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執事とメイド長1

 早朝に到着した自分を、見知った彼らは何の驚きもなく迎え入れてくれた。馬車の中で眠った様な眠れなかったような時間を過ごしていたらいつの間にか着いていた。こんな気持ちでここに来たくなかった。泣きたくなったけれど泣けなかった。感情が死んでしまったみたい。


 来客用の部屋に通されて休むように言われたけれど、椅子に座ったら動けなくなった。どの位こうしていたんだろう。日が高くなり、秋晴れの薄い青を見上げていたら執事とメイド長がやってきた。躊躇いがちなノックに返事をしたら、ゆっくりとドアが開いて二人が顔を覗かせる。


「カレンさん? 今宜しいですか?」


「…はい…」


 その言葉に、俯くように返事をする。ゆっくりと入室してきた執事は自分の対面に座り、その斜め後ろにメイド長が立った。


「お休みにはなられましたか?」


「…いえ」


「眠れませんか?」


「…多分…」


 全く眠気を感じない。体も心も重いのに。休まなければならないのに。けれど自分を必要としてくれる人はいない。だったら良いか…。と、自分の体を大切にすることを諦めた。誰よりも大切なお嬢様が守ってくれたものなのに。だけど治す理由を見出せない。こんな事をしている内に、お嬢様は「今」に引きずり込まれてしまう。何をすべきなのか、何をしたいのか、何ができるのか。頭の中が滅茶苦茶で何も分からない。


「眠れなくても横になられた方が良いですよ?」


 体が強くないことを、彼等はきっと知っているんだろう。気を遣ってくれたそんな言葉も今はちゃんと受け取れない。ごめんなさい。首を振って呟いた。


「オーソクレース様はいらっしゃいますか?」


 全部が疲れ果てて、話せる言葉が有限のような感覚を覚えた。だから知りたいことから口にした。ご挨拶だけはしておかなければ。


「坊ちゃんは外出されました」


「…そうですか」


 貴重な言葉で次は何を聞こう。そう思っていたら前から声が聞こえてくる。


「横にならなくて本当に大丈夫ですか?」


 はい。と、首を縦に振った。その頑なな態度に二人は諦めたらしい。顔を見合わせると次に執事はこう言った。


「…では、何があったのかお話して下さいますか?」


 そう言われて、手を見つめたまま止まった。どこまで何を話せば良いんだろう。分からないまま答えた。


「…ラルフィール様から、こちらでお世話になる様にと言われて来ました」


「他には何か言われましたか?」


「この先、私では役不足と言われました」


 自分でその言葉を口にしたら、死んでいた感情が最後の痛みに反応したかのように動いた。惨いものを見てしまった気がして思わず体に力を入れる。


「…それはお辛かったですね」


「心中お察しします」


 その体に触れた静かな声。心の底からそう思って言ってくれていることが分かって少し救われた。


 そんな自分の視界が不意に渦巻いた。目眩を起こしたのかと思ったけれど違う。黒と紺が入り交じって綺麗な円を描くそれは、見ていても体の平衡性を損なわないし瞬きや目を閉じた瞬間にしか見えない。自分の感情が映っているんだ。きっと。そう思ってそのままにした。


 それを見ていて気付く。底の見えない真っ暗なこの渦は、今まで自分がいた場所なんじゃないかしら。お嬢様が私を一人、その渦から逃がしてくれたのかしら。安全な場所からその渦を見る逃がされた一人。この後自分はどうするの? 立ち上がり、歩き出し、陸で別々の人生を歩くのか。ずっと渦の傍らにいるのか。それとも渦の中に戻るのか。


 …どうしよう…。


 渦しか見ていない自分は気付かなかった。陸に上った自分の後ろに、その背中を見つめる人達がいたことを。


「それでここに来られて、カレンさんの心は決まっていますか?」


「…まだ何も…」


「そうですか」


「すいません…」


 主人と自分にとても良くしてくれたここの人達には何の恨みもない。ただ申し訳なくて口にした謝罪に、いいえ。と二人は首を横に振った。


「お互い、まだ数回しか会ったことのない関係です。無理はありません」


「もう少し深くお互いを知る為に、このままお話を伺っても宜しいですか?」


「はい…」


 ここで話をしたところで何の解決にもならない。それでも一人きりよりはましだった。だからその言葉に頷いた。いつ尽きてしまうか分からない言葉は、全部お嬢様との思い出に使おう。そう決めた。


