3-10 火
CL(墜落暦)一〇七日朝は、最初にスタイラスとスプリットリングを紐で結んでから蠟板の使用感をチェック。二組ともに、蠟板としては問題なし。やはり作り方に慣れが出てきた二組目の方が工作精度としてはいいようで、こちらをゴール用とする。ゴール用に決めた蠟板は恒温槽で蠟をもう一度融かしておいた。自分用の方は、αの勧めに応じて適当な傷や泥汚れなどを付け、当面の自分のメモ用として使うことにする。これに書いた内容はオレの視覚を通じてαも記録するので、歴史上最も高性能な蠟板ができたことになる。さしあたっては、ゴールやソル、エンリ達に聞きたいことリストを、これでまとめよう。
ネゲイからの先触れは午前の終わり頃にヤダに到着した。話を聞いたソルはエンリ達を呼び、オレに予定を伝えるよう命じた。遅い出発になるが、予定を伝えるだけなら明るいうちに帰ってこれるとして、姉妹は軽装でヤダを出発した。最短で、一三三〇M頃、遅くとも一四〇〇M頃には、ここまで来れるだろう。どんな風に二人を迎えようか。
また屋外用のテーブルと椅子を出し、ダイアナをお伴にコーヒーを飲みながら蠟板に思いついたことを書き連ねる、という体を取りながら二人を待った。椅子は全部で四脚出している。ダイアナはオレの斜め向かいに座っている。インプラントで「虫」の報せをチェック。あの姉妹、全速力で走ってるな。イヤ、ルーナが先走って、エンリがそれに追いつこうと頑張っている感じか。最短一三三〇Mとか思っていたが、もっと早くここまで着きそうだ。
ルーナが、街道の崩れている端に杭で結ばれたロープを伝い、一気に谷底まで滑り降りてきた。そのままこちらに駆け出す。エンリは、ルーナがロープから手を離した後、ここまで来れば安心という雰囲気でロープをゆっくり降り始めた。
「マコトさーん!。」
ルーナが叫ぶ。オレも立ち上がって声の方を向き、
「ルーナ!。エンリもよく来た!。今日は何かな?。街道の予定がわかった?。」
ルーナは息を切らせながら答える。
「そうなの!。明日!あれ?明後日?。」
足を止めて振り返る。
「お姉ちゃん!明後日だっけ?。」
ロープの下まで降りたエンリが叫び返す。
「明後日よお!。補修の人たちは明後日の昼前にここまで来る!。」
ルーナはオレに向き直って叫ぶ。
「明後日補修の人たちがここに来るー!。」
エンリは頼りになるが、ルーナはダメダメだ。ソルの気持ちがわかる。
ルーナは歩いてくるエンリを待ち、エンリが追いついたところでまた走って俺のところまで来た。エンリは自分のペースで歩き続けている。
「何その真っ黒なの?。おいしい?。」
オレのカップの底に残っていたコーヒーのことを尋ねる。
「オレは好きだけど、ルーナには不味いかも。」
「試してみないとわからない!。」
オレが止める暇もなく、ルーナはカップの底のコーヒーを飲み干して「うへぇ」な顔をした。
追いついてきたエンリが「何してるの?。ダメでしょ!。」などとルーナを叱っている。
「マコトの食べ物はパンとか『ポン』とか、何でも美味しいと思ってたんだもん。」
「そうじゃないものもあるわよ。当たり前でしょ。」
二人をなだめる。
「まあ座ってくれ。折角来てくれたから、新しいお茶を用意しよう。ダイアナ、三人分、頼む。」
姉妹は席に着き、ダイアナは立ち上がる。コーヒー事件は予定外だったが、新しいお茶三人分は予定のとおり。
「で、街道補修が明後日からって言ってたっけ?。」
エンリが答えた。
「明日、ネゲイを出てヤダまで来るって。人だけなら明日中にここまで来れるけど、荷物もあるから多分明日はここまで来れずにヤダに泊まるだろうって聞いたわ。で、明後日の早い時間にヤダを出て、昼頃にここに着いて、多分夕方までには終わらないだろうから、ここにテントを張るか夏小屋で泊まって、次の日には終わらせたいって。」
