第六章 【氷冠砦、蒼霧吼ゆ】
リヴィアは二十三になっていた。
氷冠砦へ続く山道を、空槍騎士団の一行が駆け抜けていた。
風は刃のように肌を裂き、雪煙が螺旋を描いて舞い上がる。
前線から届いた報告は、短く、そして不吉だった。
“蒼天戦域に異常発生。魔獣群、挙動変化”
胸甲の下で、アシェルの心臓がひどく冷たく鳴った。
氷冠砦上空には、常に“蒼天の裂け目”と呼ばれる風穴が吹き荒れ、魔獣が湧きやすい。
しかし──今回は、風景そのものが違っていた。
氷壁の上層から立ち昇る蒼霧。
金属の匂いを帯び、肌に触れるだけで体温を奪う。
霧の中で影が蠢き、ゆら、とこちらをうかがった。
(……いやな気配だ)
先頭を走るシルヴァンが叫ぶ。
「兄上、前方! 霧の濃度が急に上がっている!」
「見えている!」
直後、霧を裂いて魔獣が飛び出した。
氷翼を震わせ、五体同時に襲いかかる。
通常の倍以上だ。
「これ数おかしいんじゃねえの!?」
レオンの声を背に、アシェルは即座に戦術を切り替える。
「三陣、分散! シルヴァンは左へ! レオン、後衛の風圧支援を上げろ!」
「了解!」
「任せろ!」
蒼霧が空槍の風で裂かれ、氷片が旋回する。
アシェルは柄を逆手に取り、槍尖に風刃を纏わせた。
《蒼牙》。
蒼い閃光が魔獣の喉を穿つ──が、倒れた影が霧を滴らせながら再び立ち上がる。
「……再生だと!?」
シルヴァンが目を見張る。
「兄上、この霧、“魔喰い霧”に似ている!」
「北の死地にしかないはずだ……!」
霧が、空そのものを歪ませていた。
*
氷冠砦内部は混乱の渦だった。
怒号、血の匂い、砕けた氷の破片。
アシェルは指揮をとりながら状況把握に動いていたが──視界の端に見慣れた姿が映る。
ルシアン・スノウレイ。
真珠色の髪を束ね、治癒薬箱を抱えて駆けていく。
その肩は以前より広く、足取りは確かなものだった。
アシェルは思わず声をかける。
「……ルシアン? なぜ前線補助に」
「本部命令です。見習いでも、補給任務は必須ですから」
「だが、これは通常任務の規模じゃない。危険だ」
言うと、青年はほんの一瞬だけ目を伏せ──まっすぐアシェルを見た。
「アシェル様こそ、危険の中心にいるじゃないですか」
震えていない。
十八歳の青年が持つ“覚悟”の響き。
「俺は……姉上と貴方を、同時に守れる人間になりたい。そのために、戦場を知らないままではいられません」
素直で、真っ直ぐで、それゆえに折れやすい危うさ。
アシェルは短く息を吐く。
「無理はするな。後方支援に徹しろ」
「分かっています。でも──逃げません」
その一言に、アシェルは理解した。
彼はもう“守られる側”ではない。
(……向き合う時が、確かに近付いている)
砦全体が地鳴りを上げる。
「第二波来襲! 上層の霧、活性化!」
「全戦力、前へ!」
アシェルは槍を握り、戦場へ駆けた。
*
第二波は、先ほどより濃く重かった。
蒼霧が指に絡みつき、触れた部分だけ熱が奪われるようだった。
息を吸うたびに肺の奥が冷えていく。
レオンが叫ぶ。
「アシェル兄、左から大型!」
氷鱗を持つ《フロストギル》が砦壁に張り付き、跳躍する。
アシェルは反射で“風壁”を纏って突っ込み、騎士をかばった。
重い衝撃が肩を砕くように駆け抜ける。
「兄上!」
「アシェル様!」
倒れず、槍を引き絞る。
「シルヴァン、五秒後に右側へ風圧! レオン、上流を押し上げろ!」
「了解!」
「任せろ!」
三人の風が交差した瞬間、霧が裂け、大型の鱗が剥がれる。
蒼い風が閃き、魔獣を沈めた。
砦奥──最も霧が濃い場所。
そこに“源”がいた。
痩せた狼のような魔獣。
だが、纏う蒼霧の密度は異常で、まるで空気が重くなる。
アシェルの皮膚がひりつく。
(こいつが……すべての元凶だ)
視界が一瞬だけ遅くなる。
胸の奥に浮かぶ名前たち。
リヴィア。
ルシアン。
シルヴァン。
レオン。
守りたいものが鋭い風のように心臓を貫く。
(ここで仕留めなければ……誰も帰れない)
槍を逆手に構え、息を吸う。
《蒼牙・裂天》。
蒼い風が一直線に霧を切り裂き、影の主の心臓を貫いた。
霧が爆ぜ、砦の空が“星の色”を取り戻し、レオンが笑った。
「アシェル兄……やりすぎだって……」
シルヴァンは肩を小突く。
「帰ったらリヴィアに叱られるぞ」
「……ああ、分かっている」
蒼天は晴れ、氷壁の上に星が滲んだ。
砦の隅で、ルシアンは拳を震わせながらその光景を見上げていた。
恐怖も、憧れも、すべてを刻みつけるように胸元で拳を握っている。
(……姉上を支える人は、こんな世界で戦っているのか)
*
戦いが終わり、治癒院へ戻ったルシアンをリヴィアはすぐに見つけた。
怪我はない。
声に力もある。
それでも──姉には分かる。
胸の奥に引っかかる微かな“揺れ”。
呼吸の端が、ごく僅かに震えている。
「……ルシアン。今日は、何があったの?」
問うと、弟の肩がわずかに跳ねた。
笑って誤魔化そうとするが、その笑みだけが、どこにも向いていなかった。
(あの子……心を無理に押し固めてる)
その違和感は、やがて訪れる“蒼天戦域の大戦”へつながる最初の裂け目となる。
第六章 了




