第4章
ハルトナン伯爵夫人は夫をキリッと睨みながらこう言った。
「私は自分の意思でカルダーナ侯爵領に滞在させて頂いているのです。夫人に失礼なことは言わないでください」
「そ、それは失礼した。では、改めてお前に言う。さっさと領地に戻れ。
領地を放りっぱなしにしてどういうつもりなのだ。もう体調は戻ったのだろう? 個人的な仕事を始めたくらいなのだから」
「領地なら家令がいれば困らないでしょう? それで不足があるというのなら、貴方がやればいいではないですか。
城勤めはすでに辞めて、王都にいても大した仕事なんてしていないのだから。
タウンハウスと社交は息子に任せて、貴方こそ愛人と共に領地に戻ればいいでしょう。
不出来で無能な私が今さら領地へ戻る必要なんてないですよね? いつでも別れて差し上げますよ。今なら慰謝料も財産分与も無しで」
妻の言葉に夫は絶句した。
彼は何人も愛人を作り、妻を長いこと領地に追いやって家令とともにその経営をやらせていたのだ。
しかし五年ほど前に妻は過労で体調を崩し、療養生活に入っていたのだ。
その後は家令が一人でその仕事を担っていたのだが、彼もまた年老いて、もう引退したいと言い出したために夫は困っていたのだ。
そこへ、互いに何年も連絡し合っていなかった妻が、中高年専門のドレスデザイナーとして有名になっているという話を耳にしたのだ。
健康になったのなら領地に呼び戻そう。ハルトナン伯爵がそう思っていたところに、思いがけずこのパーティーで妻を見かけたのだ。
それは全くもってカルダーナ侯爵と同じであった。隣に若い愛人をぶら下げながら、自分の妻の美しさにあ然としたところまで。
「別れる? 離縁すると言っているのか? いい年をして何馬鹿なことを言っているのだ。孫もいるというのにみっともない。
しかもこんな場所で恥ずかしくないのか?」
「娘より若いご令嬢を腕にぶら下げているそちらの方が、もっとみっともないと思いますけれど。
私は甥にエスコートしてもらっていますが、そちらは身内ではありませんよね?
もしかして友人から頼まれた娘さん……というわけではないでしょう?」
「そ、それはともかく、離縁したらどうやって暮らすのだ。困るだろう? 今さら実家にも戻れないだろうし」
「あら、兄夫婦と甥達もいつ帰ってきてもいいと言ってくれていますわ。
でも、私、独立できるだけの資産がすでに用意できましたから、ご心配なく。
今回王都に出て来たのも、離縁のための弁護士を探そうと思ったからですの。貴方が応じてくれなかったら、裁判になるかもと思って」
「裁判だと? お前は私だけでなく息子達にまで恥をかかせる気か?」
「父親と一緒になって母親を蔑ろにするような息子達が、どう思うかなんて知ったことではありませんわ。
縁を切りたいというのならそれでも結構。
娘一家や嫁、そして孫達とは上手くやっていますから、何の問題もありませんよ」
「平民になってもいいのか!」
「別に爵位には拘ってはいませんが、五年間一定額の税金を納めれば一代限りの男爵位を頂けるでしょう?
どうやら来年にはいただけそうなの。
ですから私のことは心配なさらずに、さっさと離縁して、そちらの方を妻に迎えられた方がいいのではないですか?