ここで宿泊もありか。マーリン7には立ち入らせるつもりもないし、出入口はオレか小ニムエ達が出入りするとき以外は開かないよう設定しているから変な事故も起きないか。しかし夜の時間の過ごし方は、考えておかないと。
「それで何人くらいが来るかわかった?あと、ソルとか、ヤダやネゲイの偉い人が来るとか来ないとか?。」
「ヤダからは、私たち二人とソル、それから前にもここに来てたネーロとスーラになりそう。ネーロもスーラも力持ちでこういう仕事にはよく呼ばれてる。」
最初に「虫」で村の観察し始めた頃、悪辣の汚名高いローマ皇帝みたいな名前の若い男がいるな、と感じたことは憶えている。その後、村の中での様子を見る限りは普通の青年だったが。
ダイアナが戻ってきて、三人の前に新しいハーブ茶を置いた。
「ネーロとスーラね。確か二人とも身体の大きな若いヤツだった気がする。」
「そうよ。よく憶えてるわね。」
αがインプラントに二人の写真を送ってくれていたが、この二人は名前の印象が強くて憶えていた。
「昔の知ってた名前に似てからね。それで憶えてたんだ。で、ネゲイからは?」
「ヒーチャンっていう親方と手伝いの職人が全部で五~六人。それから、ネゲイの偉い人でゴール様って方も来るみたい。」
「ゴール様か。どのくらい偉い人なの?。」
「偉い人は偉い人よ。領主様の次に偉いって聞いたけど、ソルより偉い人になったら私には順番なんかわからない。」
「そうか。じゃあ、ネゲイから、そのゴール様を入れて六~七人、ヤダからは五人、合わせて十二人か少し多いぐらいだね。」
オレは質問項目にもあった内容の回答を蠟板に書き留めようとして、ルーナが、飛びついてきた。
「何それマコト!。見たことない!。ねえ、それ文字!。私も書いてみたい!。でもマコトの字は、変な形ね。それも教えて!。」
本当に、予想のとおりだな。だが、ルーナもここの文字は知っているような言い方だ。
「ルーナ。これはオモチャじゃないし、街道補修の人たちが来る前の準備で必要なことを書こうとしてるだけだ。今は書くのはダメ。字も、オレが知ってる字と君たちの字は違うけど、両方憶えるのは大変じゃないか?。」
「字が違うって何?。どういうこと?。なんで違うの?。」
オレの蠟板を見たエンリも言った。
「ルーナ、マコトさんの字は、違ってるわね。」
「え?。意味がわからない?。字は、字でしょ?。」
これはどう説明すべきや?。エンリも、自分が知っている文字とオレの文字の形の違いに戸惑っている。彼女達にとっては、世界はヤダとその周辺だけでしかなかったことの、初めての実感かもしれない。
「私は遠いところから来た、と言っただろ?。そこじゃあしゃべり方も食べ物も、神様も違うんだ。だから文字も違ってる。」
ルーナも少しはわかったようだ。
「しゃべり方が違うってわからない。マコトはちょっと変わったしゃべり方してるけどちゃんとしゃべってる。けど、そのちょっと変わったしゃべり方がマコトのしゃべり方なの?。」
「ああ、オレのしゃべり方は、まだここのしゃべり方をちゃん覚えてないからちょっと変わった感じに聞こえるんだろうな。しゃべり方が違ってたら、文字も違うんだ。」
「ムラウーの人たちのしゃべり方もちょっと違うけど、そんな感じ?。」
「ムラウーの人たちのしゃべり方は聞いたことがないけど、それと同じようなことだろうな。
「色んなしゃべり方があるのね。もっと違うのもあるの?。」
「場所によって色々あるよ。例えば……」
オレは足下の石を拾い上げる。
