4-14 CL(墜落暦)一一五日:デルタ
CL(墜落暦)一一五日。ヨール王二三年四月十三日(水)。
今日ネゲイでやるべき予定や約束はない。
デルタのための蒸留水は、昨晩必要量に達した。今日の午後から夜半にかけて小雨の予報。なら夜を待って、雨の状況次第でデルタを出せるように準備をしよう。
ルーナは、意外にもおとなしく状況を受け入れたらしい。「お姉ちゃんを困らせないように頑張る。」「魚の仕事も手伝いたい。」などなど。本心はさみしいのだろうが。
クララが飲むふりをして採取していたカリガンと、午後の酒(よくわからないが三種類ほどあった)の成分分析も出てきた。カリガンは「微量物質」の濃度が高い。テコーの配達に茶葉の飲み比べセットでも入れてもらおうか。次の配達は今日か明日だったはずだ。そのときに注文しよう。
ゴールが説明してくれた結婚に関する習慣などは、それほどむつかしいものでもなかった。成人すればほぼ全員が通る道だから、地球での習慣と全く違うようなややこしいものはない。
正妻となる、或いは、正妻を娶れるのは男女ともに十八歳から。十八という数字は、一.五ダースという感覚のようだ。ちなみにネリが働き始めた十五歳というのも、十二進数と相性がいい三の倍数で、男女ともに第二次性徴を迎えて大人になっているということで選ばれた成人年齢だった。なお、ヤダでの「祭礼」のときにソルからも聞いているが、飲酒についての年齢制限はない。
コビンは、男女ともに年齢制限はない。養えるか、養えないか、双方が同意しているか、その程度の基準で、書類上の手続きもない。ネリが母と同じく「ショー」を名乗っていたのもこのためで、法的に領主とネリに親子関係は存在しないことになっているが、だからといって自分のコビンとその子供をないがしろにすることは社会的な非難を受けるので、ドーラやネリは、正妻とその子に劣らないレベルで、領主であるバースの庇護を受けている。領主クラスになると、コビンとその子を粗末に扱えば、領民が言うことを聞かなくなるのだとか。
エンリがオレのコビンとなる前に通るゴールの養女となるという過程については、昨日の会合でも話は出たが、ゴール側でゴールよりも上位の、エンリの側でもエンリより上位の証人の連署を添えて領主に届け出るとのこと。バーサとソルが、その証人になるだろう。
エンリは、ゴールの養女になったら家名がついてエンリ・ゴールを名乗るようになる。その後オレのところに来ても、コビンなので名前は変わらない。今まで村の羊飼いとして暮らしてきたエンリは指輪を持っていなかったので、ゴールの養女となったらエンリ・ゴールの名前で新しく指輪を作ることになる。この指輪はエンリがオレのコビンとなってもそのま使い続ける。この指輪の他に、エンリにもネリの右中指と同じ、ネゲイの紋が入った指輪も渡される、とゴールは言っていた。
ネリは、今は「ネリ・ショー」の指輪を使っているが、オレの正妻となれば「ネリ・ナガキ」か、「ネリ・ヤムーグ」か、「ネリ・ナガキ・ヤムーグ」の指輪を作ることになる。「ネリ・ナガキ・ヤムーグ」は型がないから云々の話をすると、ゴールは自分もそのあたりは詳しくないから指輪の職人か、博覧強記なベンジーのグレンに聞くべきだろうなと言った。
正式には、今の「ネリ・ショー」の指輪は新しい指輪の材料として鋳潰される、らしいいのだが、新しい指輪ができるまでの数日間、結婚直後で色々な手続きも多い時期に指輪なしは不便なので、新しい指輪は事前に作っておき、古い指輪は新しい指輪が届いたら記念に大事にしまっておく、という例も多いらしい。
「ヨーサ様はそれで何度か困って、儂が結婚する時にはダール、あ、儂の妻だ、ダールには『指輪は潰すな』って言ってたよ。ネリは、あのインクいらずのペンがあれば指輪は潰してもいいかもな」。
ゴールの弁だ。今のネリの指輪を潰して欲しくはない気はする。いつになるかわからないが、オレが去って、その時ネリが残ったら、彼女には必要だろう。
ネリにもエンリにも、ボールペンぐらいは渡せるが、あのインクはどのくらい保つものだろう?。書いた文字が何年か経って紫外線劣化で薄くなっているのは見たことがある。昨日思いついた万年筆計画は、ネリを迎え入れる頃には少なくとも試作品ぐらいにはたどり着いているはずだ。あれなら、ここの材料で作った色褪せしないインクを入れても使えると思う。
