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5-1 巡察の予告

 二週間後。ヨール王二三年五月十五日(木)。一週間を六日で計算することにも慣れてきた。


 新しい工房は生産を開始している。第一棟は当面の間、蠟板と折り畳みコンテナを製造する。どちらもハパーから八六四ずつの注文を受けていて、どちらもステンシルで「ナガキ・ヤムーグ」の文字と、図案化されたマーリン7の姿が入っている。マーリン7の紋章はともかく、レタリングされた「ナガキ・ヤムーグ」の文字は、ヤーラ359-1で初めての「メーカーロゴ」かもしれない。ここでも製造者の紋様や名前を入れることはあるが、レタリングという手法は発明されていないか普及していない。


 オレは第二棟を使わせてもらって紙の試作の日々。最初は手当たり次第に植物を繊維にしては失敗していたが、手持ちの紙を顕微鏡で細かく観察して繊維径の分布や単繊維での強度を調べ、それに合うようブレンドすることで、なんとか使えるものが作れるようになった。枯れているとわかりにくいが、紙に適しているのは、傾向として「生きているときの色が薄いもの」、播種説が正しいとすれば「地球産」に分類されるものだ。まだ谷にいた頃に調べ始めた細胞の観察で「構造が大きい」という評価になっているものは強度が足りない。テスト用に用意した木枠ではまだ掌サイズのものしか作れないので、量産化に向けてもう少し大きい器具類を準備するつもり。


 紙よりも先に作れそうと思って手を付けたパピルスは、一応、作れるようにはなった。しかし、一旦製紙の基本ができてしまうと面積あたりの手間は紙とそれほど変わらない上に耐久性では明らかに劣る。水に投げ込めば数秒でバラバラになってしまうので「敵に攻め込まれる前に処分しなければならない機密文書」とかの特殊用途でもなければ使いにくいだろう。設備は明らかにパピルスの方が簡便なのだが、オレとしては紙の方を優先にしたいと考えている。カースン全体でパピルスの需要があるかどうかは、ゴールやバースにもわからなかった。このことを相談した時には、二人は紙の有用性にばかり目が行きすぎていた可能性もある。相談の結果、紙の製造のために工房を増築することは決まったが、職人と資金の両面に問題があって話は停滞しており、今は小ニムエ達が紙とパピルスの両方を、材料配合などを変えながら細々と試験製造している。試作品の一部はゴールにも渡して、使い心地を試してもらうことにした。


 職人の住居として用意したうちの一棟はノルンが移ってきた。「これで結婚できます」と喜んでいる。住居のうち一つはまだ空いているので、工房関係者の休憩室代わりになっている。


 テンギはモルから自分の妻で引退した網職人のマオを連れて、再びネゲイに現れた。手伝いがいれば、漁業関連の木工はテンギにできる。網に代表される「柔らかい」漁具関連もテンギにもできなくはなかったらしいが、時間のかかる手作業になるので、一番自分が気安く物事を頼める人間としては、そういう人選になったらしい。やや老眼も始まっている二人だが、指先の感覚だけでも目の揃った網を編めるのは大したものだと思う。


 モルから来た漁業指導組、テンギとマオは、領主館の長屋に二人で住み始めている。木工はネゲイでも基礎のできている者は幾らでもいて、ヒーチャンやブングなど、材料や加工をやっている連中の伝手で何人かの弟子達が集まった。小舟や桟橋など常時水に接している木製品の作り方について、今までネゲイではあまり知られていなかった技術を学んでいる。網の方は、漁業に縁のなかったネゲイでは今まで作られたことのない製品なのでオレとしては人の集まり具合を心配はしていたのだが、織物紡績関連の職人達からの縁者を中心に何人かの弟子が集まった。そのうちの一人は「羊組の新しい親分」になっていたはずのエンリの妹、ルーナで、羊飼いの仕事はどうするのかと聞いたら「ヤダの中で上手く回るようソルが考えてくれている」とのこと。以前からヤダでは羊の担当を増員することを考えていたとも聞いているから、オレとしても、適当な人員がいて、ソルが困らない、ヤダが困らないならいいかと思っている。ルーナは、同じように町の外から来た娘達三人組で、今のところは長屋の中のテンギ達の部屋に住み込みだそうだ。


 テンギがマオを連れてネゲイに戻ってからのエンリは、週に五日の領主館勤務のうち一日を漁業実習に充てるようになった。既に小舟の扱いはできるようになっていたので、最初は網の扱いと小エビが取れやすい場所を教わるところから始めている。エンリの仕事内容は今後徐々に漁業へ移行してゆくことになるのだろう。