「これはオレの元のしゃべり方では『イシ』だけど、ルーナはこれをどう呼ぶ?。」
「『地面の固いの』。でも、昨日なら『コーク』。」
翻訳が優秀で助かる。
「ほら、呼び方が違うだろ?。」
「でもいつも『イシ』なの?。そんなしゃべり方で神様に叱られない?。」
「神様に叱られるって?。」
意図せず、リストにあった別の質問事項に近づいているようだ。
「よくわからない。でも昨日と今日じゃ別の呼び方をしないと神様に叱られるって、小さい頃によく言われた。」
「私も言われました。神様に叱られて、大けがをすることもあるって。」
彼等の文法は、宗教的なものだったか。
「叱られると怪我をするの?。」
「本当は、叱られてるのとは違うんじゃないかと思ってます。でもこんな感じ。」
エンリは足下に転がっていた乾いた流木を拾い上げて言った。
「火」
風が吹いた。流木に、火が付いた。
自分が見たものが、信じられなかった。謎の惑星で、超能力?。或いは、魔法?。あの「手」もこれに近い何かか?。
「お姉ちゃんそれダメだって!。ダメだって言われてたでしょ?。神様に叱られちゃうよ!。」
エンリは、すぐに枝を振って火を消し、枝を足下に捨てた。
「多分、『叱られる』っていうのは、こんなこと、どこででもやったら火傷したり家が燃えちゃったりするから、っていう意味だと思ってます。」
「え?。でも叱られちゃうんだよ!。ダメだよ!。」
「ルーナちょっと待ってくれ。エンリ、今の話を詳しく聞きたい。」
「昨日のことは『火』って言います。今や、明日のことは『触ると熱い』とか、ほかの言い方をします。昨日のことはもう終わってるから大丈夫で、今のことに、昨日と同じことを言ってしまうとそれが出てきてしまうから、って思ってます。」
αよ、全部記録だぞ。
「それは教えてもらったこと?。それともエンリが考えてること?。」
「小さい時から『神様に叱られる』ってどういう意味だろうって、考えてきて自分で思ってることです。でも、さっきみたいに小枝を燃やして試したりして、多分合ってるんじゃないかと思ってます。それより、『叱られる』ことを知らないマコトさんは、これができないんですか?。」
「オレはできない。できるとも思ってなかったし、試したこともない。ルーナは?。」
「私も、できない。お姉ちゃんが、できることも知らなかった。でも、やっちゃダメっていうのは知ってる。お姉ちゃん、ダメなんだよ。」
ルーナは半泣きになっていた。これは何かの宗教的タブーに踏み込んでしまっている可能性もある。深入りせず、留めておくべきか。
「さっきエンリが枯れ枝を燃やしたのは、やっちゃいけけないことだったんだな?。」
「うん。」
「じゃあ、エンリは燃やしてない。オレも見てないし、ルーナもそんなこと憶えてない、ってことにしよう。」
「それもダメ。ウソも神様に叱られちゃう。」
「じゃあ、燃やしたし、見たし、憶えてるけど、しゃべらない、というのは?」
「それならいい。お姉ちゃんが今日ここでしたことは、誰もしゃべらない。」
秘密同盟は、発足した。街道補修の情報を聞くだけだったのに、とんでもなく重要な脱線をしている。
関連して、聞きたいことは幾らでも出てきた。どうやってできるようになったのか?。これができる人はもっといるのか?。できる人の性別や年齢は?。この力をうまく使いこなすための練習方法などはあるのか?。
今日の質問リストには五角形のことも入っていたが、神学の匂いがする話題は、今日はダメだ。もっと別の、穏やかな話題のなかで少しずつ聞き出すべきか。「無知なマコト・ナガキ・ヤムーグがタブーを知らずに質問してくる」ことを容認できる宗教人がいたらいいのに。
