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6-3 オーキョー

 ノーグを先頭にして廊下を左に曲がり、木製の扉を抜ける。ここも右壁に明かり取りの窓が並んでいて、部屋の奥、立派な造りの執務机に、目測が狂っているのか?。身長は多分二メートル以上ありそうな大女がいた。色白で、痩せている。顔立ちは三十代ほどに見える。女は顔を上げてこちらを見た。


「ノーグか。待ってたよ。さっき言ってたお客だね。」

「オーキョー様、ネゲイの客人となっている知恵者のマコト・ナガキ・ヤムーグ殿と、随行のアン殿です。」

「ナガキ・ヤムーグ?。本人かい?」

「そうです。」

「じゃあ、自己紹介をしておこうか。私はモルのお化けだよ。ジェーン・ドゥ・オーキョー。」


 酷い名前だ。


「ジェーン・ドゥ?。」

「そこに引っかかるとは、予想どおりだね。」


 発音に癖はあるが、英語だった。


「え?。私はマコト・ナガキ・ヤムーグ。こっちは手伝いのアン・ニムエ。あなたは、ジェーン・ドゥ?。」


 オレの口からはまだカースンの言葉が出ている。


「ニムエ?。湖の乙女?。ああ、お嬢さん、シマドの眼を使ってるね。色が特別だよ。」


 ジェーン・ドゥは英語で続けた。普通の英語の会話ではない。「未来と現在は遠回しな表現で」というカースン式の話し方を直訳したような感じだ。ウーダベーの暴発を避けるためだろう。あれ?オレの場合は?。


『マコトの場合はインプラントで常時監視してるから、私達と話す分には普通の思考、語順、そのままで問題ないわ。』


 αか、アンか、どちらの判断かはわからないが解説が入った。


 ノーグはジェーン・ドゥの発した言葉の意味がわからずに困惑した顔をしている。だがオレとニムエにはジェーン・ドゥの意図がわかった。この女は地球文化圏に縁があることを伝えようとしている。そして目の色?。義眼特有の何かを見分ける仕掛けがあるのか?。オレも英語に切り替える。


「ジェーン・ドゥ。それはあなたの本名ですか?。」

「本名でこんな名前を付ける親はいないよ。私は流刑者だよ。あっちじゃ死んでることになってるだろうから、ジェーン・ドゥだよ。ナガキ・ヤムーグ、その名前も知ってる。まあ、二百年ほど前には有名だったけど、今は違ってるかもしれない。」


 死んでることになってるからジェーン・ドゥ。ならば遺産処理も終えているオレも似たような境遇ではある。だがジョン・ドゥを名乗るつもりはないな。


「そしてあなたは流刑者?。」

「若気の至り。反政府活動。そういう話だよ。ちょっとゆっくり話もしたいね。あっちのテーブルに、並んで座ろうか。ナガキ・ヤムーグ。アンタも私に聞きたいことがありそうな顔をしてるよ。」


 ジェーン・ドゥはカースンの言葉に切り替える。


「ノーグ、悪いけどアンタの分も含めて、何か飲み物を四人分頼んできてくれない?。」

「わかりました。でもオーキョー様、どこの言葉で話しておられるのですか?。遠い国から来た人が私の知らない言葉で話しているのは聞いたことがありますが、また初めて聞くような響きです。」

「私が子供の頃に使ってた言葉だよ。久しぶりに使ってみたけど、憶えてるもんだねえ。」

「知恵者オーキョー様の知る言葉をマコト殿達も知っている。それは、秘密の話もできると?。」

「カースン語だけじゃあ言葉が足りないんだよ。そういう時はカースン以外の言葉も使わないと話ができない。ここでも、カースン語だけじゃあ足りなくなってきたら教えるよ。ナガキ・ヤムーグはもう知ってたけどね。」

「新しい知恵の言葉ですか。」

「そこまで大げさな言い方をするもんじゃないよ。だけどアンタがそう言い方をしてしまうのは、つまりカースンの言葉だけじゃあ物事を上手く言い表せないって、そういうことだからね。足りないときには、足りる方法を使うさ。それがさっきまで私がナガキ・ヤムーグ達と話してたことだ。」

