第一章 【静寂のほころび】
ルシアンはいつも言っていた。「いつか蒼天戦域に立つんだ」と。
あの子にとってドラゴンとの戦いは、父への憧れそのもの。
手に入ったという古書を受け取りにヴァルモンド邸へ向かおうという時……ヴァルモンド家、特にシルヴァンに懐き切っているルシアンも着いてこようとしていたのだけれど、叶わなかった。
空槍騎士の指導官から、あまりにも訓練から逃げ回るレオンを引きずってこいとお達しがあったからだ。
幼い頃から一緒のルシアンならばすぐに捕獲するだろう。
並んで歩くシルヴァンの槍が、鎧にぶつかり小さく澄んだ音を立てて揺れる。
空槍騎士の鎧は精鋭の証……シルヴァンはその中でも“主力”の一人。
並んで歩いていれば視線を集めるのも当然なのだけれど、この視線はやはりどこか居心地が悪い。
空槍騎士の隣を歩くのは、ただの誇りではない。
“貴族は戦場に立つもの”という視線が、常に背中に絡みつく。
「すまなかったな、せっかくの休暇だというのに」
「私の弟のことだもの、当然のことよ」
「だが、霧灯区に行こうと思っていたのではないか?」
「それは、まあ」
さすがシルヴァン、私の行動パターンをきっちり見抜いている。
「休めと言われたのだから休め。まるでワーカホリックだ」
「でも、誰かがやらないと……」
「今日は我が家に軟禁だな」
「えっ」
不穏な物言いに俯き気味だった顔を彼に向ければ、イタズラを企む子供のような笑みを浮かべていた。
「それが嫌なら、きっちり休むことだ」
仕事のことなら私に分があるのに、私生活のことになるとめっきり敵わない。
それが彼という友人で、小春日和の木漏れ日のように気の休まる関係だ。
この日は、ただの休暇になるはずだった──その時点では。
ヴァルモンド家の顔なじみである家令に迎えられ、客間に通された。
五、六年前までは気にせずシルヴァンの私室に通されていたけれど、さすがに二十の男女となれば、いくら幼なじみでもそういうわけにはいかない。
──今ごろルシアンはレオンを追い回している頃だろう。
蒼天戦域に立つ未来を持つ者にとって、訓練は逃げられない責務だ。
ルシアンはそれを知っているからこそ、逃げるレオンを放っておけない。
シルヴァンが古書を取りに席を外している間、客間のソファで一息ついていると、この家の使用人が紅茶を支度してくれた。
礼を言い、体の内側から温かさが滲む感覚に全身の力が抜けていく感覚に頬を緩ませていると、シルヴァンの二歳上の兄であるアシェル・ヴァルモンドが顔を見せた。
「リヴィア」
「アシェル様」
長子としての静謐さを纏った姿は、久しく会わなかったせいか少し違って見えた。
彼はヴァルモンド家の後継ぎの立場。
失礼を働いてはいけないと、彼を前にするといつも背筋が伸びる。
立ち上がりかけた私を、彼は手の動きひとつで制した。
置かれた紅茶の湯気が穏やかに揺れ、空気が静寂を孕む。
アシェル様の視線が、一瞬だけ私の手元の魔杖に落ちる……その癖を、私はまだ知らない。
「そのままでいい」
「ですが、お久しぶりですのに」
「気を遣わないでくれたほうが、私は嬉しい」
「……はい」
困ってしまって微妙な返答をしてしまった私に、彼もまた少し困ったように笑った。
自分に向けられた空色の瞳がどこか、ほのかな熱をを宿しているような──……そう思ってしまったことを、そっと恥じる。
こんなふうに見られたことは、ただの一度だってなかったはず。
けれど、今日の彼は言葉の“間”が違う気がした。
「……?」
ふと思った。彼は何故、客間にいらしたのだろう。
ヴァルモンド家とスノウレイ家は深い交流を持つ間柄であるため、幼い頃からよく顔を合わせてはいたけれど、シルヴァンやレオンほど親しい間柄ではない。
アシェル様はシルヴァンと性質が正反対なため、彼をあまり得意としていないようで、その彼と親しい私のことも得意ではないと思っていたのだけれど……何か御用でもあったのだろうか。
疑問を込めて精悍なお顔を見上げると、視線がぶつかった一瞬後にアシェル様が微かに視線を泳がせた……気がする。
「あの……?」
「……レオンから聞いたのだが」
「はい」
こほん、とひとつ小さな咳払いを零したアシェル様の呼吸が硬い。
「君に縁談が来ている、とか」
「父がすべて断っているようで……私は詳しくは」
「……そうか」
私の返答がアシェル様の呼吸を少し柔らかくしたような様子に──先ほど自分を恥じたばかりなのに、また胸が膨らむような感覚がした。
違う、そんなはずはない。
だって彼は、アルシエル中の婦女の憧れの的の貴公子なのだから。
シルヴァンが戻り、アシェル様は短い別れだけを告げて去った。
その背が、どこか急いでいるように見えたのは──思い過ごしだろうか。
けれど、この日の私が覚えた小さな違和感が本当の意味を持つのは……まだ少し、先のこと。
古書を手渡され、後日の意見交換の約束を交わしてヴァルモンド家を後にする際、シルヴァンに再度釘を刺されてしまった。
「必ず休むようにな、破ったら……」
「軟禁は嫌よ」
「ならいい。あと、ルシアンを労っておいてくれ。レオンが厄介だかな」
「ふふ、わかったわ」
その光景を思い浮かべ、微笑んだはずだった。
だが帰宅すると、当のレオンが私の家で平然と紅茶を楽しんでいた。
「灯台下暗し、ってな!」
レオンの笑い声を聞きながらも、胸の奥のかすかなざわつきだけは、消えなかった。
シルヴァンはいつも通り。
アシェル様は、どこか変わられた。
そして私は──休暇の柔らかな時間の中で、ゆっくりと世界の輪郭が、静かに、揺らぎ始めているのを感じていた。




