5-2 エンリ
ヨール王二三年五月十六日(金)。
最近は朝夕のバギーによる「通勤」の途中でテンギ達漁業組の一団とすれ違うことが多い。その度にちょっと駐まって簡単なな情報交換をしてからそれぞれの目的地に向かう。テンギ達の人数が少なければバギーで送ることもあるし、荷物だけ先に運んでおいてやることもある。エンリと話す時間を作ることをネリに頼んだ翌日の朝は、漁業組の一行の中にエンリの姿もあった。今日はルーナとか見習い職人も含めて全部で七人いたから、バギーで送るのは無理だな。
いつものようにテンギと今日の予定などの情報交換をしてからエンリとも話す。
「ネリ様から聞きました。今日の夕方、工房か、新池か、どちらかでお話しできますよ。マコト様の都合に会わせます。」
どちらが都合いいかな?、と考えかけたところにαからアドバイスがあった。
『池がいいわ。話を上手く進めることができたら、インプラントの準備のために血液サンプルとかの基礎資料が欲しいの。今までヤダやネゲイの特定個人から血液を採ったことってなかったでしょ?。エンリ個人の健康診断以外にも、延々保留になり続けてる播種仮説の検証にも使えるわ。夕方までに漁師小屋の一つ徹底的に掃除しておくわよ。』
「エンリ、じゃあ夕方に、池の漁師小屋で。もし私が遅くなるようなら、ベティか誰かとお茶でも飲んで待っていて欲しい。」
エンリ達と別れて数分後、まだ工房へ着く前にαが指摘した。
『今日の夕方の準備のために午後にはベティを外に出すけど、出るには小舟かバギーがいるわ。適当な時刻に、掃除の指示とかそんな理由でバギーで船へ戻ってね。その時にベティも外に出させるから。』
そうだった。会合の予定が既にベティ達に伝わっていることをエンリ達は知らない。「予定を伝えたから準備を始めた」という体裁は整えておかねば。三か四の鐘あたりで、バギーでアンに動いてもらおうか。
夕方、一六三〇M。αからの情報によると、漁業組の本隊がぞろぞろとネゲイまでの道を歩き始めたとのこと。今日の当番兵も一緒だ。そろそろ工房を出よう。
またテンギ達とのすれ違いのタイミングで互いの今日の成果を報告し合う。今日の漁業組は生け簀を増やしたとのこと。オレが貸し出しているスコップはとても使いやすいと喜んでくれている。「じゃあまた」と別れて、オレとアンははエンリが待つ漁師小屋に到着した。
エンリは小屋の中でベティと一緒に待っていた。まだテンギ達と別れてから二十分ほどか。ベティによって予備会談的に、エンリのこれまでの経歴その他の情報を聞かれながら時間を過ごしていたようだ。そういう会話では当然オレ達の過去についての情報も出さなければ流れはスムーズにならないものだが、「嘘は交えず細部は曖昧」な説明が、AI達はとても上手だ。お茶とあわせてクッキーも出されており、日中に泥水を扱って汚れていた腕は、「食べる前にきれいに」とベティが勧めて蒸留水で洗浄済みだった。「やあ、待たせたね」「いえ、そうでもないですよ」などとのやりとりを経て本題に入る。
「昨日ショー殿と話をしたんだが、エンリとも船の中に入る話をしたい。ショー殿からはどのくらい聞いてる?。」
「中には色々秘密もあるからそういうものを見ても黙っておく、中には悪用できるものもあるから触らないようにしなければならない、とかの話を聞いてます。」
「そして、悪いことにも使える品物を安全に使いこなせるようになることもだな。火や包丁は使い方を知っていれば便利だけど悪いことにも使える。そういうことついて、今よりももっとたくさん知っておかないとダメなんだ。」
「使い方は、練習します。でも『うっかりしゃべる』ことがないようにとか、どうするんですか?。」
概要編はここまでだな。エンリの理解の度合いは期待できる必要水準に達している。オレは用意されていたコンテナの中から情報ゴーグルを取り出した。
「これはバギーと同じくネゲイやその周辺では使われていないものだ。まずこれから試してみよう。」
まず自分で着けてみる。インプラントが視界に重ねていた時刻などの表示は消えて、ゴーグルから表示される文字が見えるようになった。デフォルト。英語のままだ。次いであたりを見回して、OK、想定のとおり。オレはゴーグルを外してエンリに渡す。
「さっきの私のように着けてみて。」
エンリがゴーグルを受け取り、オレと同じように着けてみる。生まれて初めてのメガネだ。左右の高さが食い違っていたが、これにはすぐに気付いて自分で直した。おれのインプラントには「眼球位置測定中」などとエンリに渡したゴーグル視線の映像も入ってきている。やがてゴーグル視界全体に「NORMAL」と一瞬大きく表示されて、日付と時計だけの通常表示に戻った。
「エンリ、何が見えてる?。」
「右下に文字が見えてます。が、読めません。これはマコト様達が使ってる文字ですよね?。」
「ああ。そのとおり。文字の他にいつもと違うものは見えるかい?。」
エンリはあたりを見回し、ベティで視線を止めた。次いで自分の腰を見下ろす。