「なるほど。ああ、飲み物でしたね。頼んできます。」


 オレは聞きたいこと、話してもよさそうなこと、話すべきでないこと、そんなことの分類を考えながらジェーン・ドゥが指さしたテーブルに向かう。マーリン7との通信回線は、繋がったり切れたりという状態。翻訳はアンがやっている。この部屋は半地下のような構造で、電波が悪い。だが翻訳がそれほど重要ではない状況になったのはよかった。テーブルは窓のすぐ下。椅子に座ると、電波は一応維持されている。αからも連絡が入った。


『接続が維持されていることを確認。二百年前の流刑判決についてライブラリをジェーン・ドゥで検索してもいいけど、そんな名前だと何も出ないわよ。もっと情報が欲しい。そのまま続けて。』

『ああ。ジェーン・ドゥで検索して何かが出てきたらびっくりだ。』


 ノーグは一旦部屋を出て、三人が着席する。ジェーン・ドゥの右の薬指には直径でオレの指輪の二倍ほどの大きな指輪があった。これが「三つの名前」の指輪なのだろう。ジェーン・ドゥが言った。また英語だ。


「さて、ちょっと前にナガキ・ヤムーグって話を聞いてから、もし会えたら色々聞いてみたいと思ってはいたんだ。でもまず、自分のことから話そうか。私の生まれはターク4って星系だよ。聞いたことはあるかい?。」

「初期の植民星系の一つで、移民船団は送られていますが連盟には未加入のはずです。」


 アンが答えた。


「ええと、ニムエ、アン、アンだったね。」

「そうです。アン・ニムエ。『アン』の綴りの最後には『e』をおつけ下さい。」


 ジェーン・ドゥは大笑いした。


「そのフレーズも二百年ぶりだよ。もっとかな。懐かしいね。それにしても『連盟』?。知らなかったな。そういうのも作ってたのか。その連盟の中では物資や情報のやりとりもあったのかい?。タークには、多分なかったよ。」

「距離がネックになりますから質量は限られてはいますけど。」


 再度アンが答える。オレも付け加えた。


「私はオータン10星系の生まれで地球に移住してる。今はここにいるけどね。この星は、ヤーラ359-1と呼んでいる。」

「ヤーラ359。私がここへ送られてきたときはカタログ番号しかなかったよ。『酸素と水がある恒星系へ千日分の食料を積んだ船で追放』ってね。それから二百年ほど経ってる。アンタ達は、まだそれほど時間は経ってないんだろう?。」

「ここの公転周期で半年ほどかな。」

「半年前……、ああ、あの夜か。」


 少々気まずい。


「色々聞いて想像してた筋書きが大体合ってた。衛星軌道から引っ張り込まれたんだろ。犯人はわかってる。」


 どう答えよう?。


「犯人はね、トヨンにいるよ。そんなことができるのは私の娘だ。この近くではあの娘以外にいない。色々と器用な技を持ってる。」

「器用な技?。」

「半年でどこまで気付いてるか知らないけど、ここでは『考えたことが現実になる』って、魔法みたいな現象があるんだよ。使い方次第では国が滅びる。だからここの人達はあまりそのことに触れたがらない。何かそういう現象に気付いてないかい?。」


 こちらとしても「手」が「考えたことが現実になる」ことの成果、ウーダベーの一種ではないかと推測はしていたが、今それが確認できるとは思わなかった。もっと情報が欲しい。だが丁度その時、ノーグが部屋に戻ってきた。


「飲み物を持ってきましたよ。」


 ノーグは空いている席、ジェーン・ドゥの隣に座って各員の前にトレイからカップを配った。アンはすぐに一口飲む。珍しい。スタンドアローンモードで発熱量が増えているのかもしれない。