 新池の近辺には網で仕切られた生け簀が何ヶ所か設けられた。水位が変動しても対応できるよう、生け簀はロープで地表の杭につながれ、フロートで上下するようになっている。テンギ達は、新池で殖やすべく、モルから数種類の稚エビの桶も持ち込んでいて、今の生け簀は稚エビ達の養殖池になっている。「ネゲイで育ちやすいのがどの種類か見たいんですよ」と、テンギは言う。「種類によって罠を置く場所とかも変わりますからね」。主力となる品種が決まったら、今の生け簀も拡張なり移動なりするという。泥を出させるためには少しでも流速があるほうがいいとか、流速のないところで少し育ててから泥を出させるとか、品種によって適したやりかたがあるのだとか。このあたりの知識はオレには憶えきれないが、ニムエ達は整理してくれている。


 避雷針があったほうがいいと思って工房に建てた旗竿には、今は何も掲げられていない。官営工房でもあるのでネゲイの紋章を入れた旗とかを考えていたのだが、地面からの高さで見ると領主館の旗竿よりも高く作ってしまったので、釣り合い上、都合が悪くなってしまった。これは領主館の旗竿をもっと高いものに交換する予定となっている。その時には新しい旗竿も避雷針と兼用にできるようにするつもりだ。


 マーリン7への落雷対策は、まだできていない。避雷針を船体に付けても接地導線を船内に通すのは危ないし、船外で塔を建てるには適当な場所がない。それに池の周りに恒久的なものを作りすぎると、マーリン7の上陸や、いつか来る離陸の時に障害になってしまう。このため、対策方法としては一時的な通信遮断しか今のところは方法を決め切れていないので、雷雲が近づいてきたらマーリン7に帰らなければならない。これからの季節は注意が必要だと思う。天候の変化につながりそうな雲の動きは常時ガンマから観測しているので、それほど慌てる事態は少ないだろうが。


 小舟が常備されるようになって、深夜にマーリン7へ忍び込もうとする者も現れた。夜に松明もなしでネゲイから湿地帯を横断してくるのは危ないので、昼のうちに湿地帯のどこかに隠れ家を作っていたらしい。しかし日没後、気温が下がってくれば赤外線で位置はまるわかりだ。深夜になって連中は小舟でマーリン7に近づいてきたが、係留しているバギーも含めて斥力場の壁を作ってあるので、船に触ることもできなかった。繰り返されるようなら捕縛することも考えたが、少なくとも最初の二人組はその夜しか現れなかった。赤外線だが人相は記録してある。今後オレや「虫」、小ニムエ達の視界に入ってきたら警告表示がでるようになっている。



 そして今日、五月十五日、新しい動きがあった。毎年五月末から六月上旬の時期に来訪する定例の巡察について、バース宛に、カースンからの予告が届いたのだ。領主館内での会話を聞き続けているαによると、天候次第で行程が前後しやすいこともあって正確な日時までは記されていないが、巡察使がエンゾ・ノールという名前であることはわかった。カースンで働く第五位階の誰か。ノールという家名は、カースンの東端、ハマサックとの国境に近いヨーベの出身だろうとはバースの推測だ。


「『ノール』って家は多分ヨーベあたりにあったと思うんだけど、新人かな?。いつものように『海岸』派閥系だよね。『エンゾ・ノール』って言われたらわからないんだよねぇ。」

「去年の巡察以来一番大きな変化はマコト・ナガキ・ヤムーグ殿で、先月のタラン・モル殿の報告も届いてるだろうから、マコト殿にも巡察が来ることは言っておくべきだろうな。」

「なら、今日の夕方にでもエンリかネリに行かせようかねぇ。」


 と、こんな会話が行われていた。カースン国内での政治的派閥は幾種類もあるが、わかりやすいのは海岸と内陸のようだ。今は三の鐘の少し前の一一二七Mで、オレは工房の第二棟で紙漉工程の改良に向けて大判の木枠の組み立て途中。目標サイズはオレが個人的に最も使いやすいと感じているA4を作りやすくするためのA2級。これがオレよりも少し小柄な体格で扱える最小サイズではないかと思っている。組み上がったら実際に紙を漉いてみて、使い心地とか仕上がり具合をチェックする予定。エンリかネリが夕方に来ることになりそうだが、その頃には初回の評価もできているだろう。今の季節、日照時間とか気温とか、漉き終わった紙を天日乾燥させるのにいい具合の気候だ。



「マコト殿はこちらですか?。」


 一六〇三M、ネリが訪ねてきた。オレは乾燥を終えて回収したA2の端部を切り落として、出来映えに喜んでいる最中だった。


「ショー殿。ここにいるよ。入ってきてくれ。エリス。お茶を頼めるかな。」


 ネリを迎える。エリスは作業台の上に二人分のカリガンを置いた。


「えぇと、今日の用件は、まだ日はわからないですが近いうちにカースンから巡察が来るというお知らせです。」


 概要はもう知っているが、細かい部分の話などは補足を受けておきたい。


「巡察?。前に聞いたことがあるな。毎年今の時期にカースンから誰かが見回りに来るってヤツだったかな?。」

「そうです。最近のネゲイでの大きな動きといえマコト殿に関することが一番ですから、この工房やマコト殿の船を含めて、巡察使に見ていただくことになるかと思います。」


 工房を見せることに困ることはないが、マーリン7も対象か。外からだけなら構わないが、中は構う。


「船も見る?。外からなら構わないけど中は困るな。何度も言ってるけど、危ないから触って欲しくないものが一杯あるんだ。知ってしまえば、絶対に外で話をして欲しくないものもある。だから婚約者たるショー殿やエンリでもまだ中には入れていないんだ。」

