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絶望の降下

白い雲海は、もはや遠い記憶の彼方へと消え去っていた。眼下に広がるのは、灰色にくすんだ大地と、無数の黒い煙の柱。そして、空そのものが、対空砲火の漆黒の爆煙と、爆発の閃光で埋め尽くされていた。

B-17爆撃機「アイアン・デューク」は、傷つき、軋みながらも、なおもその巨体を空中に留めていた。右翼の二つのエンジンは完全に停止し、プロペラは虚しく風を切り裂いている。左翼のエンジンも、煙を噴き上げ、いつ止まってもおかしくない状態だった。機体のあちこちには、被弾の跡が醜い傷となって刻まれ、金属片が風に揺れて不気味な音を立てる。

コックピットの内部は、半壊状態だった。計器盤の多くは機能停止し、ガラスの破片が散乱している。機長、ジョン・“デューク”・デュークセン大尉は、血の滲んだ顔で操縦桿を強く握りしめ、必死に機体の姿勢を保とうとしていた。彼の隣にいたはずの副操縦士、サム・“サミー”・アダムス中尉の座席は、空っぽだった。先の激しい攻撃で、サミーはコックピットの天井を打ち破り、そのまま機外へと吸い出されてしまったのだ。デュークセン大尉は、その光景を脳裏から振り払おうと、強く目を閉じてから、再び前方を見据えた。

「隊長! 後部から敵機!」

後部銃座のロジャー・パーキンス二等軍曹の叫び声が、無線越しに響く。声は、もはや悲鳴に近い。

デュークセン大尉は、乱れた呼吸を整え、辛うじて答えた。「パーキンス! 弾薬は残っているか!?」

「残り僅かです! しかし…!」

パーキンスの言葉が途切れる。その直後、けたたましい機銃掃射の音が、機体後方から響き渡った。ダダダダダダダダ!という金属的な音が、まるで機体が食い破られるかのように機内を揺るがす。

「パーキンス! 応答しろ!」

デュークセン大尉は叫んだ。しかし、返事はない。無線は、砂嵐のようなノイズを発するだけだった。ロジャーもまた、この地獄から消え去ってしまったのか。

デュークセン大尉は、全身に血の気が引くのを感じた。仲間が次々と死んでいく。この空で、彼らはまるで塵芥のように散っていく。

その時、機体の下部から、甲高い叫び声が聞こえた。「助けてくれ! 誰か! 脚が…!」

ボールターレットの砲手、トーマス・“トミー”・ブラウン伍長の声だった。彼は、あの猛攻の中、なんとか生き残っていたのだ。しかし、彼の叫び声は、痛みと恐怖に満ちていた。

デュークセン大尉は、操縦桿を片手で握り、もう片方の手で機内スピーカーのスイッチを入れた。「トミー! 大丈夫か!? 状況を伝えろ!」

「隊長…! ターレットに被弾しました…! 脚が挟まって、動けません…!」

トミーの声は、途切れ途切れだった。ターレットの透明なドームは粉々に砕け散り、そこから容赦なく冷たい風が吹き込んでくる。外気はマイナス数百度。このままでは、凍死してしまうだろう。

デュークセン大尉は、残された航空機関士のチャールズ・“チャーリー”・ディヴィス軍曹に叫んだ。「チャーリー! トミーを助けに行け! 早く!」

チャーリーは、すでに負傷した肩を押さえながら、爆弾倉のドアをこじ開け、爆弾を投下する任務を終えたばかりだった。彼の顔は、煤と血と、そして極度の疲労で青ざめていた。

「隊長…! 私は…」

チャーリーは言葉を詰まらせた。彼の足は、すでに限界を超えていた。

「行け! チャーリー! お前しかいないんだ!」

デュークセン大尉は、怒鳴るように叫んだ。チャーリーは、一瞬ためらったが、デュークセン大尉の鬼気迫る表情に、覚悟を決めた。彼は、重い足取りで機体後部へと向かい始めた。その背中には、彼がどれほどの痛みに耐えているかが、ありありと見て取れた。

機体の周囲は、依然として対空砲火の嵐だった。黒い爆煙が、機体を取り囲むように次々と炸裂し、ドカン、ドカン、という重い音が、デュークセン大尉の鼓膜を震わせる。金属片が、雨霰のように機体に叩きつけられ、新たな穴を開けていく。

その時、機体の窓から、新たな敵影が見えた。それは、メッサーシュミットの群れだった。彼らは、傷ついた「アイアン・デューク」を、まるで傷ついた獲物のように追い詰めてきたのだ。

「隊長! 敵機、左翼より接近!」

ナビゲーターのハリー・“ハル”・クーパー少尉が、コックピットへと駆け込んできた。彼の顔も、煤で汚れ、ゴーグルの下には、激しい恐怖の色が浮かんでいた。

「ハル! 助けに行け! 後部だ! トミーとチャーリーを助けるんだ!」

デュークセン大尉は叫んだ。彼は、操縦桿を握りしめ、迫り来る敵機から機体をかわそうと、必死に操縦する。しかし、二つのエンジンを失った機体は、もはや敏捷に動くことはできなかった。

ダダダダダダダダ!