 ウーダベーの話題を、英語なら続けていいのだろうか?。会話の中に「ウーダベー」という単語が混じれば英語であってもノーグには話題が何であるのかがわかってしまう。オレは英語のまま続ける。


「さっきの『器用な技』の話題は、ノーグが戻ってきても続けていいものですか?。」


 ジェーン・ドゥはカースン語で答えた。


「ノーグも戻ってきたし、話題を変えようか。ナガキ・ヤムーグ、蠟板は私も欲しい。何組か、余分があってもいい。注文すればいいのかな?。」

「ジェーン・ドゥって、元々の名前ではないですよね。ジェーン・ドゥ以外の呼び方を教えていただいたら、一組差し上げますよ。」


 いくら何でもジェーン・ドゥは酷い。


「もう人生の半分以上はその名前で暮らしてきてるんだけどね。」

「自分でそう名乗ることにしたというのはさっき聞きましたけど、あまりいい意味を持ってない名前ですからね。話してて気持ちが悪い。」

「エレナ・トロイア。」

「それも嘘ですね。戦争になりますよ。仮にトロイアが本当だったとしても、トロイア家で子供にエレナは絶対に名付けない。」

「適当に思いだした名前を言っただけだけど、実際、戦争になったからね。ここの言い方で一グロス年は経ってる。だからエレナ・トロイアでも間違ってはいないよ。」


 一グロス、一四四年か。一五〇年ぐらい前ということか。


「実際にそうなった?。」

「嘘じゃないよ。ノーグ、何か説明できるものはないかな?。」

「私が生まれる前の話ですけど、マコト様、本当ですよ。オーキョー様の取り合いで、カースンとムラウーが戦争になったんです。その戦争の講和条件の一つで、ネゲイの北の端でムラウーに通じる街道の途中に遺棄された町があります。国境を越えたムラウー側にもです。私も一度行ったことがあります。カースンで遺棄された町はヤダです。今は確かヤダはその少し下流で小さい村の名前になってますけど、元々は今の村の上流にあった町の名前ですよ。」


 ヤダの村の北、ヤダの人達が「夏の放牧地」と呼んでいる平原は遺棄された町だった。あそこはそうして無人になった場所だったのか。寒村の名前がそのまま大河の名前になっているのは釣り合いが悪いとは感じていたが、経緯を知れば納得できる。


「で、オーキョー様は本当はエレナ・トロイア様なんですか?」

「嘘だよ。これまでどおり、ジェーン・ドゥでいいよ。」


 彼女が本名を明かすのを嫌がっている理由はわからないが、しつこくしすぎて嫌われるのは得策ではない。単純にノーグが同席していることが理由とかなら、また聞く機会もあるだろう。


「『エレナ・トロイアでも間違ってはいない』というのは、他にも間違ってない名前があるってことですけど、仕方ないですね。特別に、ジェーン・ドゥ、あなたにも蠟板を差し上げますよ。色々教えていただきたいこともあるし。今は持ってきてませんが、今日の夕方にでもここに届けることはできます。一旦帰ってからまたここに来ようと思ったら門のところで言えばいいですか?。」

「ナガキ・ヤムーグ。入門証を書くよ。私は色々あってここを出るための手続きが面倒でね。戦争になるからね。だから私が会っていいと思った相手には入門証を渡してる。それがあればこの部屋まで来れるよ。」


 ジェーン・ドゥは立ち上がり、執務卓に戻って抽出から木札を一枚取り出した。


「今日は何日だった?。」

「ヨール王二三年六月十七日です。」


 ノーグが答えた。


「ありがとう。」


 ジェーン・ドゥは礼を言ってからペンを手に取り、記入事項を呟きな必要項目を埋めてゆく。


「ヨール王二三年六月十七日。じゃあ、有効期限は三年後の今日、二六年六月十七。所持者、『マコト・ナガキ・ヤムーグ』。」


 書き上がった木札の内容を読み直したジェーン・ドゥはノーグを呼んで連署させた。次いで二人は順番に自分の指輪に体重を掛けて木札に押しつけ、木札の出来映えを見る。


「できたよ。私は、さっきも言ったけどデージョーの神殿敷地から出る手続きが面倒でね、この木札があればこの部屋まで来れるよ。同行者は、常識の範囲内でね。二~三人までなら問題ない。ここに孔があるだろ。紐を付けて首から掛けるんだ。今は案内が付いてるけど、この木札を見えるようにぶら下げておけば、案内なしで神殿の奥まで入れる。午前中は、毎日何かとやることもあってね。午後ならゆっくり話もできるだろうよ。平日休日関係なしで、毎日そんな感じだから。」


