【童話】パピヨン
小さな葉っぱの町に、二つの小さな命が生まれた。
一つは、やわらかな緑の体をした青虫のアオ。
もう一つは、黒くて小さなトゲを背中いっぱいに生やした毛虫のモグ。
アオは、穏やかな性格。ひなたぼっこが好きで、葉っぱの上でくるんと丸くなっては、風の音に耳をすませている。
モグは、無愛想で常に一人でいる。誰かが近づいてくると、ビクッと体をすくめて、トゲを立ててしまう。
「モグに当たったら痛いんだよ!」
「怖いから近づかないで!」
そんな声が聞こえるたび、モグはまた、葉っぱの陰に隠れて、小さなトゲを震わせていた。
でも、誰も知らなかった。
モグがトゲを出すのは、怖いから。誰かを傷つけたいんじゃなくて、自分が傷つくのが、なによりも怖かったから。
ある日の午後、アオは、葉っぱの上でころんと転がりながら、空を見上げていた。
「今日もいい天気だなぁ」
ふわふわと風にゆれる枝のかげで、モグはひとり、静かに葉をかじっていた。
モグは、時々ちらりとアオのほうを見て思っていた。
「いいな、あんなに楽しそうに過ごせたらどれだけいいだろう」
その時だった。
「やぁ! 一人で食べてるの?」アオが、にこっと笑って、声をかけてきた。
モグの心臓が、どくんと跳ねた。
「なに?!」モグはとっさに体を丸め、トゲを立ててしまった。
アオはぴたりと止まった。モグのトゲが、風に揺れながら光っていた。
「ご……ごめんね。びっくりさせた? でもさ、その葉っぱ、おいしそうだね」
アオはそう言ってそっと距離をとって、葉っぱの影に腰をおろした。そしてモグに背を向けて、同じように葉をかじりはじめた。
「別に近くじゃなくても、話せる距離で一緒に食べるのも悪くないね」
モグは何も言えなかった。でも、いつもより葉っぱの味が少しだけ甘く感じた。
それからモグとアオは、たまに同じ葉っぱの上で昼をすごすようになった。
アオはいつも、そっと近くにいて、でも決して近づきすぎなかった。
ある日、モグがトゲを立てなかったことがあった。アオが落とした葉っぱを、そっと拾って、手渡したのだ。
「ありがとう、モグ!」アオが笑った。
その笑顔に、モグはふしぎなあたたかさを感じた。
だけどその夜、モグはダンゴムシたちのヒソヒソ話を聞いてしまった。
「アオはきっと親譲りの綺麗な蝶になるんだろうねー」
「そりゃそうさ。あんなトゲトゲと一緒にいるなんてもったいないよな。アオまで醜い蛾になっちゃうよ」
モグは心にトゲが刺さったような痛みを感じた。
「やっぱり……僕なんかと一緒にいたら、アオまで笑われる」
「アオはみんなにいい顔してるだけなんだ。ほんとは僕のこと、怖いとか惨めだとか思ってるくせに」
翌朝。アオがいつものように声をかけてきた時、モグは言った。
「もうこっち来ないでよ。アオまで、僕みたいに思われるよ」
アオは立ち止まって、ただ静かにモグを見つめていた。
「それでも、僕はモグといたいよ」
その言葉に、モグは何も返せなかった。ただ、背中のトゲが、またゆっくりと立っていた。
季節が少しずつ変わり、モグの体にも、ほんの少しだけ変化が訪れていた。
背中のトゲが、少しずつ縮んで、触れると柔らかくなった。でも、その変化に気づいたのはアオだけだった。
「モグ、すごいね。トゲが少し減ったみたいだ」
アオは嬉しそうに言ったけれど、モグはその言葉を素直に受け入れることができなかった。
「別に……そんな、どうでもいいよ。どうせ大人になったって嫌われ者なんだから」
モグは、トゲが減ったのを心の中でこっそり喜びながらも、アオの目を見て言った。
「ねえ、アオ。もう、これでほんとのお別れだね」
アオは、驚いたように目を見開いた。
「え…どうして?」
モグは、顔をそむけて、木の幹に寄りかかる。
「だって、君はもうすぐ綺麗な蝶になる? 蝶は、僕みたいなこういう蛾とは一緒にいられない」
アオはしばらく黙っていた。その目に、少しだけ涙が浮かんでいるように見えた。
「そんなことないよ。僕は、モグと一緒にいたい。蛾とか蝶とか関係ないよ」
「うるさいよ! 一緒になんかいられないって言ってるだろ!」
モグは、声を震わせて叫んだ。そして、胸の奥がひどく痛んだ。
アオは静かに歩み寄り、モグの横に座った。
「もし、僕といたくないって思うなら、それでもいい。でも、ぼくはモグのことを、ずっと大事に思ってるよ」
モグはその言葉に、顔を向けることができなかった。アオは、モグの肩に触れて、ゆっくりと歩き出した。
「じゃあね、モグ。いつかまた、会おうね」
モグは、アオの背中が見えなくなるまで、じっとその場に立ち尽くしていた。その時、ふと気づいた。
「ありがとう、アオ」
その言葉が、やっと口から出た。でも、その声は、風にさらわれて、アオには届かなかった。
それからモグは、何度も心の中で繰り返していた。
「もし僕も蝶になれたら、どんな綺麗な蝶になるだろう」
「アオみたいに綺麗に羽を広げて、空を飛べたら、どんなに素敵だろう」
葉っぱの陰でひとり、静かに体を縮めていくモグ。
そのサナギの中で、モグは何度も夢を見た。空を飛び、みんなに愛される美しい蝶になった自分。そして、隣でアオが微笑む姿を。