コビンを迎えるには、書類手続きなどはない。派手にやっても、知人達を集めて「今日からよろしく」の食事会を開く程度。だが今の領主、バースがコビンのドーラを迎えた時には、領主館の中庭で、領民の誰もが入れる大宴会をやったそうだ。これにより、ドーラは領内で軽んじられる心配もなく、今も領主の補佐ができているという。
「正妻のドーラ様を迎える時はその時以上に豪勢にやらねばならんかったからな。ネゲイの町中だけで足りなくて、領内で料理の上手な者を集めるのは大変だった。」
これもゴール。
正妻を迎えるときは、地球とも似ている。ネゲイなら、ベンジーで儀式を受け、ベンジーか町の中で、関係者を集めた宴席を設ける。
「あまり派手にやるとタタン様が結婚する時にその上を求められるから、ちょっと抑え気味にはしたい。」
と、これもゴール。ネリの了解があれば、と条件付きで了解。
正妻を迎える書類仕事の話になって、ゴールは困った顔になった。
「『どこに住んでる誰かと、どこに住んでる誰かが結婚する』と書いて告示するのと、その写しを結婚する二人に渡すんだが、マコト殿、あの池のあたり、いままで『山裾』とか『沼の原っぱ』としか呼んでなかった。町中なら『職人町北四番通りの六』とかあるんだが、『原っぱのマコト・ナガキ・ヤムーグ』はちょっとどうかと思う。これはネリに考えさせよう。あのあたりの地名をきちんと整理させる。あいつが言い出したことだから、ちょっとは苦労させてやる。」
困った顔をしていたはずのゴールは楽しそうに笑っていた。
一〇二〇M。αを相手に昨日の情報整理を終えた頃、テコーの店からの第二回配達が近づいているとわかったので、マーリン7を岸に移動させる。テコーの息子、ナーブが一人で背負い籠姿で歩いてきた。今日のオレ当番は見た顔だが名前は知らない。あとで聞いてみよう。ナーブは先日オレが届けた通行証を見張りに見せ、接岸したマーリン7のスロープに歩み寄る。
「マコト様、昨日の話、聞きましたよ。おめでとうございます。」
「やっぱり町中で話は回ってるか。ナーブ、その話を聞いたのはいつ?。」
「今朝、二の鐘で店を開けてすぐですね。ここに来るのに店を出ようとしたところでお客さんから、『ナーブちょっと聞いたぁ?。その格好、これから池の方へ行くんでしょうぉ。あの池に住んでるっていう人ねぇ、昨日こんな話きいたのよぉ』って感じです。お祝いで、お酒の小樽を一つ足しておきましたよ。これは配達とは関係ない、マコト様の知り合いからのお祝いということで。」
ネゲイの住人の多くが顔を知っている領主の娘が結婚するのだから、噂話の足も速いだろう。
「ありがとう。昨日はいきなりそういう申し出があったんで、こっちも驚いたよ。」
「そのお客さん言ってましたよ『あのお嬢さんを狙ってた若い衆が悔しがってた』って。誰が悔しがってたか聞いたら、そのお客さんの息子だったんですけどね。僕よりちょっと歳上かな?。そのお客さんと二人で『そんな縁組みあるわけないだろ』って笑ってましたけどね。」
「ははは。そういう人もいただろうな。ところで、今日の配達は何を持ってきてくれたかな?。」
ナーブは籠の中身をオレのコンテナに移しながら一つずつ皮を剥いて焼いたらいいとか、切って水にさらしてアク抜きをしてからとか説明してくれた。横に立っていたダイアナが、うまく調理してくれるだろう。
「次に来る時、お茶を持ってきてくれるかな?。」
「お茶ですか。色々種類がありますよ。」
「昨日、カリガンというのを飲んだらなかなかよかった。で、色々な種類を試してみたくなったんだ。飲み比べができるように色々な種類をちょっとずつとか、できるかな。」
「わかりました。ウチの店でも何種類か置いてますから、次回に持ってきますよ。淹れ方も、聞いておきます。種類によって、沸騰してからとか沸騰する直前でとかありますからね。」
「頼むよ。このまえの料金のうちでいいから。」
「わかりました。ではまた今度。」
午前の残りは、エンリとネリが来た時のために、標本の片付けでもしようか。まだ早いか。浮かれてるな。オレ。