 ジェーン・ドゥはオレ達のテーブルに戻って木札をオレに差し出した。オレも書かれている内容を見る。定型文の部分とノーグの副署は普通のペンで書かれていたが、ジェーン・ドゥが書いた日付や俺の名前は毛筆だった。


「ありがとうございます。これは、毛筆ですか?。」

「偽造防止だよ。使う人が少ないから、筆跡を真似るのもむつかしいからね。」


 まだインク、墨と呼ぶべきか?、は乾ききっていないので、木札をテーブルに置き、ジェーン・ドゥの指輪で刻まれた紋様を指さしながら尋ねた。


「ジェーン・ドゥ、今日ここに来たのは、私も『三つの名前』用の指輪を作ることも目的の一つだったんです。この紋様みたいなものですね。ノーグ師でもいい。このあと、指輪を作るところに案内していただけますか?。」


 ノーグとジェーン・ドゥの視線がオレの手に向いた。


「ああ、ノーグ、あとで案内してやって。でも確か結構なお布施を取ってなかったっけ?。」

「そうですね。幾らだったか憶えてないですけど……、あ、三角関数表、あれを使いましょう。」

「三角関数表?。」

「オーキョー様、マコト殿は八桁の三角関数表をお持ちです。」

「八桁?。ナガキ・ヤムーグ、やり過ぎだよ。世界の大きさでも測るつもりかい?。少なくともカースン中にその精度を活かせるほどの需要はないよ。」


 オレは答えた。


「ネゲイで見た四桁の表では少々さみしかったので。」


 ジェーン・ドゥは英語に切り替えた。


「十二進数は一桁あたりの情報量が十進数の二割増し、四桁なら一.二の四乗で、二.四四の……ああ、五倍ぐらいか。十進数で四桁半ぐらいの情報量になるよ。それを八桁にしたら……、あとでゆっくり計算してみなよ。」


 カースン語に戻って続ける。


「八桁なんて、初心者に熟練の職人が使い込んだ道具を渡すようなもんだよ。使いこなせない。あれ以上は必要なかったんだよ。少なくとも一四四年前は。」


 ノーグが言った。


「今現物は星読寮に置いてあります。持ってきましょうか?。」

「ノーグ。アンタから見てその出来映えはどうだった?。」

「今までの表と何ヶ所か読み比べただけですけど、合っているみたいでしたよ。」

「ちょっと現物を見てみたいね。持ってきてくれるかい?。それから、『この表で指輪のお布施には十分だ』って、一筆書こう。署名するのは現物を見てからだけどね。」


 ノーグが部屋を出ていって、ウーダベーの話題に戻る時間はあるかな?。英語で聞く。


「ノーグが来る前の話題ですけど我々が軌道から外れた件とその関連事項、続きの話はできますか?。」

「アンタも聞きたいことがあるだろうし私も聞きたいことがある。多分今日明日かかっても終わらないよ。ここに通信機の一つでも置いていけないかい?。電源が問題かねえ。」

「通信機は、検討しましょう。この部屋は半地下だからちょっと電波が弱そうですけど。」


 「虫」を使うことも考えたが、スピーカが付いていないからこちらからの音声が送れないし、ジェーン・ドゥの指摘のとおりバッテリーも問題だ。


「電波はね、ある程度意図してそう作ったんだよ。過剰かもしれないけど用心のため、っていえば、なんとなく理由はわかるだろ。多分この部屋は窓の近く以外は電波は使えないだろうね。あと、ここに来る廊下の窓の配置もね。私の視力の調整用さ。シマドの眼を使ってるお嬢さんなら気付いてたろう?。」