「ええ。一応、これは父から言っておくよう頼まれたので言いましたが、外はともかく、中はダメだろうとは思ってました。父も、『聞くだけだ』って言ってましたし。」

「何しろ、中はまだダメなんだ。そのうちにショー殿やエンリは中に入ることもあるだろうけど、そこで困ったことが起きないようにする方法を、まだ考えてる最中だ。」


 事故防止と機密保全のために少なくともインプラントは必須で、インプラントの定着と最小限の初期設定にはαが管理する状況下での数時間が必要だ。この数時間をどうやって作るか、そこで悩んでいる。


「他の人はともかく、私やエンリなら『絶対にここには触らない』『中のことを人に話さない』って約束して、そのとおりにはできると思いますけど。」

「うっかり話してしまうこともある。知らなければ、話すこともできないから面倒なことは起きない。本当に『知ってしまえば後戻りできない』というヤツだ。そういう話は、聞いたことはないかな?。」

「エンティ王妃の使用人が酒場で愚痴をこぼしていたのを聞いた人から噂が広がって……って、そんな話がありましたね。でも、それは悪いことをしてたのが知られたからで、マコト殿は悪いことをしているのですか?。」


 逸話の多い王妃様だな。使用人が嘆くような贅沢三昧とか、そんな話だろうな。王妃の逸話にも興味はあるが、ネリの質問には答えなければ。


「悪いことをやっているつもり、やるつもりもないが、悪いことにも使えるもの、悪いことにも使える知恵とかはあるということだよ。『船の中でこんな珍しいものを見た』って、誰かに話したくなってしまうようなものがあって、それを聞いた誰かはそれを悪いことに使う方法を思いついてしまうかもしれない。そういことにならないよう、色々考えながら作るものを選んでるんだ。蠟板も、悪いことを考えて書き留めることはできる。でもそれはまだ今まで木簡でやってきたことが少し変わるだけだ。私が知っている色々な事柄の中には今までと全然違うやり方で物事を進める方法もある。今でも、ネゲイの職人が不足気味だろう?。もし私が自分の知っているものを考えなしに全部出したら大混乱になる。そんなことにならないよう、できるだけ船の中のことは知らせたくないんだ。」


 ネリは少し考えて答えた。


「そうなると、私やエンリも中には入るべきではないですね。」


「最初はそのつもりだったよ。でも結婚するなら条件を変えて考える必要がある。それこそ『知ってしまえば後戻りできない』というヤツだ。これがどういう意味なのかは、本当に、知ってしまえば実感できると思う。多分、知れば考え方が色々変わる。そこまでの覚悟ができたなら、ショー殿もエンリも、船の中に迎えよう。これは、エンリにも話しておかないといけないな。今、ショー殿とこの話をして自分でも考えが整理できたよ。エンリにも、同じ話をしないといけないな。」


 またネリも少し間を置いて答える。


「多分、エンリの方が先に船に入ることになると思ってます。私の『覚悟』は、船に入った後のエンリの話も聞いてからにできるかもしれませんが、知りたい、という気持ちはあります。それに、エンリがマコト殿のコビンになるのはエンリが決めたことじゃないですけど、私がマコト殿と結婚するのは私が望んだことですから、逃げませんよ。今日か明日、エンリにも、時間ができたらマコト殿の話を聞きに行くように伝えます。」


 以前にも感じたことはあるが、ネリにはノブレス・オブリージュの考え方が浸み込んでいる。彼女の不幸につながらないなら、悪い性格傾向ではない。そしてここまでの話の中では少し脅しすぎたかもしれないと思いながらも答える。


「知ってしまえば後戻りできない。だから、前に進む前に言っておくべきだと思って警告はしたけど、知ってしまえば、知っておいてよかったと、感じてくれるだろうとは思ってる。そして、知ってしまえば、なぜ私が知恵を広めすぎることに慎重なのかも、より深く理解できると思う。エンリにも、『時間のあるときでいいから』って、伝えてくれるよう頼むよ。あと、このあたりの話は、ショー殿とエンリだけで頼む。ゴール殿やバース様を信用していないわけじゃない。『うっかり話してしまう』ことが怖いんだ。」


 話を終えたネリはエリスが運転するバギーで領主館に戻った。エンリに話をすることは決まったが、話の順序などはよく考えておかねばな。


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