最終章「記憶される者たち」
——あれから、七年が過ぎた。
初冬の風が、東京・国立戦争記録資料館の庭に植えられた銀杏の葉を巻き上げていた。黄色い葉は空を舞い、記憶のかけらのように地に落ちる。
田口早苗は、亡き息子・隆志の名前が刻まれた記念碑の前に立っていた。
その名前の下には、何の階級も、所属も、勲章も記されていない。ただ、ひとつだけ——“撃たなかった兵士”という言葉が、誰かの手で刻まれていた。
「お母さん……」
傍らに立つ少年が声をかけた。田口陽介。隆志の弟。いまは高校二年生になっていた。背丈は母よりも高く、細身の体に黒縁の眼鏡をかけている。内向的な性格だったが、兄の死を境に、何かが変わった。陽介は静かに、だが確かに“記録”という言葉に惹かれていた。
館内では、期間限定の展示「ナジャリフ・未記録戦線」が開催されていた。展示室の奥には、深見誠による手記が映像とともに展示されていた。
“……命令は、確かにあった。だが、俺たちは撃たなかった。
死を目の前にして、俺たちは“沈黙”ではなく“記録”を選んだ。
それが正しかったのかは、今もわからない。”
そのモニターの前に、静かに立っていたのは、かつてCNN記者だったタイラー・バージェスだった。
彼はもうカメラを持っていなかった。今は国際報道倫理研究所の特任教授として来日していた。
「彼の選んだ沈黙は、ある意味、叫びよりも強かった」
と彼は学生たちに話すのが常だった。
だが、展示の映像はところどころ“映せない箇所”として黒くマスク処理されていた。
——いまもなお、国家の都合が真実を覆い隠している。
「兄さんは、何を見たんだろう……」陽介は、田口の最期のボディカム映像を思い出す。録画は音声だけが残っていた。
“……痛いよ……ママに……会いたい……ママ……”
母・早苗は息子の肩に手を置いた。「私はね、あの子が“ママ”って言ったあの瞬間、子供に戻ったんだと思ってる。兵士じゃなくて、ただの……ひとりの、息子に」
陽介は黙ってうなずいた。
*
その夜、陽介は資料館のアーカイブ室に残った。
非公開フォルダの中に、深見分隊の生存記録が封印されていた。電子署名には「F.S」とだけ記されていた。
——深見誠。
記録は全文ではなかった。一部は破損し、一部は意図的に削除されていた。それでも、陽介は読み進めた。
“……我々は、無言のまま帰還した。
だが、帰還とは何か。身体が生きていても、心が死ねばそれは生還ではない。
記録は、我々に残された唯一の戦いだった。
我々の分隊は、その後、分散された。私は転属と称して隔離された。
田口の死をなかったことにしたい者たちは、私たち全員を“存在しなかった”ことにした。
……それでも、誰かが覚えていれば、記憶されていれば、我々は死なない。
陽介君——君がこれを読んでいるなら、君は“選ばれた証人”だ。
私たちの死者の記録を、生者の責任として背負ってくれ。”
陽介は、読み終えると、そっとディスプレイを閉じた。
沈黙が部屋を包み、彼の耳に血の流れる音だけが響いていた。
彼は深呼吸をし、一枚の紙をプリンタから取り出した。それは兄・隆志の手帳の写しだった。表紙には、泥と血にまみれた指紋がついていた。
——ママ、元気でね。帰ったら、一緒にラーメン食べよう。
その走り書きが、彼の胸を突いた。
「兄さん……俺は、記録するよ」
その言葉を誰に言ったわけでもなかった。だが、陽介の瞳には確かな光が宿っていた。
*
外では、また風が吹いていた。
資料館の屋外モニュメントには、新たに小さな記念碑が建てられていた。
“記録されなかった戦場に、声なき証人たちを。”
その下には、名前もない兵士たちの記録が匿名で記されていた。
誰が作ったのかは、わからない。
ただ、そこには“田口隆志”と“深見誠”の名前が手書きで彫られていた。
陽介は母に言った。
「いつか、これを映画にしようと思う」
母は少しだけ笑った。
「それでも誰も信じないかもしれないわよ?」
「それでも、俺は残す」
空は静かだった。
だが、風だけは、どこか遠くの砂の匂いを運んできていた。
戦場の輪郭は、まだ完全には描ききれていない。
けれど、誰かが記憶しようとする限り、その輪郭は消えない。
未解決のまま、記録だけが未来を揺らしていた。