「ええ。なんでこんなものがここに?、って思いました。」

「あと、アンタ達がこの星に来た目的も聞きそびれてる。多分、植民惑星候補の調査あたりだろうと思ってるけどね。」

「目的は、そのとおりです。反対しますか?。」

「決めかねてるよ。自分が文明社会に戻るチャンスでもあるからね。でも心配もあるんだよ。それなりにここの生活にも愛着はあるからね。あと、さっき話しかけた『魔法みたいな』ってヤツ。あれが地球文明圏に知られたら何がどうなるか、考えたことはあるかい?。」


 オレも考えたことがある重要な話が始まりかけたが、ノーグが帰ってきた。言葉はカースン語に戻る。


「オーキョー様、これです。ご覧下さい。」


 三角関数表を受け取ったジェーン・ドゥは頁をパラパラとめくり、やはり四五度の頁で数字を見つめた。


「わかった。さっき言ってた一筆を書くよ。ノーグ、アンタも連署するだろ。」


 ジェーン・ドゥはまた立ち上がって執務机に戻った。



 次の用件は指輪の工房に行くことだった。ノーグだけではなく、ジェーン・ドゥもついてきた。歩きながら英語で話す。


「さっきのシマドの眼の調整の話で思い出した。二〇〇年もメンテナンスしてないと不都合も出てる。あと、この身長もね、多分テロメアをいじった上で二〇〇年放置したらこうなるって症例の一つだと思ってるんだけど、ナガキ・ヤムーグ、アンタのところでは、医学的処置って、どのくらいできるんだい?。」

「何をどうするにしても、最初は血液検査でしょうね。でも目の調整はともかく、身長を変えるような処置は……医学的な話ではなくて、社会生活の上で不都合はないですか?。例えば、その身長だから周囲から『オーキョー様だ』と認識されてるとか。」

「身長はね、今も伸び続けてるんだ。もう百年か二百年で、骨が体重を支えられなくなると思ってる。身長一六〇でかわいい服を着たいんじゃないよ。せめて、身長が伸びるのを止めたい。」

「アン、今回の旅行で血液検査とかそういう道具は持ってきてないよな?。」

「採血はできますけど、分析は、毒物検出しかできません。詳しい検査には検体をネゲイに持ち帰る必要があります。今採血しても、ネゲイに帰り着くまでには日数がありますから、帰りの方がいいでしょう。」

「ネゲイまでは早くても三~四日かかるけど、検体は冷凍でもするのかい?。」

「一晩で移動しますよ。夕方に採血して、冷凍は組織にあまり良くないので冷蔵状態で朝にはネゲイです。そこまではできます。」

「早いね。自動車でも持ち込んでるのかい?。」

「ええ。ここだとスピードは時速平均五十~六十キロぐらいまでで考えるべきかと思ってます。路面が悪くて。」

「それでも馬より早いさ。馬といえば、ここの生物相の変なところの話もしてみたいんだけど、時間がないな。血液検査の戻るけど、血液だけでは判別できない追加の検査とか、わかった症例に対する処置とか、色々手順は要ると思うけど、私が知ってる情報は幾らでも出すから、まずはカースンからの帰りに、私の血を持って帰ってもらえないかい?。」