「もしかしたら、僕も変われるかもしれない」
アオと過ごしたおかげで、自分も蝶になれるんじゃいかと、モグは少しだけ期待に胸を膨らませながら眠りについた。
——そして、ある日、サナギが割れた。
モグは、羽化して新しい命を感じると、緊張で胸がドキドキした。外の世界がどんなふうに映るのか、どんな羽が待っているのか。
しかし、サナギの殻を抜け出したモグが見たのは、他の蝶たちのような、綺麗で軽やかな羽ではなく、重くて暗い色の、小さい羽だった。
モグはしばらく、自分の体を見つめた。その羽は、やっぱり蛾の羽だった。
「……やっぱり、ボクは蛾だった」
心の中で、ぽつりと呟いたその言葉。モグはその場で、ゆっくりと羽を広げてみたが、飛ぶことが出来なかった。ただ、風に揺れるだけの重たい羽が、彼の心をさらに沈ませた。
「アオ、ぼくはやっぱり…」
その時ひらひらと綺麗な羽を輝かせた蝶が舞い降りた。アオだった。
「モグ、久しぶり」アオは微笑んで、モグの肩に優しく触れた。
モグは目を伏せたまま、少しだけ顔をしかめた。
「アオ……君、すごく綺麗だよ」
「ありがとう。でもねモグ、君も凄く素敵だよ」
アオはそのまま優しく言った。「成長した証だよ。僕たち、ちゃんと大人になれたんだよ。」
モグは顔を上げて、アオの言葉をじっと聞いた。
「でも、僕はやっぱり蛾になっちゃった」
「モグ、覚えてる? お互いがまだ子供だった頃。君、すごく優しくて、繊細な心を持っていたよね。君は他の誰よりも、誰かを傷つけないように、ずっと一人でいた」
モグは目を閉じて、その頃の二人を思い返していた。
「君が蛾になったからって、何も変わらないよ。君はそのままで十分素敵だし、君の心の中にある優しさこそが本当の美しさだって、僕が証明するよ」
「アオ、ありがとう。でも少し違うよ。君が美しいのは、心がそんなに美しいからなんだ。僕は、ただ臆病なだけで、人を傷つけたくなかったんじゃなくて、自分が傷つきたくなかったから、周りを傷つけてしまってたんだ。あの時だって……アオ、ごめん。君にひどいことばかり言ってしまった。ほんとうにごめん!」
「傷つきたくないのは痛みを知ってるからさ。痛みがわかるからさ。君がその気になればもっとたくさん傷つけて、もっとたくさん威張れたはずさ。でもモグはそんなことしなかった。だから一人でいたんだろ? 自分が他人を傷つけてしまうのがわかってたから、そうしないように、僕のことまで遠ざけたんだろ? さぁ、一緒に飛ぼう。人の目なんて気にしないで、一緒にみんなのところへ行こう」
モグはその言葉に答えることができなかった。アオは理解してくれているかもしれないが、モグの心にはまだ多くの恐れが残っていた。
「ごめん……アオ。でも僕は一人で夜に飛ぶことにする」
モグは静かに決心して、空を見上げた。
「わかったよ。僕は永遠にモグの友達だよ。だから、気が変わったらいつでも花の蜜でも食べに行こうね」
——月明かりの下、モグは一人で羽を広げた。暗い夜の中、モグは静かに羽ばたくと、ふと、花が一つ咲いているのを見つけた。
昼間にはなかった花が、たしかに咲いて、香りを放っている。モグはその香りを感じながら、花に近づいていった。
モグはその花のそばに羽を広げ、少し触れると、花粉が羽に優しくくっついた。そして別の花に触れると、花粉がその花に移り、花の香りが強くなった。モグは楽しくなって夢中で花粉を運んだ。
モグの羽音はその静かな夜の中で、まるで曲を奏でるように響いていた。モグが蛾として飛ぶことで、この花の命が次の世代へと繋がる手助けをしていたことに、モグは初めて気づいた。そして、今咲いているこの花たちも、かつてのモグの仲間たちが咲かせたんだということも。
モグが夜な夜な花から花へ、優雅に曲を奏でながら飛び回る生活を続けていると、やがて他の虫たちも集まるようになった。
「モグ! なんだこの花。昼間は見なかったぞ」
「僕のお母さんたちが咲かせたんだ! 夜にしか咲かない特別な花なんだよ」
「すごく綺麗だね! うん、すごいや!」
気付けば周りにはたくさんの野次馬が集まってきて、モグはすっかり気持ち良くなっていた。
その騒ぎに、すっかり眠っていたアオは目を覚まし、騒がしい方へ飛んで向かった。
「わぁ……モグ、ほんとに君なのかい?」
「アオ! 見てみなよ。この花、すごく綺麗だろ」
「あぁ、歌いながら飛ぶ君の姿もとても綺麗だったよ」
そう言ってアオはモグのステージに参加した。円を描くように飛んだり、交差しながら飛んだり、アクロバティックで優雅に飛ぶ二人。まるでショーさながらで、他の虫たちも大盛り上がりだった。
「ありがとう、アオ。君が教えてくれたから、僕は自分を信じることができたんだ」
「いいや、僕は何もしてないよ。君が自分で見つけ出したことさ」
「いや、なんと言われても僕はアオに感謝してる。今度は僕に、昼の花を案内してね」
「もちろんさ!」
こうしてこの場にいる全員が、みんなそれぞれに役割があり、それぞれ頑張って生きてるんだと改めて感じた。
今日もどこかで、それを知る特別な誰かにしか見えない美しい花が、ひっそりと咲いている。