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3

 そして夏に訪問する少し前。一通の手紙に運命が動いた。


「ラルフィール!」


 普段は静かな両親が自分の部屋に入ってきて声高に叫んだ。


「どうされました? お父様。お母様」


 目を丸くして立ち上がった自分に、手紙を握り締めた父親はこう言った。


「王太子殿下から登城する様、通達があった。すぐに準備しなさい」


「え? …私がですか?」


「そうだ。お前を名指しで指名されている」


 その言葉に自分の後ろでカレンが青ざめた。侯爵家の令嬢を独身の王太子が名指しで呼び出しするなど理由は一つしか考えられない。


「…どうして…」


「分からない。とにかく準備をしなさい」


 かといって碌に社交界にも出ていない娘を一人で行かせるつもりはないらしい。自分達も準備をせねばと言って両親は出て行った。呆然と立ち尽くす自分に恐る恐る声がかかる。


「ラルフィール様…」


 何が起こっているのか分からない。ただ、言われた通り準備をした。ドアの向こうはばたばたと騒がしい。対して部屋の中は無音にも等しかった。二人とも何も言わずに黙々と準備を進める。


 やがてぽつりとカレンが呟いた。


「メイクは…どうされますか?」


 鏡を見て、着替えとヘアメイクが済んでいることに気付いた。そして鏡越しに、どうしてそんな事を聞くの? と言いかけたら泣きそうなカレンと目が合う。顔を真っ赤にして何かに耐えている。震える彼女に「自分でするわ」と言いかけて止めた。


「いつも通りで良いのよ」


 自分がどんな令嬢か、きっと王太子殿下はご存知だろう。その上で呼び出しをしてきたに違いない。だとすれば今更隠す必要も無い。ただ、そんな事を憂いてしまう事がとても苦しい。


 失礼な事をしている意識はないのに。


 世界の常識が変わり始めている。それでも変わりたくないと頑なに立ち止まる自分はおかしいのだろうか。そんな自分を受け入れてくれた彼を思う。その周りにいた人達の事も。居心地のいい場所に甘えていたことを自覚する。


 泣いてしまいそうになった自分の目に色を載せていたカレンの手が止まる。けれどそのまま進める様に促し動かない自分に一つ咳払いをしてカレンはいつも通りのメイクをした。




「アリドレイズ王太子殿下。お初お目にかかります。レルブレフ家のラルフィールと申します」


 通されたのは王宮の応接室だった。部屋にいた王太子殿下にドレスの裾を持ち上げて挨拶をする。その自分を見て、いつかの彼の様に少し目を丸くした王太子殿下は、やがて立ち上がって近付いてきた。明らかな嫌悪はない。けれどこの先どう転ぶのかは分からない。


 ここに来るまでの間も俯き、両親に隠されながら歩く自分には好奇の目が向けられていた。聞こえる様にぶつけられる悪意にも反応しなかった。これが今の常識なのだと受け入れる。もしも無礼者と罵られて帰るように促されたら、きちんと受け入れて応じよう。そんな気持ちで挨拶をした自分を見て王太子殿下は笑った。


「いきなり呼び出したにもかかわらず、応じてくれて感謝する」


「…いえ。とんでもありません。お目にかかれて光栄です」


 両親はここに入って来られなかった。一人で戦うしかない。


 それにしても本当に、どうして自分がここに呼ばれたのか全く理解ができない。自分という存在を認識している事にすら驚いた。それは表情から伝わったらしい。座るように促されて対面で顔を合わせると、王太子殿下は真っ直ぐに自分の目を見て頷いた。


「成程ねぇ…」


 無礼を働いているというのならここで引く必要があっただろう。けれど自分はそうじゃない。そう言い聞かせながら彼の目を見る。それをまるで好ましいという様に微笑んで王太子殿下は口を開いた。


「君は社交界にはあまり出てこないと聞いているけれど、どうしてか聞いても?」


 見れば分かるだろうに。随分意地悪な事をお聞きになる。そう思いながら、か細い声で答えた。


「私の様な者がいても何の意味もありませんので」


 話のネタにはなるかもしれない。けれどそれは悪意を含んでいる。その場が楽しかろうと負の産物にしかならないだろう。そういう意味で答えたら相手はその通りに受け取ったようだ。頷き、その話はそれで終わりになった。


 しかしそれはつまり、多くの令嬢が時間を割いている事に興味が無いと伝わったようだ。次に彼はこう言った。


「普段は何をして過ごしているの?」


「…読書や…興味のある事を学んでおります」


 社交辞令から少し先に進んだ質問に戸惑った。けれど正直に答えた。


「興味のある事って?」


 その質問に更に戸惑う。けれど他に思い付くこともなく、これも正直に答えた。


「……最近では経営学や…心理学など…」


 実はその興味はオーソクレース様の領地に行ってから湧いたもの。彼の仕事を、ほんの少しでも理解したかった。経済はこんな風に成り立ち、金はこんな風に回る。彼との記憶に僅かな知識を付け足したら見えたのは、彼が作った下に向かって進むだけの水の様な綺麗な流れ。それを信頼できる人達と作り上げたオーソクレース様の事を改めて尊敬した。