「アン、そのくらいならできそうだな?。」

「ええ。ここの情報のお礼になりますし、できることはやりましょう。」


 ジェーン・ドゥなどという厭世的な名前に似合わず、彼女はとても喜んでいるように見えた。二百年ぶりに「同郷人」に会ったのだから、そうもなるだろう。


「話の中身はわかりませんが、オーキョー様がこんなに楽しそうに笑っておられるのは、久しぶりに見ました。」


 廊下を先導するノーグも言った。



 指輪の工房でも、ジェーン・ドゥは機嫌良く交渉に加わった。「三つの名前」用の指輪を作るには、普通ならそれなりに審査も必要らしいのだが、ジェーン・ドゥの推薦でそんな手順は省略された。正式には、カースンとその周辺で「三つの名前」を名乗ることができるのはデージョーが認めた者だけであるらしい。だがオレはそんなことを知らずに「春の祭礼」で「三つの名前」を名乗り、ヤダの人々は不思議な現れ方をした人物なら、としてそれをそのまま受け入れた。ネゲイではそのあたりの矛盾に気付きそうなものだが、「遠いところから」ということで無視することにしたのだろうと思う。今朝聞いた「『三つの名前』でその指輪を持ってないのは珍しい」という言葉も多分その現れだ。


 代金の交渉もジェーン・ドゥは三角関数表を材料に銅貨一枚にまで値下げさせた。ついでに、オレが持ち込んでいた指輪用図案の配置を一部修正して余白を作り、そこに簡略化されたジェーン・ドゥ・オーキョーの紋を入れることになった。アンが新しい木簡に修正された図案を清書すると、いつものように交渉相手だった職人がアンを弟子として欲しがったが、いつものように断る。完成までは三日だと言われた。「三つの名前」はそれなりに高位者が使うものだから、仕事の優先順位も上がると説明された。今日が十七日。なら、完成は二十日か。カースンからの帰りに立ち寄って、丁度いい頃合いだ。


 この図案で、後見人というわけでもないが、オレがジェーン・ドゥ・オーキョーと縁のある人間であることはわかるようになった。清書された図案を手にとってジェーン・ドゥが言う。


「これで箔付けになるよ。『デージョーのお化け』が認める『三つの名前』用の指輪というのは、久しぶりだ。」

「前回はどんな人だったんです?。」

「苦労人だったよ。馬鹿娘、エンティのおかげで政治がガタガタになってた時期に建て直しをやった宰相さ。王様からも頼まれてね。悪くない案だと思ったから許可したんだ。もうとっくに死んでるけどね。」

「そんな人と並ぶのは大変だな。」

「地位を与えたら人はその形になるんだよ。まともな人間ならね。」

「自分がまともだという自覚も怪しいし、『まとも』がどういうものかも定義できないな。」

「そこに疑念を持つのがまともな人間だよ。なら、ナガキ・ヤムーグ、あんたは合格だ。」


 二百年以上を生きている人間を相手にして、人生論で反論はできない。



 夕方の出発よりも先に蠟板を届けなければならないので、一旦モルホスの屋敷に戻った。帰着は四の鐘少し過ぎ、一五一五M。途中、道沿いの商店の品揃えなども見ながら歩いた。とりあえず欲しいのはジェーン・ドゥにもらった入門証のための紐だ。それ以外で気になったものは来週になるか?、帰る途中で買えばいい。今は紐以外では携行食になりそうなものだけを少し買う。長旅をしてくる巡礼の集まる場所なので、量も種類も豊富だった。


 モルホスの屋敷で割り当てられている客室に戻るとバース、ミナルともに仮眠中だったので音を立てないように荷物を少し整理し、ジェーン・ドゥに渡す蠟板を用意する。紙と石鹸もだ。


 デージョーを出る少し前からオレの視覚に表示されている内容に少し気になるところがあったので確かめてみる。バース達の仮眠の邪魔にならないよう、声は出さない。


『アンのバッテリーは大丈夫なのかな?。』

『電波状況が悪かったからいつ通信が切れても対応できるようにスタンドアローンモードで動かしてたんだけど、動くだけじゃなくて翻訳までやってたら消耗は大きかったわ。あの場所は小ニムエには辛いわね。』

『そういうことか。蠟板を届けるのはオレ一人でも行けるけど、随行なしで電波も悪いとなると、神殿内では会話で困りそうだな。ジェーン・ドゥと会った一番奥の方以外でも問題はあった?。』

