第八章 【静かな朝、胸のどこかで雪が鳴る】
Ⅰ 静けさの中の違和感
治癒院の朝は、雪の降り方すら分からなくなるほど静かだった。
氷冠砦から戻って三日。
戦場の音は影のように消え、いつも通りの薬草の匂いと、
止め金の擦れる微かな音だけが空気に漂っている。
けれど――。
(……空気が、薄い)
そう思ったのは、私だけだろうか。
患者は多くない。けれど、咳の音や、皮膚の色のくすみが妙に揃っている。
雪焼けでも疲労でもない、“何かが抜けているような”症状。
薬棚を整理していると、扉が控えめに叩かれた。
「姉上、今日はもう休んだほうがいい」
ルシアンの声だった。
笑っているのに、目だけが少し揺れている。
「あなたこそ。昨日も遅かったんでしょう」
「平気だよ。俺は……ちゃんとやれてるから」
その“ちゃんと”が、まるで自分へ言い聞かせているように聞こえる。
息の端が、ごくわずかに震えていた。
氷冠砦の夜を思い出す。
あの子は――何を見たのだろう。
言葉にする前に、別の声が響いた。
「……リヴィア」
振り向けば、アシェル様が立っていた。
鎧の肩当は外していたが、全身に薄い疲労が滲んでいる。
けれど、それ以上に――どこか、言葉にしない迷いの気配。
「様子を見に来た。……無理はしていないか」
「私より、アシェル様の方でしょう?目の下……少しだけくすんでるわ」
小さく笑われた。
「隠したつもりだったが、君には誤魔化せないらしい」
その言葉の奥に、何か“触れられたくない影”があった。
それが胸のどこかをひりつかせる。
外は雪。
治癒院の中は温かいのに、空気だけが少しだけ冷えていた。
Ⅱ 影と告げられなかった真実
氷冠砦から持ち帰った霧のデータが、机の上で静かに光っていた。
アシェルは窓際に立ち、雪の帳を越えて遠くの氷壁を眺める。
(……通常の魔喰い霧ではない)
再生、活性化、霧の質。
どれも“既知のもの”からずれている。
報告書には書かれていない。
書けば騎士団内部の派閥争いと王宮の干渉を招くからだ。
「兄上、霧の残滓だが……まだ動いているようだ」
シルヴァンが小声で告げた。
普段より沈んだ声音。
「魔獣の核だけではない。空圧の流れそのものが歪んでる」
「……分かっている」
アシェルは書類を閉じた。
その下に隠している別の報告――“霧源は砦とは別に存在する可能性”
それだけは、誰にも言えなかった。
(リヴィアには……なおさら)
彼女を不安にさせたくない。
だから口を閉ざした。
そのはずなのに、治癒院で見た彼女の瞳の揺れが胸に残っている。
“あなた、何か隠していませんか”
あの問いを思い出すたび、
胸の奥で、雪の粒がきしりと割れたような感覚がした。
(……守るため、だ。それでいい)
そう言い聞かせても、影のようなざわめきがまだ消えなかった。
Ⅲ ルシアンの揺らぎ
治癒院の倉庫は薄暗く、薬瓶の影が揺れていた。
ルシアンは棚を拭きながら、ふと手を止める。
掌の中で、布越しに“冷たい何か”が触れた。
ポケットに隠した、小さな蒼霧の結晶片。
氷冠砦で足元に転がっていたものを、思わず拾ってしまった。
(……触れた時、息が詰まった)
恐怖じゃない。
もっと別の――説明できない感覚。
「アシェル様は……あんな場所で戦ってるのに」
姉の隣に立つ彼。
戦場の中心にいた彼。
自分には到底届かないと思い知らされた夜。
(俺も、強くならないと。守れない)
掌の中の結晶片が、わずかに脈動したように感じた。
倉庫を出ようとした瞬間、廊下の向こうから話し声が聞こえた。
「兄上、“霧源は別にある”とは本当なのか?」
シルヴァンの声。
そしてアシェルの短い沈黙。
「……まだ確定ではない。ただ、気を抜けない状況だ」
ルシアンは息を呑んだ。
(霧源……まだ続きがある?)
靴音を殺して自室に戻る。
窓の外、雪が深く落ちていた。
机に腰を預けると、胸の奥に“ざわり”とした揺れが走る。
弱さではなく、焦りではなく――何かが動き出す前の、軋むような音。
それが、雪の音か、自分の心臓の音か分からなかった。
Ⅳ 雪の夜、かすかな亀裂
夜の帰り道。
街灯の白い光が、雪を星のように散らしていた。
アシェルが隣を歩き、リヴィアはその横顔をちらりと伺った。
「……今日は、ありがとうございます」
「送らずに帰るほうが心配だ。――雪が深い」
その声音は優しいのに、どこか遠い。
踏み出すたび、二人の影だけが寄ったり離れたりする。
「アシェル様。何か……言えないことがあるの?」
足音が止まった。
沈黙。
薄い霧のような沈黙だった。
「……言わないほうが、君を守れることもある」
その言葉は、やさしくて、残酷だった。
触れようとすれば溶ける雪のように、形を掴めない距離。
リヴィアは俯き、微かな微笑みを浮かべた。
「……ええ。でも、私は――隠された寒さのほうが、怖いわ」
アシェルが息を呑んだ気配だけが、夜風に混じった。
帰宅後。
リヴィアは窓辺に立ち、雪を眺める。
胸の奥で、かすかに――ほんのかすかに、雪が鳴るような音がした。
隣室では、ルシアンの灯りがまだ消えない。
明滅しながら、まるで何かの前触れのように揺れていた。
そのとき、遠い氷壁の方角で、
一瞬だけ蒼い光がきらりと走った。
まるで、終わったはずの蒼霧が、まだ息をしているかのように。
第八章 了




