わずかに頬を赤くする。
二人が向かい合うと“半歩の距離”がまた露見してしまう。
「ほら!やっぱアシェル兄、今すっげえ柔らかい顔──」
シルヴァンが背後からレオンの口を塞ぎ、アシェルは小さく咳払いして誤魔化した。
もっとも、この咳払いもレオンには“照れ隠し”だと誤解されてしまうのだが。
シルヴァンはすべて理解している。
ゲイルが気付くから、ずっと。
彼は直接的な言葉を出さないが、ただ、瞳の奥に“安心”が滲んでいた。
「……兄上」
アシェルの幸せは自分の立場を脅かすものではなく、“守るべき家族が増える未来”だ。
そう確信していると、シルヴァンの柔らかな目尻が語っている。
リヴィアがアシェルに小声で確認事項を話し、アシェルは普段より少し柔らかい声で答える。
シルヴァンはわずかな時間その光景を見つめ、自然に視線を外した。
“もう気にしない、任せる”という宣言でもある。
報告書を片付けたら、余計なことしか言わないこの末弟をすぐにでも訓練場へ連行しなければなるまい。
……本人はまるで、自覚がないのだが
リヴィアが控え室を出た後も、廊下に残る空気は少しだけ甘い。
それは、騎士団の冷え切った石壁には本来ありえない温度だった。
「……兄上、大丈夫か」
執務室の隅で報告書を閉じたシルヴァンが、近付いてくる。
空いた距離は三歩。
その“踏み込まなさ”が、むしろ彼の気遣いだと分かるようになったのは、いつからだろう。
「問題ない。仕事に戻る」
そう言った瞬間、手に持った資料の端が、わずかに震えていた。
自覚した途端、胸の奥がざわつく。
……落ち着け。
騎士団長の前に立つ時でさえ乱れない呼吸が、なぜ今だけこんなにも揺らぐ。
シルヴァンはその様子を見抜いたのか、静かに息を吐いた。
「兄上は、誰かの前で“構える”癖がある。だが、リヴィアは……その構えが薄れる、唯一の相手だ」
言い当てられた。だから胸に刺さる。
それを誤魔化すために視線をそらすと、末弟レオンが再び勢いよく飛び込んできた。
「兄貴たち二人とも表情おかしい!」
「レオン。黙れ」
「いやでも!見た?リヴィア姉来た瞬間!アシェル兄が柔らかかった!」
「……殴るぞ」
「ほら!この照れ方は!──ぐえっ」
シルヴァンの手刀がレオンの後頭部に軽く落ちる。
末弟はめげることなく笑っている。
この能天気さが、いっそ羨ましい。
ゲイル副官が帳簿を閉じ、微妙な笑みを浮かべたままこちらへと歩いてきた。
「アシェル卿。騎士団とは、剣を振るうだけの場ではありません。こうして“変わっていく者”を見守るのも、仕事のうちです」
「変わっていく……?」
「ええ。あなたも、周囲も、です」
彼は雪の降り始めを見るような目で私を見た。
その視線は、決してからかいでも興味本位でもない。
もっと深い、年長者の眼差しだ。
──変わっているのか、私は。
自覚しないまま、変わり始めているのか。
胸の奥に、ひどく静かだが確かな熱が広がっていく。
ゲイルは続けた。
「アシェル卿。あなたがどんな道を選ぼうと、この騎士団は味方ですよ。ただ……ひとつだけ。恋は、剣より脆い」
「心得ている」
「ええ。そういう方だと存じています」
その言葉に、なぜか心が軽くなった。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから足音が響いた。
慣れた歩調。規律を感じさせるまっすぐな歩き方。
リヴィアだ。
仕事の資料を抱え、こちらに向かって歩いてくる。
その姿は凛としていて、誰に媚びるわけでもない。
それでも不思議と、見る者の呼吸を整えるような静けさがあった。
胸が、またしても静かに揺れた。
ゲイルが小声で言う。
「……ほら。変化の中心は、いつだって静かに歩いてくるものです」
シルヴァンは何も言わない。ただ、深く静かに息を吐いた。
レオンは当然のように手を振ろうとして、シルヴァンに止められる。
リヴィアが近付くたび、私の心拍がゆっくりと速まる。
彼女は再び入室し、深く礼をした。
「アシェル卿。追加の確認事項をお持ちしました」
「……ああ。預かろう」
手が触れるか触れないかの距離。
気圧されないように呼吸を整える。
リヴィアの瞳は変わらない。
淡く、真摯で、どこか雪灯りのように明るい。
その瞳が、私の胸のどこかを確実に温めていく。
少しの沈黙の後、私は言った。
「……今日の勤務後、話がしたい。少し、時間をもらえるか」
リヴィアが驚いたように瞬きをした。
そして、ごくわずかに頬が染まった。
「……はい。よろこんで」
その返事は、冬の空気よりも柔らかく、けれど私の胸の奥に深く響いた。
ゲイルが背後で、ひどく静かに微笑んだ気配がする。
シルヴァンは視線を外し、レオンは跳ねそうになるのを堪えていた。
廊下を流れる冷気は変わらない。
だが確かに、胸の奥のどこかで、固く張りつめていた雪が静かに音を立てた。
第三章 了




