小説断章:「垂直の恐怖」
金属音が乾いた空に溶けた。
C-130輸送機のランプが開かれ、滑走する風が兵士たちの身体を叩く。搭乗員が親指を立てた。
「オン・ストラット!」
声が、風圧にかき消されそうになる。列に並ぶ兵士が、一人ずつステップへ移動する。
味沢誠一は、喉が粘つくのを感じながら、リップコードの位置を確認した。胸のD型金具に指先をかけ、決して震えないように右手に力を込めた。
「ゴー!」
足元の空が開けた。
彼は機体から踏み出し、宙へ身体を投げ出した。
一瞬、無音。次の瞬間、爆発するような風音が頭の中を突き抜ける。
「アーチ・サウザンド!」
手順どおりのカウントが頭の中に響く。
「ルック・サウザンド……リーチ・サウザンド……プル・サウザンド!」
リップコードを引いた。がさっという音とともに背中が重く引かれる。サスペンションラインが音を立てて張る。
彼は振り返った。
「チェック・サウザンド……」
息が止まった。
キャノピーが、花開いていなかった。
32本のラインは撚れ、重なり合い、まるで締め殺された蔓草のように収束していた。彼の背中にあるはずの命の傘は、しおれた花のようにぶら下がっているだけだった。
「……マルファンクション……!」
味沢の意識が急速にクリアになった。
両肩のケイプウェイに手をかける。
リングを引きちぎるように引いた。ラインが解放され、メインシュートが切り離される。
すぐに、リザーブのリップコードへ。
「引け……今しかない……!」
瞬間、背中を叩くような衝撃とともに新たな圧力が走った。
視界の隅に、からまったメインシュートが宙を舞い、彼のすぐ脇をすり抜けていった。
リザーブシュートが開いた。
彼はまだ、生きていた。
*
5時間後。
標高2400m、カイバー峠の裏手にある垂直岩壁。
味沢と通信兵アパムは、任務対象地への偵察ルートとして、特殊部隊で選抜された2名だった。
登山用のハーネス、クライミングロープ、ビレーデバイス。味沢は手早くカラビナをビレーループに通し、1回転させてゲートが外側を向くようにした。
「確認!」
アパムがうなずく。「ロープチェック、テンションOK!」
味沢が崖に取りついた。最初の5メートルは傾斜が緩く、足場もあった。だが、8メートルを過ぎたあたりから、壁はオーバーハングの様相を見せ始めた。
「トップ交代、行くぞ!」
味沢は右手でホールドを掴み、左手でナットを岩のクラックに打ち込んだ。ナットにクイックドローを通し、メインロープをクリップ。ビレーポイントを確認して、アパムに手信号を送った。
「了解、確保した。上がれ!」
交互に登攀が続いた。
問題が起きたのは、3ヒッチ目だった。
岩が頭上にかぶさるようなオーバーハング帯に入ったとき、味沢は全体重を一本のナットにかけていた。
その瞬間——
「バチッ」
鋭い音とともに、ナットが抜けた。
味沢の身体が後方に崩れ落ちる。
「落ちる——!」
アパムが叫んだ。
味沢はスローモーションの中で、空に浮かぶ自分を見ていた。
ロープが弾かれ、身体が一瞬宙に投げ出される。
続いて、衝撃。
ATCにテンションがかかり、摩擦によって制動が働いた。
ロープがビレーデバイスで止まり、味沢の身体は中空で宙吊りになった。
「……持った、止まったぞ!」
アパムの声が震えていた。
味沢はぶら下がったまま、しばらく空を見ていた。
何も言わず、何も考えず、ただ胸の内でひとつ呟いた。
——「やっぱり、訓練ってのは……嘘つかねぇな……」
風が、冷たく吹いていた。