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「…ノブレス・オブリージュ?」
「分かり易く言えば『貴族の義務』となります。明確に何をどうするという定義はされていませんが、貴族の様に財力や権力を持つ者には相応の責任があると表現された言葉です」
初めて聞いた。と、顔にも出してしまった。そしてそれは何か、自分の中で明確化してみる。女性を綺麗にする為の尽力? 隣に立った男に優越感を持たせるような美貌? 自分が垣間見てきた貴族社会ではそんなものしか思い付かない。それが誰よりも大切な主人を苦しめる。そしてなんて罪深く見かけ倒しの下らないものかと心底軽蔑した。
「もしもそれを問われたら『貴族は領地を適切に管理し治めるべき者。そして領民を守るべき者。税を適正に納め、国を支えるべき者。自身も学び成長し、身分にして恥ずかしくない振る舞いと教養を備える者』と答える貴族を私は知っています」
理想…というよりも綺麗事にすら聞こえる。他人の為に動き、自身には厳しさを課すような人間なんて本当にいるのだろうか? しかも与えられた地位による義務で。
「今時そんなものと笑う人間も多いかもしれません。けれどそれがあるのと無いのとでは人間そのものが大きく変わる。私は近くでそれを拝見し、その考えがいかに尊いものか、この年になってつくづく実感しました」
はっきりとそう言い切った執事と背筋を伸ばして立つメイド長に、彼らがどれだけ優秀な人材かを今更理解した。彼らはそういう人物の元で、自分達も主人に相応しくなるべく研鑽を積んだ者なのだ。主人を選ぶことすらできるレベルの使用人。つまり彼等が認めた主人は彼等以上の能力を持った人間、もしくはそう期待させる人間。…それがさっきのノブレス・オブリージュ?
「数年前、ある一人の貴族令息が、非公式ではありますが王族から命を受けました。この国の為に金を集めるように。そしてその令息はまず、山を迂回しなければならなかった道を短い距離で越えられるようにしようと考えました。人が領地に入れば金も落ちる。目的の一つはそれでしたが、その令息がした事はそれに止まらなかった。専門家や使う者の意見を取り入れ、安全でかつ便利な道を作ることを最優先に動きました」
執事が語る、道を作った貴族の話。自分が思い当たる人物は一人だけ。でも、その人は…。
「さて。作業は順調に進み、道の完成間近。使用する側の意見を聞かせて欲しいと依頼し、関わっていた商人が言いました。『この道なら金が取れる。いや、取って欲しい。この道を使えば大幅な時間短縮になり、運送にかかる費用もかなり浮く。買う側はそれを見越して売値を下げろと交渉してくるだろう。けれどその浮いた金は、自分達の意見を取り入れて最高の道を使ってくれた貴方に貰って欲しい』」
ピースが一枚一枚綺麗に嵌まっていく感覚に鳥肌が立った。不思議な感覚。違う色の形が同じピースが存在しているような。
それを嵌め直すと全く別の絵が浮かんでくるような。
「その言葉を受け、それではと使用すると見込まれる人数から管理費を頭割りした額で使用料を算出しました。蓋を開けてみれば使用者が数十倍レベルで多く、見込み違いだったと頭を抱えることになったのはここだけの話です」
そんな事を世間話でもするように話し、彼は穏やかに笑った。それはいつか、ここに来た時に夜更かしをして何でも無い話をしていたときの表情に似ている。確かにその顔を知っているのに話の内容が胸をざわつかせる。はっきり確認したいのにできない。その自分を待たずに彼は口を開いた。
「そのご令息にはまだ計画がありましてね。通行料を取ると決める前。道完成の見通しが立って自分の手からその仕事が離れた頃、今度は継続して金を得る為に動かなければと、まずは周辺の土地の調査をしました」
人が領地に入れば金が落ちる。道を作ったのはそれが目的だった筈なのに、そこを頼りにする気は無かったようだ。通行料すら管理費の頭割り。だとしたら結局、彼は何の為に道を作ったんだろう。