 それから記憶を整理するように、聞かれるがまま、自分とお嬢様の事を話した。自分は初等学校を卒業した後、憧れていた貴族仕えの使用人になる為に働きに出た。お嬢様と同年代の女子はまだ働いている子が少なく、運良くレルブレフ侯爵家に拾って貰った。まだ未熟な自分にもお嬢様は優しく接してくれた。振る舞いも気高く、上流階級の貴族令嬢として真摯に学ぶ一方で、弱い者には優しく手を差し伸べてくれる。自分の主人は素晴らしい人だと敬愛し、この人に一生尽くそうと心に決めた。


 けれどお嬢様が社交界に出られる頃、周りの常識が変わり始めた。流行に乗ることも淑女の嗜みだったのかもしれないけれど、それはお嬢様の学んできた令嬢の在り方や自分が想像していたものとはあまりにかけ離れていた。自分を偽るのか、時代に抗うのか、苦悩の末にお嬢様は後者を選んだ。それでも必要があって社交界に参加するお嬢様に付き添い、自分が体調を崩し始めたのもこの頃。体調を崩しているのが自分だけではないことを知った時にはぞっとした。他の家の使用人も、果ては令嬢本人まで、体を壊して肌をぼろぼろにしても顔を厚く塗る姿に恐怖を覚えた。お嬢様にこんな事はさせられないと自分の体調不良まで利用してそれを遠ざけてきたけれど…。


 それは、本当に正しかったのだろうか。そのせいでお嬢様は今辛い目に遭っている。そしてこの後、あの綺麗な肌に厚くお化粧をしなければならなくなった。もっと早く二人で諦めていたら。結局こうなるのならさっさと周囲に染まってしまえば。その方がお嬢様は楽だったんだろうか。沢山後ろ指をさされて陰口を聞かされ、苦しむ自分を見て泣いていたお嬢様。


 その話を聞いて二人は優しい声でこう言った。


「ラルフィール様は素晴らしいご主人様だったんですね」


「カレンさんがいたからラルフィール様はここまで耐えてこられたのだと思いますよ」


 耐えて。


 そう。耐えさせてしまったのよね。自分は主人に重荷を負わせてしまった。何て事をしてしまったんだろう。弱くなった心は自分を責める。不甲斐ない自分に痛みを与えるように手の平に爪を立てた。


「坊ちゃんも似たような境遇にはありましたが、やはり男性と女性では大分違いますねぇ…」


 と、メイド長の呟きが聞こえてくる。それに執事が苦笑して答えた。


「坊ちゃんの場合は周囲が別の意味で強烈でしたからね。ご本人は素晴らしい方なのですが、あの中にいるとどうも掠れてしまって哀れというか何というか」


 オーソクレース様も。その言葉に少し興味が湧いた。そう言えばオーソクレース様も今の社交界からは少し浮いている気がする。男性の事には詳しくないけれど、王都に執着することもなく、女性に対しての態度もそう。普通惹かれる筈のものには目もくれず、お嬢様の事も自分の事も、少なくとも見ている限りでは快く受け入れてくれていた。それに珍しいほど控えめだった事も思い出す。いい意味でも悪い意味でも男らしい力強さを感じない。だから彼にはお嬢様を助けて欲しいとも期待しなかった。ただここにいて、疲れたお嬢様を癒し安らぎを与えてくれる人。


「カレンさんは坊ちゃんの噂を耳にされたことはありますが?」


 不意に聞かれたその質問に回答を迷った。決して良い評判ではない。主従関係は緩かったようにも見えるけれど、彼らが主人を深く慕っていたとしたら決して耳障りの良いものではないから。


 そして口を噤んで何も答えなかった理由を彼等は察してくれたらしい。笑顔で頷きながらこんな事を言う。


「もしも私達の気持ちをご心配されているのでしたらお気遣い無く。私達はその内容を把握しております。それをカレンさんもご存知か確認したかっただけですので」


 そう言われてゆっくりと口を開いた。


「オーソクレース様は…ここで新鮮で美味しいものが食べたくて道を作ったと…。それに夜会用の剣を作る為に山を掘ったら鉱石が出てきた運の良い方だと聞いたことはあります」


「…あら、まぁ」


 その回答に、少し驚いたようなメイド長の声が聞こえてきた。なるべく柔らかく伝えたつもりだったけれどやはり気に障ったかと肩を竦めたら今度こそはっきりと笑い声が聞こえてくる。


「まさかまさか。こんなに正確に広まるとは思いませんでした」


「私もです。それだけインパクトがあって受け入れられやすい内容だったんでしょうねぇ」


 うんうん。と、満足げに頷いてから執事は自分を見た。何だかとても楽しそう。理由が分からず戸惑っていたら、彼は静かな声でこう言った。


「カレンさんはノブレス・オブリージュをご存知ですか?」

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