思い返すと、冬眠中を除いた主観時間だけでも一年近く、AIとしか会話していなかった。βやγのように、元は同じなのに別人格の如く振る舞うAIもいたが、ここに来て、この十日ほど、ヤダの春の祭礼から今日まで僅か十日ほどしか経っていないというのに、顔と名前が一致するだけでも十人以上の新しい人々と会話をしている。これが、楽しい。死んでもいい気分で「機構」の求人に応募したのは主観時間で三年ちょっと前か。あの頃に比べたら、この心境の変化はなんだ。自分がこんな気分になる日がくるとは、三年前の自分なら信じなかっただろう。ネゲイを拠点にカースンを巡り、地球文明の知恵を過剰にならない程度に広める。オレを送り出した「機構」が求めるのは地球文明圏での余剰人口を移住させる先の確保。採算が合うなら交易の確立。どちらの目標もマコト・ナガキ・ヤムーグが、ここでそれなりに高位の権力者に近づかなければ達成できない。ネゲイは、意外なほどあっけなくオレを受け入れてくれた。次はモル、或いはカースンだ。ネゲイで今のような活動を続けていれば、こちらから訪問する、或いは訪問者を受け入れる機会もあるあろう。「妻」も得ることになった。彼女達の期待も裏切らないようにしないといけない。
いかん。思いの外気分が高揚していて思考が暴走しかけている。理想を高く持つのはいいが、手順は、一つずつ、確実に、進めよう。
ヤダ谷で採集した標本は、整理しきれないまま使っていなかった乗員居住区画に置いてあったはずだったが、行ってみると、既にヤダ谷分の片付けは終わっていた。ヤダ谷標本の隣の部屋で、この池近辺の標本を整理しようとしていたのだが、それも含めて一室に並べ直されている。昨日のうちに小ニムエが頑張ったらしい。ならばここは完了。
マーリン7は乗員が途中で冬眠することを前提に設計されているので、オレが普段の居室に使っているルームAを含め、ベッドというものがない。睡眠は、冬眠用を兼ねたタンクの中だ。狭いタンクでは寝返りがしにくい、という欠点は、これも乗員全員がインプラントを入れているという前提なので問題にならない。寝返りは、タンクの中だけで収まるようにインプラントが制禦している。だがこれは妻を迎えるには不適な構造だ。ベッドを購入しなけばならないかもしれない。ベッドと寝具一式で、どのくらいかかるだろうか?。現金は、現時点ではハパーに売った方位磁針の代金の残りしかないが、契約済みの蠟板と、これから具体化するそのライセンス料があれば……、ライセンス料といえば、万年筆の話があった。今朝聞いた話では、午後から天気は下り坂らしいが、今日行ってもいいものだろうか?。そういえば、ゴールなど、ある程度以上の地位の人間に会うには予約とかあって然るべきだが、いままでそういう手続きを踏んだことがない。「当番」の誰かが先触れとして走ってくれている。正しい作法を聞いておかねば。
昼食の頃、βが連絡してきた。
「マコト兄さん、婚約おめでとうございます。二人だからもう一回おめでとうございます。私を捨てて他の女のところに行っちゃうのね。むきぃーっ!。」
βはそんなことを言いながら上空を通り過ぎて行った。ガンマを中継させればもっと早くメッセージも送れたはずだが「大事なことだから直接言いたかった」らしい。
一緒に送られてきた低軌道からの雲の写真を確認したαによると、朝に聞いたよりも雨が強そうな予報に変わっていたので、迷っていた万年筆のためのネゲイ訪問は延期することにした。
雨といえば、見張り君にも警告しておいた方がいいだろう。マーリン7を接岸させる。
「ベン、もうすぐ雨が降り始める。結構強くなりそうだ。雨よけになりそうなもの、何か持ってるかい?。」
「そうなんですか?。いつ降ってもおかしくない気はしてましたが、マコト殿は雨の降り方までわかるんですか?。」
「まあ、ある程度はね。雲の動きを、ずっと見てるんだ。」
ベンには想像できないほどの広範囲の雲だが。
「いいですね。私も教えてもらったことはあるんですが、風向きと雲の形と、まとめて考えるのが大変で、なかなか当たらないです。あ、雨が降った時の準備ですが、安物ですが、上に羽織るものは持ってます。」
ベンが足下に置いていた背嚢から取り出したのは、本当に安物らしい薄っぺらな毛織だった。小雨なら弾くが、本降りになったら中まで水が通ってしまうだろう。
