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翌日。カレンのいない事に慣れず、何度か姿を探して名前を呼んでしまった。こんなに側にいるのが当たり前だったあの子を手放せて良かった。勢いって大事ね。と、御者が出発したことまでしっかり確認して思った。何時に発ったのか知らないけれど、もう到着しているだろう。朝の到着になってしまって申し訳ないことをしたと反省したけれど、一つ心配事が無くなって寂しいよりもほっとした。後でお父様に事情を話して誰か他の人を付けて貰わないと。とはいえ、こんな変わり者に付きたい子が見付かるかしら。でも今後のことを考えたら一人ではどうにもならない。色々なことに戸惑うだろうけど我慢して貰おう。
そう思ってから気が付いた。いや、戸惑うのは自分の方だ。今の常識を、次の侍女は自分よりも知っている筈。それに全て委ねてしまえば良い。昨日カレンの代わりにドレスを脱がせてくれた何人かを思い浮かべるけれど指名するのも気が重い。希望者がいれば良いけれど難しいかしら。
そんな事を考えながら自分で支度をして朝食に向かったら食堂には誰もいない。あら? と見回したら使用人が親は自室にいると教えてくれる。そう言えば昨日の帰宅後も二人は部屋に籠もっていて顔を見なかったけれど、カレンのことがあって気にしていなかった。何かあったのかしらと今更気になった。それに夜会のことも早く伝えておかなければ。パートナーの事も相談したい。殿下にはあんな事を言ってしまったけれど親は頭を痛めるだろう。自分の頭もずきずき痛みを覚えた。
「お父様? お母様?」
こんこん。とノックをしたら中から人の気配が近付いてきてドアが開く。そして見えた両親の顔に思わず目を丸くした。何があったらこんな顔になるのか分からない。凄く忙しないような、興奮しているような。楽しいことがあったような焦っているような。何とも表現できない表情をしている。けれど父親は違和感があるほどはっきりとした声でこう言った。
「ラルフィール、おはよう。よく眠れたかい?」
「は? …あの、はい。…おはようございます」
本当はそんな筈がないけれど思わず頷いた。
「それなら良かった。朝食は?」
「まだです。お父様とお母様がいらっしゃらなかったので」
「あ、ああ。そうか。それでここに来てくれたのか」
そこで初めて気付いたらしく、二人は顔を見合わせて笑った。ここまで二人を見ていても、一体どういう状況なのかがさっぱり分からない。何か誤魔化しているようにも見える。困りごとがあるのかしら? でも、笑う表情は楽しそうにも見える。不思議。そして驚いたせいで失念していた話を思い出した。
「お父様。あの、お話が…」
「話? …あー…ああ…悪い。後にしてくれるか? 今、少し取り込んでいて」
取り込んでいる? 朝から? 不思議に思ったけれど、それならと頷いた。
「分かりました」
そう言ったら両親はほっとした様に頷く。ここでもしも粘ったら、きっと二人は話を聞いてくれたのだろう。けれどそこまで急ぐ話でもないので大人しく引き下がった。
「カレンはどうしたの?」
母親の声が聞こえてきてぎくりと肩を震わせた。今話そうかと思ったけれど、そんな余裕は二人に無さそうだ。
「あの…」
と呟いて首を振ったら二人は顔を曇らせた。
「調子が悪いのか?」
「休んでいるの?」
「…」
その質問に何も答えられずに俯いたら小さなため息が聞こえてくる。もしかしたら二人はカレンを疎ましく思っていたのかしら。カレンのせいで自分がこうなってしまったと思っているのかしら。侍女という壁を失って見え始めた現実にくじけそうになった。
「大丈夫なの? しっかり休ませるのよ? 少し良くなったからと言って無理をさせては駄目。あの子は真面目だし無理もするから、貴方がきちんと言い聞かせなさい」
「必要なら医者を手配するから言いなさい。カレンは不要と言うだろうからお前が判断するんだぞ」
その言葉に顔を上げた。両親の心が確かに見えた。二人はカレンを否定していない。その主人である自分のことも。
「…はい」
本当の事は何も言わずに、その場はそのまま受け取った。ただ嬉しかった。その顔に両親の心も緩んだのか、穏やかな声でこんな事を教えてくれる。
「実はこれから来客があるんだが、それで少しばたばたしているんだ。朝食は一人で食べなさい。ちゃんと食べるんだぞ」
