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「もう一つの理由は女性問題だったんです」
と、メイド長は呟いた。
「お金を持っている貴族男性は、ご存知の通り女性に狙われます。中堅どころの伯爵家では、相手によっては家柄だけで牽制することは難しい。その上魅力的な男性だと知られればなりふり構わない女性に押し倒されたり、周囲も巻き込んで犯罪すれすれの手を使ってでも手に入れようとしてくる相手が現れるかもしれません。けれど目的がお金だけならプライドも手伝ってそこまでの手段は取らないでしょう。それも踏まえて私達もオーソクレース様の考えに賛同しました。ご本人はそこまで考えてらっしゃらなかったようですけどね」
ふー。と、大きなため息をついてからメイド長は言った。
「そうは言っても、それも貴族の義務の一部でもありますから。跡継ぎだけの話ではなく、自分が支え自分を支えてくれる相手を得ることは対外的に信用を得る一つの手段でもあり、人生の喜びでもあります。ですから主はその行動をするつもりはあったようなのですが、まぁ、色々な理由で上手くはいかなかったのですね」
主。当然のように口にするいつもと違う呼び方に、本人がいないのにそう呼ぶ彼等の気持ちが伝わってくる。仕えるべき人間を選べる彼等の気持ちが伝わってくる。優しく優秀なあの人に、彼等は心からの忠誠を誓っているのだ。
「それにしても本当に、主からお話を少し伺った限りでは昨今の若い方々は随分と自由に過ごされているようで」
困った様にため息をついて彼女は言った。
「時代の流れや若さが許す事もあるのでしょうね。変わりゆくものが時代を作り人を成長させるのは世の常ですからそれを頭ごなしに否定するつもりはありませんが、些か道を外れてしまっている気がします」
確かに若年層の昨今の恋愛事情は、はっきり言って少し乱れている。でも大きな流れを止めるのは安易ではない。それが間違っていると証明するのも難しい。
「先程カレンさんも仰っていましたが、最近は男性の持ち物で懐具合を確認するそうですね。それを確認する女性も、それを主張する男性も、少しはしたない…と思ってしまうのは歳を取った証拠なのでしょうか」
とはいえ若者の文化は興味深いのか、少し困ったように笑う。それを作る為に鉱山を掘り当てたという噂を思い出して少し混乱した。デマだったとしても結果は同じ。彼等の主人は結局、どんな剣を作ったのだろう。
それが分かったのか、執事はメイド長に目配せをした。その無言の合図に気付き、くすりと笑ってメイド長は答えてくれる。
「あら。気が回らず失礼しました。オーソクレース様は剣をお作りになっていませんよ」
「…そうですか」
当然の様に作ると思っていたその根底さえひっくり返された。後から聞けば納得しかない彼の行動は悲しいかな。今の常識に染まってしまった自分にはすぐに理解ができない。
「確かに夜会は美味しいものを口にして歓談し、ダンスをして恋のお相手とも出会える場所かもしれません。けれどその土台はあくまで社交場。情報収集や真剣な交流などが目的である厳しい場です。その場に女性へのアプローチの為だけのアクセサリーを下げていくことなど、本来なら恥ずかしいこと以外の何者でもないということはお分かり頂けますか?」
そう言われれば…。
「はい…」
女性の立場からするとそれが大きな目的でもあるから耳が痛い。けれど言われれば分かる。
「そんな物が無くとも幸いというか残念というか、見る人が見ればその人がどの様な素養を持っていてどの様な人物かはすぐに分かります。礼儀作法、言葉遣い、教養。それを全て学び自分のものにすることも貴族の義務の一つ。その態度一つが家を守り、もしくは傾かせてしまうこともある、とても重要なものと気付いている方は今の若い方にどれ程いらっしゃいます事か」
世襲すれば今の子ども達がその家の顔となる。時代や若さだけでは言い訳できない時が必ず来る。
「オーソクレース様は外交の際に王族から同席を求められる程教養のある方です。その為、礼儀正し過ぎるところもあり、今の若い方はもしかしたら物足りなさを感じる事もあるかもしれませんね」
そう言われて思い当たる。二人が初めて会った日の事。
あの時、すぐに次の約束を口にしなかった理由も、手の甲に口付けをしなかった理由も。然るべき礼儀を払ったが為のもどかしさ。けれどそれは誠意ある表現だったのだ。主人の為に拳を握り締め、彼の表現に憤りを感じていた自分は間違っていた。
「全ては人間が勝手に作ったものですから、どちらが正しいかなんて決めることこそ意味の無い事なんでしょう。ただ、惹かれ合う人間はそれを拠り所にします。顔が変わるほどお化粧をして隣で笑ってくれる女性が良いのか、自分との会話を楽しみ大切な人への優しさを持ち合わせた女性が良いのか。周囲の視線や価値に目を向け、女性を美しくする事に尽力してくれる男性が良いのか、自分の矜持を信じ誠実な在り方を見せてくれる男性が良いのか」
言葉にすれば明確だった。お嬢様にはあの人しかいない。本当は分かっていた。同じ常識を共有できて、相手の考えていることを理解し合える。圧倒的少数の中でやっと出会えたお互いを尊重し合える二人なのに。
でも彼はいない。お嬢様はもうすぐ世界に飲み込まれてしまう。
「さて、カレンさん。私達の敬愛する主人のことを少しお話しさせて頂きましたが、如何でしょう。改めて伺いますが、ここで私達と過ごす気になって頂けましたか?」
「…あの…」
自分自身が思っていたよりもずっと大きな優しさと包容力に守られていたのを知った。その二人の幸せは? 自分はそれを受け入れたいのに、二人がこのまま離れてしまったら。
「お嬢様は…」
ぽろぽろと涙を零す自分を見ても、まるで何もかも見透かしたかのように彼等に動揺は無い。そうだったら良いのに。本当に何もかも分かっていてくれていたら、きっとお嬢様を助けてくれる。
「そうそう…。そうでした。大変失礼しました。一つ、大切なことを伝え損ねていました。今、坊ちゃんはある方をお迎えに行かれています。もしもプロポーズを受け入れて頂けたら、その方もこちらで過ごすようになりますので心積りをお忘れなく」
プロポーズ? 理解の追いつかない言葉に目を丸くした。それは。
誰に?
「お優しく礼儀正しいのは良いのですけれど、女性に対してはそれではどうにもなりませんからねぇ…。いざ、いい方が現れた時にはどうなるかと老婆心ながら本当に心配していたのですが杞憂でした。あんなにあっさり攫いに行くなんて。坊ちゃん、男でしたわ」
「当然でしょう」
その言葉に執事が笑う。
「気高く美しい。聡明で優しく、自分の侍女の為に頭を下げるような女性に駆け引きなんて通用しませんよ。欲しいと思った時に正面からぶつかるしかないんです」
「まぁ、うちの坊ちゃんはそこから準備を始めるような愚か者ではなかったということですね」
そうそう。と、楽しげに笑う二人の会話に彼がどこに向かったのかを理解した。ああ、そうだったんだ。お嬢様。良かった。泣き崩れた自分を二人は優しく見守ってくれる。それが自分の想像が間違っていないと教えてくれる。止まらない涙が全部洗い流してくれる。汚れた空気もずっと心にあった不安も心配も全部。苦しくて仕方が無いのに何て清々しいんだろう。好きなだけ泣いて泣いて泣いた。