そして、私の代わりに領地経営の手伝いをしてもらって下さいな」
そう言われてハルトナン伯爵は愛人の方に顔を向けた。
すると彼女は真っ青な顔をして、無理だというように首を横に振っていた。それからパートナーの腕から自分の手を外して
「私のような若さだけしか取り柄のない者が、才色兼備な上に有名なデザイナーである奥様を差し置いて、正妻の座に就くなんて、恐れ多いことでございます。
伯爵様、これまでお世話になりました。私は今日をもって身を引かせて頂きます。
奥様、大変申し訳ありませんでした」
と頭を下げた後、小走りで人込みの中に逃げ込もうとした。
すると、その背に向かってハルトナン伯爵夫人はこう声をかけた。
「心配しなくても貴女を訴えたりしないわ。だから別に別れなくてもいいのよ。
夫には若いときから散々女性問題で苦しめられてきたのだから、今さら貴女を責める気なんて毛頭ないのだから」
と。
「なっ! なっ!」
あまりにも唐突、かつ予想もしていなかった展開に、ハルトナン伯爵はただただショックを受けて呆然と立ち尽くした。
そこへ、彼の紳士倶楽部の仲間達がわさわさと集まって来て「S・W・L」サロンのメンバーの集団を睨み付けた。
つまり彼らのほとんどが、自分の妻達を睨むという構図になった。
その中の一人、カルダーナ侯爵が妻に向かって恫喝するようにこう言った。
「ジャクリーヌ、君のサロンのメンバーが、恐れ多くも王太后殿下のパーティーで騒ぎを起こしたのだぞ。どう責任を取るつもりだ!」
すると、夫人は顔色一つ変えずに、コテンと愛らしく首を横に曲げて、不思議そうにこう訊ねた。
「どうとは?
騒ぎを起こしたのはハルトナン伯爵の方でしょう?
奥様のご様子を心配なさる素振りなんて、これまで一度もなさったことがないのに、まるで私が夫人を無理やりに我が領地に押し留めて帰さないような発言をするなんて、失礼極まりないですわ。
本来なら貴方こそが伯爵に対して怒るべきではないのですか?
それなのに、なぜ私に責任を取れなどと理不尽なことをおっしゃるのでしょう。
ああ。ご自分も病気になった妻を十年も放ったらかして心配もしなかったような方ですから、お仲間意識で庇っていらっしゃるのかしら?」
正論を述べたジャクリーヌに対して、ガーレンは一瞬言葉に詰まった。
しかし、自分の存在に気付いていながら、ずっと無視していたその態度に腹を立てていたガーレンは、さらにイライラを募らせた。そしてこう言った。
「たしかにハルトナン伯爵の物言いには腹が立った。
しかし、ここは王太后殿下のパーティーだ。穏便に事を済ませようと考えたのだ。
君もそれくらいの配慮はすべきなのではないか?」
「配慮ですか? おかしなことをおっしゃいますね。昨年、王宮から出されたお達しをご存じありませんの?
王家主催のパーティーでは家族、または親族以外のパートナーの同伴は禁じられていますのよ?
それなのにそれを無視して愛人を連れて参加されているハルトナン伯爵、ああカルダーナ侯爵、貴方もそうですわよね。
貴方方にそんなことを言われたくはありませんわね。
王太后殿下だけでなく、国王陛下や王妃殿下も、一夫一婦制を重んじられて、愛人をパートナーにして公の場に参加することを快く思っておられません。
そのことは、貴族なら皆様承知されていると思っていたのですが」
ジャクリーヌが夫やそのお仲間達を見回しながら、静かにそう言った。
彼らは心なしか青ざめて、久し振りに自分の妻達へ向けていた視線を気まずそうに逸らした。
そして直接言われた当人はというと、妻に家名で呼ばれて一瞬あ然とした。
しかしその後気の短い彼は、いつまで経っても自分に従おうとしない妻に対して怒りを爆発させた。
「自分は若いツバメを連れていながら、よく私を責めるような言葉を吐けたな!
おそらく領地でも、君は若い男を侍らせて好き勝手をしていたのだろう。
そのようなやつとはこちらから離婚してやる!
しかし、財産分与など一切しないからな。そして慰謝料はお互い様だから必要ないよな!」
その言葉に、さすがのジャクリーヌも目を丸くした。
そして彼女は呆れたように大きなため息を漏らした。
「ここまで愚かな人だとは思いませんでした。
王太后殿下のパーティーで自分の恥をさらすような真似をするなんて」
「恥とは何だ!」
「父上!」
再び吠えた後、ガーレンは背後から声をかけられた。
彼が振り向くと、そこには嫡男のアンディラスとその妻フライアが、自分の妻同様に呆れた顔をして立っていた。