「多分ですけど、刃物だけ赤く縁取りされて見えるみたいです。でもベティさん」の右腰のものって、刃物だったんですか。知りませんでした。
小ニムエ達は外出するときに鉈を携えている。ベティの作業ベルトには左腰に鉈が吊されているほか、、右にはリボルバーのグリップが見えていた。
「怪我の元になりそうなものを教えられるようになっているんだ。赤になっているものには、触ってはいけない。触らなければならない場合は慎重に。そういう意味があることはわかるだろう?。」
「ええ。これを使えば船の中で変なところを触らずに済みそうです。簡単じゃないですか。あ?。でもこれだと見たことをうっかり外で話してしまうのはダメって、それは防げませんね。」
自分で気付いてくれたか。次の説明だ。オレは左右の手の甲を、エンリから見えやすいように差し出す。指を数回開閉して動くことを示す。
「左右で少しだけ雰囲気が違ってるのがわかるかな?。色とか、肉付き、しわの具合とか。」
生身の右手は最近の屋外での活動で少し日焼けしてきているが、義肢である左手にそんな変化はない。右手の肉付きは身体状態の変化によって朝夕でも変化するが、左手にそんな変化は起きない。エンリはオレの差し出す手の甲を見比べ、自分の手も同じように見てから答えた。
「マコト様の左手は少し雰囲気が違いますね。私の手と比べても、です。」
「何年か前に大怪我をしてね、左は元々の腕じゃないんだ。作ったものなんだよ。」
オレは左肘から先を外して袖から抜き出してテーブルに置いた。エンリは当然驚いている。何かの理由で義肢を使う人の存在は知っているかもしれないが、指が開閉する義肢など見たことがないだろう。
「こんな手は初めて見ました。指が一本ないとか、そんな人は見たことがあったんですけど、動かせるって。すごいです。」
「うん。カースン中を探したら腕が一本とか脚が一本という人もいるだろうけど、こんなものを使ってる人はいないだろうな。」
「そう思います。」
オレはベティに袖を押さえてもらって外した腕を元に戻しながら、話を続ける。
「ベティ、ありがとう。で、エンリ、この作り物の腕を動かすために、私の体の中には『危ないものを赤で縁取り』というようなことが沢山できる道具が入ってる。この道具は『腕を動かす』とか、さっき見てもらったような『赤で』とかの他に、言ってはいけないことを言おうとしたら口の動きを止める、やるべきでないことをやろうとしたら体の動きを止める、ということができる。」
「それを使うようにしないと船には入れない、だから私にもそれを使って欲しい、ということですか?。その道具は、体の中でしたっけ?。入れるって、どうやるんですか?。」
「少し切って、埋め込むんだ。痛みは、感じたとしてもちょっとだけだし、痛みを感じない薬も使う。感じとしては、お茶を一杯飲むくらいの時間で収まる。だけどその道具を入れてから最小限度の使い方ができるようになるまでは、多分朝から夕方までかかる。その間は眠っていてもらうから、時間はわからないだろうけどね。」
痛そうな話をしたから、少しメリットも出しておこう。
「秘密を守ってもらうために痛い話とか怖いかもしれない話もしたけど、この道具を使うようになったら、船の中のあちこちにある私の生まれた場所の言葉も読めるようになる。あと、船とは関係なしに、何かの動作の練習が早くなる。普通の人が何日も練習して覚える動きを、半日の練習だけでできるようになるとかね。」
反復練習の効率が高まるのは、通信機能などの改造を施される以前からインプラントの原種となった線虫が持っていた能力で、宿主を強化するものだ。線虫の生存戦略の一つである。小脳の働きを補助しているらしい。将来、オレがここを離れてエンリが残るような状況が生じたとして、インプラントの能力のうち通信に依存する部分は使えなくなるが、反復練習に関しては一生使える能力となる。
「それを使えるようになったら、最近よくやってる網の仕事とかロープの色々な結び方とか、覚えやすくなるってことですか?。」
「そうだな。そういう身体を動かす何かは、上手になるのは早くなると思う。幾つかのことはできなくなるけど、別のことは良くなるんだ。」
「できなくなるのは、悪いこと、やるべきでないことですよね。」
「悪いこととは何か?、っていう疑問は私にもあるけどね。少なくとも船の中の様子を他の人に話すことは、できなくなる。聞かれても『秘密です』とか『話してはいけないことになってるんです』とか答えることはできるけど、『入ったら右には扉があって』とか話そうとしても、口は動かない。」
「そんなことなら何も困らないじゃないですか。それでマコト様達の文字も読めるし、多分道具も使いやすくなって、網を直すのも上手になる。私はそれを使いたいです。」
「体の中に何かを入れる、っていうことで断られることを心配してたんだけどね。」
そしてもう一つ、警告を追加しておかねば。