 心理学についても、彼の心の内を解明したいと思って学んだ訳ではない。ただ、沢山の心を掴んだ彼の事を文字にして持っていたいと思った。それが本当に正しいかどうかは分からない。けれど信頼に値する人物がどういうものかは自分の納得と共に掴む事ができた。オーソクレース様はそれから外れてはいない。だから彼は自分の心を掴んだのだ。その他の人の心も。愛だの恋だの、そういうある意味邪な感情ですらなく。


「君の様な令嬢が学ぶには珍しい学問だね」


 探りを入れられているような言葉に何も答えられなかった。まだ王太子殿下が何をしたいのか全く分からない。まさか自分自身に興味がある訳がないだろう。


 …そう思いたい。でも、だとしたらこの人の興味はどこに?


「あいつに関わったからそんな事が気になるようになったのかな?」


 ひや…。と、指の先が冷えた。小さく震えたそれを力を入れて制御する。それに気付いたのかどうか、多分これが本題だったことを王太子殿下はとうとう口にした。


「ラルフィール嬢? 君、オーソクレースの元に何度か行っているらしいね」


 一体どこからそれが彼に伝わったのか。分からなくて混乱した。自分の事など気にする人間は外にはいない。じゃあ彼を探る人間から? 彼は時の人だ。どういう目で見られているかはともかく注目はされている。離れた場所にいるからそれが見える程騒がしくないだけで。


「あの…」


「本当に珍しい。珍しいというか信じられないな。あいつが自分の所に女性を招くなんて。しかも何度も。…けど、まぁ、君を見て何となく理解したよ」


 その言葉に急に恐怖を感じた。この人は自分よりも彼をよく知っている。その上で自分を呼んだのだ。その理由は。


「それで? 聞きたい事があるんだけど」


 その言葉に下げていた視線を上げると、楽しそうに笑って彼はこう言った。


「オーソクレース、どんな様子だった? 領地でどんな風に過ごしている? 仕事は見た? 働いている人とはどんな風に接している? 知っている事全部教えてくれないかな」


 その後、問われたことに全て答えた。知っている事や事実はそのまま。知らない事は知らないと答えた。イエスかノーで答えられることはそれ以上答えなかった。それを繰り返して気付く。彼は金の流れや仕事の詳細には興味がなさそうだ。そこに対する答えを持っている筈が無いから自分に聞かなかったのかもしれないけれど。


 圧倒的に興味があると感じたのはオーソクレース様自身に対して。


「君は彼をどう思う?」


 沢山の質問の後、そう聞かれて初めて言葉を選んだ。自分はあの人をどう思っているんだろう。


 それに向き合った時、それを言葉にして文字にして、声に出して確認したい。そんな欲の様な気持ちが沸き上がった。きっと沢山の形や色が次々に加わって、大きくなって、それなのに最後には綺麗なものになる。それが分かる。それを見たい。という感情に溺れそうになった。でも駄目。この人に見せてはいけない。


 自分も見てはいけない。


「とても素敵な方、だと思います」


 そして取り出したのは小さな破片一つ。沢山の中からやっと選んだそれは、彼の事を一言で表現するのに最低限を叶えるだけのもの。それなのに相手は満足そうに笑った。


「君とは気が合いそうだ」


 今回だけでは終わらない予感は、この後現実になった。また話を聞かせてよ。と最後に言われてその場は終わった。そして半月に一度ほど、同じ様に呼び出されて話し相手をした。


 その間、オーソクレース様の元に訪問していない事を相手は知っていた。近況を伝え合う手紙程度の情報しか持っていない自分を、相手は手放してくれなかった。オーソクレース様が他人に教えてはいけない情報を迂闊に漏らすような人間ではない事を、自分はもとより間違いなく相手も知っている。実際にも大半は、どこにでもあるような季節のやり取り、体調を伺う言葉。あとは少しの雑談。何の得にもならない筈なのに、それを聞く王太子殿下は楽しそうで、どこか嬉しそうで、少し怖かった。


 この事を、オーソクレース様には伝えられなかった。何度も手紙に書こうとした。その度にペンは止まる。これを伝えたらどうなるんだろう。彼は警戒するだろうか。王太子殿下に呼び出される自分を敬遠するかも。それとも利用しようとするだろうか。何とも思わないかもしれない。何度も考えて、同じ想像を並べて、どれもが怖くて結局伝えられなかった。その自分の目に映る彼の文字は、最初と変わらずに綺麗で優しい。弱くて迷う自分を一層際立たせる様に。

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