再び、機体を激しく揺さぶる機銃掃射の音が響く。左翼のエルロンに被弾したのか、機体が大きく左へと傾いた。デュークセン大尉は、必死に操縦桿を右へと切り、機体のバランスを保とうとする。しかし、その体勢を維持するのは、もはや不可能に近かった。

「くそっ! 落ちるのか…!」

サミーが失われた座席を見つめながら、デュークセン大尉は心の中で叫んだ。

その間にも、敵機は容赦なく機銃掃射を浴びせてくる。機体の外板が剥がれ落ち、内部構造が剥き出しになる。燃料漏れも発生しているのか、焦げ臭い匂いが機内に充満し始めた。

ハルは、後部の通路へと向かい、チャーリーとトミーを探していた。薄暗い機内は、破壊された計器類からの火花と、吹き荒れる風によって、混沌としていた。

「チャーリー! トミー!」

ハルは叫んだ。その声は、轟音にかき消されそうになる。

ようやく、彼は通路の奥で、うずくまっているチャーリーと、その傍らで呻いているトミーを発見した。ボールターレットは、完全に変形し、トミーの脚を挟み込んでいる。

「チャーリー! トミーは!?」

ハルは、チャーリーに駆け寄った。

チャーリーは、顔を上げ、苦痛に歪んだ表情で言った。「脚が…! 完全に挟まっています…! 抜け出せない…!」

トミーは、意識が朦朧としているのか、ハルの呼びかけにも反応しない。

「くそっ!」

ハルは、トミーの脚を挟む金属板を、素手で引き剥がそうとする。しかし、それはビクともしない。彼の指先からは、血が滲み出る。

その時、機体が大きく横転した。敵機からの攻撃か、あるいはエンジンの限界か。機内は、重力が失われたかのように、搭乗員たちの体が投げ出される。

ハルは、必死にチャーリーとトミーを掴もうとしたが、その体は、機体の壁に叩きつけられた。激しい衝撃が、全身を襲う。

デュークセン大尉は、必死に機体を立て直そうとしていた。しかし、機体は、もはや彼の操縦を全く受け付けない。急降下を始め、地面が猛烈なスピードで迫ってくる。

「総員! 脱出!」

デュークセン大尉は、最後の力を振り絞り、叫んだ。その声は、絶望に満ちていた。

彼は、コックピットから飛び出し、機体後部へと向かった。すでに、機体は空中分解寸前だった。

通路を走りながら、彼は、破壊された機体のあちこちから、仲間たちの悲鳴や呻き声が聞こえるのを感じた。彼らは、次々と、この鉄の棺桶の中で死んでいく。

ハッチの近くには、アーリーが倒れていた。彼は、すでに息絶えているようだった。デュークセン大尉は、彼の顔を一瞥し、歯を食いしばった。

そして、彼は、トミーとチャーリーのもとへとたどり着いた。ハルは、必死にトミーを救出しようとしていたが、もはや万策尽きたようだった。

「ハル! 離れろ! もう間に合わない!」

デュークセン大尉は、ハルに叫んだ。彼は、トミーの顔を見た。その瞳は、もはや生気を感じさせない。

「トミー…!」

デュークセン大尉は、トミーの頬にそっと触れた。その体は、氷のように冷たかった。

「くそっ! くそっ!」

ハルは、絶望に打ちひしがれ、地面を叩いた。

「行け! ハル! チャーリーもだ! 早く!」

デュークセン大尉は、二人を突き飛ばすようにして、ハッチへと向かわせた。

ハルは、涙を流しながら、よろめくチャーリーを支え、ハッチから身を投げ出した。彼らの落下傘が、空中で開くのが見えた。

デュークセン大尉は、ハッチの縁に立ち、燃え盛る機体を振り返った。機内には、もはや彼の他に誰もいない。彼の仲間たちは、この地獄の空で、散っていったのだ。

彼は、深く息を吸い込んだ。そして、目を閉じ、心の中で一人ひとりの仲間の名を呼んだ。サミー、ロジャー、アーリー、トミー…

「すまない…」

彼は、そう呟くと、燃え盛る機体から、白い空へと身を投げ出した。

風が、彼の体を激しく叩きつける。重力が、彼を地上へと引きずり込もうとする。彼は、恐怖を押し殺し、パラシュートの紐を引いた。

ポン!という音と共に、パラシュートが空中で大きく開いた。彼の落下速度は、一気に緩やかになった。

デュークセン大尉は、目を開いた。眼下には、彼らが爆撃したばかりの都市が、黒煙に包まれて広がっていた。そして、彼の心を締め付けるのは、もはや生き残ったことへの安堵ではなく、仲間たちを失った深い悲しみと、未来への絶望だった。

彼は、遠くの空を見上げた。そこには、もはや僚機の影はない。彼は、たった一人で、この地獄の空に生き残ってしまったのだ。

空には、硝煙の匂いが漂っていた。そして、デュークセン大尉の心には、生き残ったことの罪悪感と、終わりの見えない戦争への憤りが、渦巻いていた。彼は、これからどうなるのだろうか。捕虜になるのか。それとも、このまま一人で、この広大な敵地を彷徨うことになるのか。

彼の瞳からは、一筋の涙が流れ落ちた。それは、失われた仲間たちへの涙であり、そして、終わりの見えない戦争への、絶望の涙だった。彼は、心の中で静かに呟いた。「なぜ…なぜ私だけが…」

彼の未来は、不確実性の中に投げ込まれていた。しかし、彼の心には、決して忘れられない、仲間たちの顔と、彼らが共に戦ったこの空の記憶が、深く刻み込まれていた。


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