「多分それじゃあ無理なくらいの降り方になると思うよ。雨が降りそうだから見物人もいないし、雨が降りそうだから私も今日はネゲイまで行こうとも思わない。降り始める前に、帰った方がいいぞ。」
「そうですか。でもあまり早く帰るとゴール様になんか言われそうだなあ。」
「何か言われたら、私が『雨が降りそうだから帰れ』って言ったと、ゴールに言えばいい。今度ゴールに会った時にも言っておくから。私の警備で動いてくれている人が、その仕事のせいで風邪でも引いたら私も面白くない。」
「そうですか。じゃあ、片付けを始めますね。」
人目がなくなれば、デルタの分離を早められる。
当初考えていたデルタの分離は日没後一時間以上経った雨の夜、というものだったが、ベンが去り、赤外線監視に何もかからなくなれば、少し薄暗い程度でも作業は始められる。
「α。準備状況は?。」
「デルタへの注水は完了。天候は、この場所での降雨のピークは一七〇〇Mから一八〇〇M頃。地形追従飛行のための立体地図も準備できてる。特にこの経度あたりは、メッシュ十五センチまで精度を上げてあるわ。バギーを出したあと、係留するためのロープも準備済みよ。監視用の『虫』達はまだ上げてない。」
地形データの精度に偏りがあるのは七-十九時軌道を避けるために微調整を行うたび、必ずこのあたりの上空を通るようにし続けた結果だ。
デルタは離陸後しばらく、稜線を超えてムラウー領内に入るまでは低空で地形追従飛行を行うので、風切り音が地上に届く。その距離では斥力場も地表に何か痕跡を残すかもしれないし、木々を揺らす程度のことはするだろうから、経路近辺に人がいれば避けたい。その監視のためには「虫」が最適、とはいえ、稼働中の「虫」達はヤダとネゲイのあちこちで情報収集中なので、一時的に配置を変えなければならない。
「ゴールとヨーサの執務室以外の『虫』は全部デルタの予定経路監視に上げる。配置完了まで、ええと、二時間ぐらいか。結構時間がかかるな。早く始めて正解だった。」
「移動だけなら一時間半ほどだけど、建物内の『虫』が気づかれないように外に出るには、追加で三十分ぐらいは必要ね。今から始めるとして、余裕を見て、船倉を開くのは一五三〇M頃でいいかしら。」
「一五三〇Mなら、人目がない状態が続けば、明るいうちにバギーを降ろせるな。そのあとは、日没後にデルタを離陸させる。あれ?、それなら『虫』を動かすのはもうちょっと後でもよかったか?。」
「雨で視界は悪くなるでしょうけど、この池周辺半径一キロぐらいは完全無人にしておきたいわ。余裕があるならその監視に回しましょ。」
「よし。そのプランで。『虫』達の移動を開始。」
「虫」達の現在位置を表示しているモニタを眺めながら一時間弱が経過。ヤダの北、ムラウーから南下して来る街道で巨大ムカデに荷車を牽かせている一団を見つけた。もうすぐ雨が降り始めるので、今日中には、今の位置からそれほど離れることはできないだろう。ヤダを経由してネゲイに向かうのだろうか。デルタの予定経路は「通りやすそうな地形」で組んであるので、通りやすい地形のところに建設されている街道とは付かず離れずの関係にある。
「あの街道は通商に使ってるとは聞いてたけど、タイミングが悪いな。α。あの隊商を迂回できる?。」
「計算中……。こんな感じかしらね。別の『虫』を送って、新しい経路近くに別の誰かがいないか、確認させなきゃいけないけど」
モニタに新しい線が追加された。隊商が休んでいる場所から街道沿いに三キロほど南に下った場所から別の谷筋へ入り、隊商の一キロほど北で元の経路に戻っている。山を挟んでいるのでおそらく音は聞こえない。別のモニタでは新しい経路の高低差を示す縦断図が表示された。「手」対策のために仮設定している高度上限も超えていない。
「隊商の現在位置をもう少し下ったところに野営地らしい場所があるわ。現在位置と野営地のどちらも避けれるように組んでみました。」
「OK。連中の監視に一匹、新しい経路のチェックに一匹。」
「わかったわ。配置の修正で、全体工程を十五分ほど後ろにずらすわね。」
別のモニタにあった全体進行表のバーチャートが、新旧の二段表示に変わった。しばらくは、状況の変化を確認しながら必要に応じた手順の組み替えを考え続けなければならない。




