第二章 【雪の中で芽吹いた想い】
ここ数日の私の心は、頭痛の種である末弟により揺り起こされる。
任務開けの身体の重さが太陽の光とともに和らいできた昼前のことだ。
「なあアシェル兄、そろそろ自覚した?」
「自覚といえば、お前がヴァルモンド家の男子だということを自覚してほしいのだがな」
「またそうやって話すり替える! リヴィア姉が他の男に取られてもいいのかよ」
「……縁談はスノウレイ伯がすべて断りを入れているそうだ」
「ああもう、他の事はそつなくこなす癖に……!」
自覚。リヴィア。縁談。
これだけ材料が揃えば、さすがに理解できる。
レオンは、私がリヴィアに想いを寄せていると言っているのだ。
じわり、と、胸の奥からこそばゆいような心地が滲み始めた。
「いくらうちが断られたわけじゃないからって、悠長すぎるだろ!」
「まず申し込んでいないからな」
「あああああもうっ! じれってえ、じれってえよ!」
頭を抱え、胸をかきむしり、わなわなと震え、忙しない性格をそのまま体現している。
こいつは本当に私の弟か。シルヴァンとはまた違う方向性の正反対だ。
「……そういえば」
ぴたりと固まった末弟の妙に静かな声色に、今度はなんだと呆れた視線を投げつければ、私の様子を窺うような目を向けてきた。
「さっきリヴィア姉が、手作りの弁当を訓練場に持ってくって聞いたんだよな……」
「ルシアンへの物だろう」
「いや?あいつ今日休みだし、親父さんは今朝から遠征だし」
「……」
「この雪の中、シル兄にかな~? 別の男かもな~?」
「……訓練場に忘れ物をした」
「おう、気張れよアシェル兄!」
ずっと胸のどこかで誤魔化してきた小さな疼きが、レオンの言葉で、思いがけず輪郭を持った。
重さの抜けきらない足を急かし、慣れた石畳の道を進む。
穏やかではあるがこの牡丹雪の降る中を、わざわざ自らの手で弁当を作って?
噛み締めた奥歯が軋む。きっと、この寒さのせいだ。
空槍騎士団の本部の屋根が近付いてくるにつれ更に足は早まるが、どうしても心が先を行く。
弁当を持つ彼女の気配を探すように、私は無意識に周囲の気配を探っていた。
雪を払いながらエントランスを潜ると──視界の端に探し求めていた、美しい真珠色の髪。
身体を冷やす冷気が、心まで沁み込んでいくようだった。
黒の鎧で全身を覆った男が笑みを浮かべて真珠色を見下ろしている。
目元まで覆う兜のせいで誰かまでは判別できないが、女性騎士でないこと、彼女の弁当を受け取っていたこと、ずいぶんと親密そうであることが判れば……彼女の肩にこの手が伸びるには十分すぎた。
「──ア、アシェル様!?」
初めて触れた細い肩は、私の胸で強張っていた。
走る緊張感に集まる視線は驚きと好奇心に満ちているのは感じ取れるが、眼前の男を睨みつけるのに忙しく、気を回す余裕がない。
「アシェル様、姉上に何を……」
驚いた声音は、末弟の最も親しい友のもの。
「ルシアン、か?」
「はい」
兜を外し、露わになった、スノウレイ家の真珠色の髪とラベンダー色の瞳。
そうか、幼かった彼もこんなに成長していたのか……改めて向き合うと、レオンよりも背が高くなっているような気がする。
「君は今日は非番だと聞いていたが」
「──私の遠征が急遽交代になったので、息子を鍛えてやろうと思いましてな」
詰所に続く通路奥から、誰かの重い足音が近づく。
その響きにルシアンがわずかに肩を震わせ、彼よりも一回り大きな影が歩み寄ってきた。
私の背筋も、ひやりと強張る。
訓練場の空気は、氷冠砦よりは温かいと騎士たちは言うが……私には十分すぎるほど鋭い風だった。
「スノウレイ伯……」
「……あの、アシェル様。姉がかわいそうなくらい真っ赤です」
──しまった。
この状況を、彼女の父親であるスノウレイ伯に見られるのは良くない。
理性では理解している……だが、この手が離れたくないと主張して止まないのだ。
周囲が静まり返っていく中、私は決意し、まっすぐに兜の向こうの目を見つめ、大きく息を吸った。
「スノウレイ伯。私はリヴィア嬢に想いを寄せております」
周囲の、スノウレイ家と私の間の、私の腕の中の彼女の緊張が最高潮に達し、空気が裂けるかのような感覚が肌を刺すほど。
厳しい眼差しが、しばし私を射抜いていた。
その沈黙に、喉がひりつく。
──ふ、と雪解けの朝の光のような柔らかさに変わった。
「リヴィア、アシェル卿に返事をしなさい」
息を潜めていた彼女が小さく肩を揺らし、私の心臓は思い出したように早鐘を打ち始めた。
この手を剥がすのに、どれほどの力を要したか。
「……アシェル様……」
真珠色の髪の影に隠れた頬が、かすかに紅く染まっていた。
寒さだけではないと、直感で分かった。
彼女の指先が胸元でぎゅ、と握りしめられる。
逃げる気配はない。
ただ、言葉を選んでいるような沈黙。
その沈黙が私の胸をさらに早鐘へと追いやる。
言葉はまだ、落ちてこない。
胸元を握る指に力が入ったように見えた。
「お慕い、しております」
小さな声。
けれど震えは拒絶のものではなかった。
むしろ……私の胸に届くその震えは、どこか温かかった。