「この道具を使ってもいいのは、船の中に入るエンリとショー殿だけにしようと思ってる。だから道具のことは、ショー殿を含めて、誰にも話をしてはいけない。まだエンリは道具を入れてないから、今は単純な口約束になってしまうけど、もし、このことが広まったら、私は全部を捨てて船でここを去る。そういうレベルの秘密だと思っていてくれ。そして、本当に、道具を入れる入れないは、よく考えて欲しい。今は、まだ話を聞いたばかりで全部のことに考えが及んでいないと思うから。」
αは今日採血まで進められる準備をしていたようだが、オレはまだ少し早いと考えていた。この流れなら、明日以降かな?。だが、エンリは予想外に乗り気だった。
「マコト様達を困らせる心配がなくなる上に、できることが増えるなら、お願いします。」
αがベティの口を使って言った。
「エンリ、あなたならそう言うと思ってたわ。マコト、採血の準備はできてる。説明は私がする?。それともあなた?。」
エンリが不思議そうな顔をする。
「サイケツ?。」
「道具を入れるための準備でね。準備のために、エンリの血が少し欲しいんだ。うーん。例えば風邪をひきやすいと皆が風邪で動けないのにか一人だけ元気だとか、そんなことがあるだろ?。それは一人ずつちょっとだけ、身体の性質が違うからだ。血を調べたら、そういう性質の違いがわかる。そうしたら、これからエンリに使ってもらう道具も、身体に入れる前に身体に合わせた調整ができる。ついでに、今、エンリが気づいていないかもしれない病気や、将来かかりやすい病気もわかる。将来の病気がわかるなら、その病気にかからないよう今のうちに準備するとかもできる。血を調べるのは便利なんだよ。」
ここでベティが割り込んだ。
「エンリ、今まで血を採ったことはないでしょ?。多分、ナイフでどばっと、とか想像してるかもしれないから言っておくわ。今ここで、まずマコトから採血するから見てて。」
「え?、オレも?」
素がでた。
「マコト、こんな状況を見越してあなたの採血スケジュールをずらしてたんです。実は今日で二日遅れてる。いいでしょ?。」
策士め。
「わかったよ。まず、私から採血する。その様子はエンリも見る。その次に、エンリがよければ、エンリの採血だな。エンリ、いいかな?。」
「血を採る理由も、まずマコト様がその様子を見せて下さることも、わかりました。私が将来かかりやすい病気を教えてくれるなら、そのようにして下さい。」
後半は笑いながらだ。いい傾向だ。
「じゃあ、ベティ。最初は私だ。採血セットは二人分あるんだろうな?。」
「もちろんよ。エンリ用には新品の針を景徳鎮で研いでおいたわ。」
これも、エンリにはわからないジョークだ。オレにもだ。まあ、陶磁器と砥石の基本的な作り方は同じだから、多分、景徳鎮でも砥石を作ったりはしただろう。
そんなことを考えている間に、ベティはコンテナからオレには見慣れている採血セットを二組取り出して机に置いた。包装に、ペンで「マコト」「エンリ」と書く。
「マコト、まずあなたから。」
ベティの指示でオレは右腕を差し出す。エンリは上腕にゴムを巻いて静脈が浮き出すのを待ち、アルコールで皮膚を拭き、注射針を刺す。エンリはその様子をじっと注視している。
針に導かれたオレの血液は試験管に流れ込む。とはいえ、数CCが出たところでベティはアルコール綿で押さえながら針を抜き、そのまま粘着テープで綿を皮膚に固定した。オレにとっては珍しくない光景だが、エンリにはそうでないだろう。エンリの視界に入っている注射器は「赤」になっているに違いない。
「採血というのは、こんな感じだよ。エンリ。痛いのは針が刺さってから止まるまで。傷口から血が漏れないように押さえてるこの綿も、大して待たずに外せるようになる。」
ベティは、オレに使った道具一式と採取した血液の試験管を包装に戻した。ずっと見ているだけだったアンが、オレ用のセットをコンテナに戻す。
「次はエンリの番よ。いい?」
エンリはオレと同じように右腕を出した。ベティが聞く。
「右でいい?。マコトは左が特別製で血を採りにくいから右だったの。利き腕じゃないほうが、後が楽だと思うわ。」
小ニムエ達の指先には超音波センサーがあるので、こういう状況での血管と針先の位置関係はリアルタイムで三次元的に把握されている。間違いは滅多に起きないのだが、医療関連の標準手順は「利き腕ではない方」からの採血を推奨している。
ベティの指摘をエンリもすぐに理解した。「わかりました」と言いながら差し出す腕を左に替える。あとは普通の手順、ゴム巻きから始まる一連の手順を、エンリは興味深そうに見ている。止血綿を固定したベティが言った。
「これはしばらくそのまま。ネゲイに帰り着く前には外していいわ。」
「わかりました。これで、今日の用事は終わりですか?。」
アンが言った。
「ベティ、口腔粘膜はどうするの?。準備はしてあったみたいだけど。」
「採血できなかった場合の予備で用意してただけよ。今はこれでいいわ。」
アンとベティの会話はαの一人芝居だ。器用だ。
「マコト、エンリの今日の用事はもう終わりだと思うけど、何かある?。」
「今日は、そうだな。おしまいにしよう。ゴーグルはベティに返してやってくれ。ネゲイまでバギーで送るよ。止血綿はバギーを降りる時に外せばいい。」