誰にもしゃべらない、の約束の後、街道補修の人員などを改めて聞き直し、ルーナのおかげで書けなかったメモを完成させ、まだ雰囲気が少し悪かったので甘いクッキーを出し、二人は滞在一時間弱で、一四〇〇M頃、ヤダに向けての帰途に就いた。
二人が帰ったあと屋外テーブルに戻って、ダイアナ経由でαにに話しかける。
「今日もすごい情報だったな。」
『しゃべらないで。約束したでしょ?。』
αはインプラントに文字を送ってきた。練習にもなるし、これで続けてみるか。まず、予想できていた方、街道補修から。全部で十二~三人が、明後日の昼頃から、少なくとも一泊二日でここへ来る。領主補佐のゴールも一緒に。
職人連中の観察は、技術水準を知るいい機会になる。最小限度なら「虫」と船体あちこちの光学センサーで見えているものを記録する。そのやりかたで、会話は拾えるかな?。
『小ニムエを手伝いに出してもいいかも。力も強いし。近くにいたら会話も拾えるわ。』
うん。ゴールの目的は俺と会って話をすることだろうから、オレは補修の手伝いには回れない。だが、「すぐそばで頑張っている人がいるのだから」と、実際に作業を手伝ったり軽い飲食を提供するのは不自然ではないはずで、小ニムエ達にはそれができる。ソルは、オレとゴールの会談に同席するだろう。村の方針や村にもたらされる変化に関わる話になるだろうから、村内の重要人物が一人は参加すべきだ。ではあの姉妹は?。元々は村内で羊の世話を仕事にしていた二人がオレに関わったのは、村と放牧地の間にオレが落ちてきたからで、仲介や交渉の資質があるわけではない。ソルがあの二人をオレの「手伝い」として認めたのは、二人の行動範囲の中にオレがいることと、ルーナの押し気な性格に加えて、「若い男には若い女をあてがっておけば」という安易な打算もあると思う。
実際、ルーナはまだ性格が子供だ。羊飼いとしても姉に教えられて修行中なのかもしれない。エンリは、もっと大人で思慮深く、学校のような教育機関がない村で育っているのに論理的な思考ができているように感じる。イヤこれはオレの偏見か?。ゴールやソルは、それなりに計算して物事を進める思慮深さもある。これはそれなりの家柄でそのように教育されてきたからか?。それとも人間はあのくらいの年齢になれば自ずとそうなるものなのか?。
火。エンリ達の夏小屋に初めて「虫」を入れたとき、火はもう点いていて、エンリはその番をしていた。あの時もエンリは今日のように言葉で着火したのか?。エンリの能力。「手」。エンリの脳波を測りながらあの力を発揮してもらったら……。
「マコト。あなたやっぱりインプラントの使い方に慣れてないわね。外に出す考えと自分の中に残す考えが入り交じって外に出てるわ。」
αが音声でオレに言った。
「ああ。練習にもなるとは思ったんだが。」
インプラント。使いこなすにはインプラントに読み取らせやすい順序で思考すべき。思考の順序。言葉の組み立て。文法。過去時制は無害。理解。解釈。複数の解釈ができる説明書。オレはインプラントを使いこなせていない。インプラントに読み取らせやすい文法。読み取りにくいのは思考順序が違うから。複数の解釈。思考の組み立て。順序。
オレはエンリが火を点けた枯れ枝を拾い上げる。火はあのあとすぐに消しているので、端が焦げているだけの枯れ枝だ。
「火」
風が吹いて、枯れ枝に、火が点いた。
「マコト!。何をどうやったの!。」
答えられなかった。視界が暗くなる。貧血か?。だが血圧が上がっている感じもする。鼻血が出そうだ。
オレは枯れ枝を燃えるもののない河原に投げ捨て、テーブルの上に上半身を預けて意識を失った。