まるで小さな子に言うような言葉に笑ってしまう。
「はい」
「貴方も…」
そう言った母親は自分ではなく父親を見た。そして微動だにせず二人は少し見つめ合う。やがて母親はこちらに向き直って静かなゆっくりとした声でこう言った。
「呼ぶと思うから、準備なさい」
「え?」
その母親の言葉に目を丸くした。親の来客に同席することなど、暗黙の了解で皆無と言っていい程無かったのに。
「どなたがいらっしゃるんですか?」
「それは…」
そう言って二人はもう一度顔を見合わせた。しかしどちらも何も主張しない。やがて父親はこっちに視線を戻して首を振った。
「まだ言えない」
思い詰めたような声に、それ以上の詮索を諦めた。思えば王太子殿下に呼ばれた後には必ず自分の様子を伺ってくれた両親がそれすら忘れている。それくらいに重要で意識を奪ってしまう相手なのだろう。でも殿下以上の相手なんて。
…もしかして王太子殿下が直接両親に? と思ったけれどまさか。昨日お叱りを受けたばかりの自分に会いに来る理由は無い。それとも今までの無礼を両親に伝えに来るのかしら? だとすればご本人では無く使いの方でも…。だとすれば私が呼ばれる理由は…。
「ラルフィール、行きなさい」
と、母親の声が聞こえてきた。
「朝食を食べて、ゆっくり時間をかけてお客様を迎える準備をするの。良いわね」
「…はい。あ…あの…」
満足げに笑って部屋に戻ろうとした二人は、娘の思い詰めた声に目を丸くして足を止めた。
「私、あの『普通に』メイクをした方が良いのでしょうか? その方に失礼があっては…」
無意識の内に頬に手を当てて問い掛けた。昨日王太子殿下から受けたプレッシャーを自分だけのものにする訳にはいかない。これからは両親や家の為に変わるんだ。
「普通…」
と、呟いた父親の後ろにいた母親は、自分の前までやってきて肩に手を置くと真っ直ぐに目を見てこう言う。
「いつもの貴方で良いの」
強い視線に引っ張れるように母親の目を見てその言葉を聞いた。
「貴方は変わる必要ないのよ。私達は貴方のことを、心の底から誇りに思っているの。自分に嘘をついては駄目」
「…はい」
嬉しい。両親は心まで全部自分の味方をしてくれる。
抗えない事がこの先出てくることを知っている。けれどできるだけそれに甘えたくて素直に頷いた。
何人かの使用人にドレスを着せて貰い、髪を結って貰った。そして自分でメイクをして呼ばれるのを待つ。自分でメイクをするなんて本当に変わり者ね。一人でいると今まで気付かなかったことに気付く。侍女がカレンだったから。こんなに薄いメイクだから。全てが「普通」の令嬢には信じられないだろう。自分も変わったら、こんな日々を信じられないと思う日が来るんだろうか。
来客があったと気付いたのが一時間ほど前。まだ呼ばれない。随分話し込んでいるようだ。何の話をしているんだろう。暫く緊張していたけれど疲れてしまった。
時計の進む音がやけに耳につく。一つ一つ進む度に、この自分と別れる日が近付いていることを実感する。
――とても綺麗です。健康的で。
あの日、問い掛けた自分にそう言ってくれたあの人の声を思い出す。それすら守り切れない弱い自分を、あの人はどう思うのだろう。変わってしまったら会うのが怖い。会えるか分からないけれど、もしも会えたら。もしも会えるとしたら。
会いたいのに…。
その気持ちすら、捨てなければならないのね。と、やがて諦めた。変わるということは、きっと得るものもあるだろうけれど必ず何かを捨てなければならない。それがどんなに大切なものであろうとも。
目を閉じると星空が浮かぶ。あの日、二人で見た満天の星。穏やかに笑うあの人の顔。この思い出は私を支えてくれるのかしら。それとも苦しめるのかしら。ぼんやりとそんなことを思っていたら使用人が自分を呼びに来た。
応接室の前に来て扉の前に立つ。開けてくれる使用人はカレンではない。開いた部屋の中からも何も聞こえてこない。何が起こっているんだろう。自分の家じゃないみたい。そう思いながらゆっくりと部屋に入った。
「…まぁ…」
そして聞こえてきたのは息を飲んだような女性の声。自分の姿に驚いている。やはり失礼なことをしてしまったわ。と、思っていたら続けてこんな言葉が聞こえてくる。
「本当に、なんて綺麗なお嬢さん…」
その言葉に顔を上げる。そしてそこにいた来客に目を丸くした。