その答えであろうものは考える事もなく自分の中に映る。思考や文字ではなく見える。その道を一緒に作った仲間達。金を受け取って欲しいと言った彼らの表情。そして人が入れば領地の人間が潤う。その結果、金が集まれば良いくらいの気持ちが透けて見える。そういう人間だから周りが反応する。奇跡みたいな連鎖がここにある。
「森の木は売れるのか。土壌の状態はどうか。そんなことを総合的に調査していた彼はそこで鉱石を見付けました」
その言葉に分かっていたのに確信した。これはオーソクレースの話だ。それは噂とは全く違う彼の真実。
「彼は信用できる人間にアドバイスを求めました。道を作る時に築いた人脈は、この時存分に彼を助けてくれました。環境の専門家。流通の専門家。土木技術の専門家。真摯にアドバイスを受け入れ、希望を聞き取り、私財も惜しみなく注いで十分な金額と納期で安全に作業するようにと言葉をくれた貴族に彼等は最高のアドバイスをくれました。それは価値ある鉱石だとやがて判明し、山にはどの位あってどの様に採掘するべきか。それはどの様に活用され、どの位の金額になるか。採掘する技術者は信用のおける腕の良い人間を紹介し、彼の成功を皆が心から喜びました」
あまりにも順調に進んだように聞こえる彼の人生は、実際には簡単ではなかったに違いない。多額の金をつぎ込むプレッシャー。畑の違う人間との交渉。相手の悪意を感じたこともあっただろう。それを、そこに生まれたという理由だけで全て背負うことになった彼は自分の運命をどう思ったんだろう。
今はどう思っているんだろう。優しく穏やかに自分と主を迎えてくれたあの人に、そんな人生があったなんて想像すらしなかった。
「だとしたら酷すぎます…」
誤解していた自分がどんな目で彼を見ていたか。その目で今も彼を見ている多くの人間への嫌悪が急に湧き上がって一瞬強く燃えた怒りは、すぐに大きな悲しみに変わった。
「どうしてあんな噂が…」
誰が流した悪意なんだろう。そう信じていれば楽なのは、関わりもない他人だけ。そんな心の安定の為に優しい人が傷付く必要なんて無いのに。
赤の他人に向けられた悪意ではっきりと深く傷付いた。そうか。これが信頼しているということなんだ。いつもは鈍く、何に対しての反応か分からなかった痛みは、自分の主人への悪意のせいだったと初めて認識した。その彼女は自分を逃がしてくれた。その優しさが嬉しくて悲しい。沢山の鮮明な感情と痛みが溢れるように込み上げてくる。
そんな自分を見て執事は嬉しそうに、そして申し訳無さそうに笑った。
「そう言って頂けるのは大変嬉しく思いますが、裏切るようで申し訳ありません。あの噂を流したのはオーソクレース様ご本人です」
「…え?」
零れ落ちそうな程の涙目で顔を上げたら二人は困ったように笑って呟いた。
「オーソクレース様は他人からどんなに見下されようと、運の良い無能という立場でいた方が色々と都合が良いと考えられたのです」
「…都合?」
成功が知れ渡れば多くの人から尊敬されるだろう。人としても貴族としても、それは最高の栄誉だろうに。
「成功者にはついて回るものですが、それを利用してやろうとする輩は必ず現れます。有能と捉えられれば更に執着は強くなり、また狡猾に仕掛けてくるでしょう。しかし無能と思われていれば相手の出方も変わる。判別は安易になり、相見えても『分かりません』の一言で終わりにできる。最初から交渉する価値のない相手をふるいにかける為、主は賞賛や栄誉を捨てたのです」
その言葉に、ちゃんと見えていると思っていた視界が変わった。そういう考え方があることを思い付きもしなかった。だって人間は少しでも高く評価して貰うことを求める生き物だから。本当の自分よりもよく見て貰おうと思うのが当たり前だから。その為に生きる人だっているのに、その先まで見通して欲を捨てる判断ができる人間の存在を初めて知った。同じ価値を共有し、その中で優越感に浸る事を疑問もなく求める人間とは違う。その目を持っていれば、もしも世界の価値が迷走しても一人で立っていられる。誰一人行先の分からない集団に飲み込まれて一緒に迷う事もない。
彼等の主は自分と土台から違う。自分とは別のものを見ている。同じものを見てもきっと見え方が違う。垣間見えた、明度と鮮明さが増した世界の中で。