『単純に大きな建物だからというのもあるけど、途中で何度か中継点の組み替えをしてる。夜なら絶対に気付かれないでしょうけど、明るいからやりにくかったわ。それと、ジェーン・ドゥ・オーキョーの部屋はまた別に電波遮断の仕掛けがあるわね。単純に壁の中に金属を入れておくだけでいいもの。』

『用心のために電波が届きにくいようにしてるとか、言ってたな。』

『ええ。電波のことだけで考えれば、蠟板を届けるのは暗くなり始めて、中継点に手を入れやすくなってからの方がいいわ。それまでに追加の充電もできるし。』

『出発を一時間ほど遅らせるか。その時刻の訪問が礼儀として問題なければだけど。ここからカースンまでの行程なら、出発がそのくらいずれても余裕はあるんだろ?。』

『礼儀としては問題があるかもしれないけど、余裕はあるわ。』

『決めた。今からアンは一時間充電。オレも少し休む。徒歩で一七〇〇Mデージョー到着ぐらいで動けば、五の鐘までにここに戻れるだろ。あまり礼儀知らずだと思われるのもイヤだからね。』

『じゃあ、そのように。準備するわ。電波の弱くなるところも記録してあるから、まだ明るいけど、一七〇〇Mの頃までには中継点もできるだけ組み替えておく。』



 一六二〇Mにはバース達も起きて動き出した。また神殿に行かなければならないことを伝え、カースンへの出発までの簡単な準備を頼んでからアンと一緒に歩き出す。一七〇〇M、朝と同じ門脇の案内所で通行証を見せる。


「案内は必要ですか?。」

「いや。行ったことはあるから経路はわかる。」

「なら、どうぞお通り下さい。その木札は見えるようにしておいて下さいね。」

「ありがとう。」


 視覚に重ねられている電波強度の表示を気にしながら敷地内を進んだ。午前中の電波強度記録と現時点での中継点配置を元にして、建物の見取り図に電波強度予測が重ねられている。オレ達の移動で実測値が追加されるたびに強度の色分布図も少しずつ変化した。今いる大伽藍は緑だが、ジェーン・ドゥの部屋の表示は黄色を通り越してオレンジが混ざっている。


『朝の状態なら赤色だったわ。今の中継点配置なら、多分大丈夫よ。』


 αが補足した。


 ジェーン・ドゥの部屋では蠟板や紙のセットを渡すのと合わせ、「通信機を持ち込むための準備」と称して部屋の中を歩き回った。「見たものは自動で図化できる」と説明してある。詳細はともかく、ジェーン・ドゥなら概要はわかるだろう。ジェーン・ドゥは紙よりも石鹸を喜んだ。


「紙を見るのも二百年ぶりだね。書くものは、ちょっとぐらい高くても、今の私なら幾らでも手に入るんだけどね。化学的な何かというのは、むつかしいんだよ。」

「喜んでもらえてよかった。これもネゲイで私が改良を始めたものの一つですよ。よければもう何個か置いていきますけど。」

「ああ、二~三個あれば一年保つだろ。その間にはナガキ・ヤムーグ、アンタも何回か来るだろうし。」

「ネゲイではそろそろ売り出します。もしかしたらモルにも流れてくるかも。」

「ネゲイ、他のところも、行ってみたいけどねえ。昼も言ったけど、ここを出るのは手続きが面倒なんだよ。」

「カースンからの帰りにまた顔を出します。話をしたいことなんか、こちらでも考えておきますけど、通信機も含めて、色々考えましょう。この部屋だとやはり窓の近くが通信しやすいようですが、中継機を持ち込む必要もあるかもしれません。」

「模様替えも検討か。考えておくよ。それと、今夜移動だろ?。準備もあるだろうから、今日はこの辺にしようか。」

「ええ。今後ともよろしく。」

「こちらこそ。」


 友好的な状況を構築できたのは何よりだ。ジェーン・ドゥの部屋を出て、モルホスの屋敷に帰り着いたのは五の鐘の直前だった。今日はこれから移動だが、カースンからここまで戻る前に、ジェーン・ドゥに明かすべきオレ達の情報を整理しておいた方がいいだろう。


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