1-2 減速
冬眠から復帰します。
第一話である初めての投稿後に改めてエディタとブラウザの表示を見比べてみましたが、内容が拙いのは別として、見え方の印象がなんか違う。エディタの設定を研究しておきます。
減速開始前に目覚める。正確には、目覚めたから減速開始が近いのだろう。寝台兼冬眠タンクの中。タンクは居住区内ルームA、オレが使っている私室の中。この部屋にはドアで区切られた浴室兼洗面室兼トイレもある。船長たるオレは、一番過ごしやすそうな部屋を私室に選んでいる。他の乗員や乗客もいないし。
オレは再び思考を始めた。のだが?。前回のトイレと浴室はいつだった?。思考を再開してもまだ本稼働はしてない感じがする。多分本当に本稼働には至っていないのだと思う。人工冬眠は訓練中にも体験しているが、その時はタンクの中で数日しか過ごしてなかった。今回は船内時間で数年経っているはず。時間感覚は数時間寝ただけ、という感じだが……。
目が……開かない。声も試すが……口が開かない。喉の奥で声帯は震えたようだ。今の状況は?。ニムエの声が聞こえた。
「脳の活動を検知しました。マコト、おはようございます。まだ動こうとしないでください。血液循環のバランスなどが正常値に戻っていないため、感覚や運動能力が万全ではありません。三時間前にタンクの動作モードを冬眠から覚醒に切り替え、体調の回復を図っていました。このまましばらくお待ちください。なお、この覚醒は飛行計画に基づいたもので、事故などによる緊急覚醒ではありません。」
目覚めた時期が予定のとおりとは、いい感じだ。しかし少し経つと、寒くなってきた。皮膚感覚が戻ってきたのに、体温はまだ低いままなのか?。身震いし、息が荒くなる。どこかのセンサーがそれを感知した。
「回復中の体感温度異常を検知。タンク内の温度を調整します。」
身体全体が外から暖められている感覚。目は……開いた、が、明るさがわかるだけで視界はぼやけている。まだ機能回復の途中である上に、多分数年分の目ヤニも貯まっているのだろう感触もある。次いで声を……。
「いぅえ。」
「ニムエ」と呼びかけようとしたが、言語の発声は目蓋を開くよりもかなり高度な運動機能が必要であることを体感した。唇も乾いて貼り付いていて、うまく動かせない。少し、切れたかも。痛みも感じる。起き上がれるようになるまでは、もう少し待たねばならないか。
「身体各部の機能が正常化されるまで、まだおよそ一時間程度必要です。それまでは、あまり身体を動かさずにお待ちください。歩行可能レベルまで身体能力の回復が確認され、タンク内外の環境調整が完了すれば、タンクのハッチは開きます。」
まだ寝ているしかないようだ。
気付くと、タンクのハッチは開いていた。
「にーうえ。」
肺からの息は通ってるが、まだ唇が貼り付いた感じで舌もうまく動かせずに発声がおかしい。手探りで飲料水チューブ探し、この何年か口に咥えたままだったことを思い出した。口に少し水を含み、口腔内に水が浸み込む感覚を味わう。少し腕を動かすだけでも、数年ぶりで伸ばされた皮膚の表面が細かくひび割れる感覚があった。腕も細くなってるようだ。再度、口腔と唇に水を浸み込ませる。
「ニムエ、声が出せるようになった。」
「マコト、体調に関する数値は現在の船内重力設定でも歩行ができる範囲に戻っていますが、冬眠中の脂肪や筋肉の減少などのため、しばらくは身体を動かす感覚が以前とは異なっていると思われます。ゆっくり動くことを心がけてください。まず、入浴と着替えをお勧めします。」
ニムエの勧めに応じて、浴室に向かうためタンクから出ることにする。右手で手摺を掴んで体を起こそうとして、筋力が足りない?。左は……今は義肢が外されていて肘までしかない。再装着には服を脱がなければ。いつの間にか横で待機していた小ニムエが体を起こすのを補助してくれた。あちこちに取り付けられていたセンサーが剥がれ、チューブは抜けて巻き取られていく。船内服に包まれていて見えていないが、新た動いた部位の皮膚は、多分、皹だらけという感触だ。立ち上がると、足許がまだ……。
「ニムエ、今の船内重力の設定は?。」
「毎秒七メートル加速です。」
三分の二G強か。動くのは楽になるはずだが、体力回復は遅れる。目的地惑星への着陸も、大きな危険が確認されなければ予定に入っているが、その惑星での表面重力はまだ推測値でしかない。できるだけ筋力は付けておくべきだ。
「船内の一般区画は、オレの筋力の回復を見ながら徐々に……、あー、一.五Gまで上昇。」
「当面の環境制御をそのように設定しました。」
小ニムエの補助で立ち上がったオレはゆっくりと歩いてタンクの隣の浴室に入り、冬眠直前に着替えていた船内服を数年ぶりで脱いで全裸になる。これも体をうまく動かせず、情けないことに小ニムエの補助を受けた。今は、仕方ないか。
この船内服は、二十Cの速度で一二〇光年近くを移動したから少なくとも五年以上は脱がずに着ていたか?。人生の中で着替えない最長記録を更新したかな。オータン10-7から地球に移住した時はどうだったろう?。思い出せない。壁に視線を彷徨わせ、あった。時計だ。相対論的効果のおかげで本家の地球で測定しているGMTとは誤差があるだろうし、寝起きの頭で同時性についての考察も面倒だが、単純な計算では五年と三ヶ月ほど冬眠していたようだ。示されていた時刻は〇五三七Z。冬眠前のニムエへの指示は、「その時期が来たら朝七時前に起こしてくれ」というものだった。体力の個人差もあってすこしずれたが、平時の習慣だった起床〇六三〇Zに向けた体内時計の調整は、簡単に終わりそうでよかった。体内時計の調整は、「夜更かしと朝寝」の方向への調整の方が体に楽なので、この「予定より少し早い」起床もニムエの仕込みかもしれない。
入浴前のトイレは必要なかった。冬眠開始前に消化器内は水分を除いて空にしてあったし、循環器系は導尿管が付けられていたので、タンクを出た直後の今は出すものがなかった。ああ、腸内細菌環境の復元も、これからやらねばならない。排尿回数も極端に少なかったから、膀胱の中も、結石か結石のタネなどが発生していないか、確認しておきたい。タンク内では全身の状態について定期的にスキャンを受けているが、身体の姿勢が変わったことに応じた変化があるかもしれない。
脱いだ船内服は専用ハンガーに掛け、洗濯ロッカーの「船内服」と書かれた扉を開いて中に吊す、のだが、これも指先がうまくコントロールできない今は小ニムエに任せた。
ロッカーはこの後、船内服に縫い込まれている各種センサーのチェックを行った上で洗浄、乾燥させる。乾燥まで終えた船内服は、ロッカーの反対側にある取出口に送られる。標準で十着の船内服をローテーションで使用しているので、この服を再度着るのは、船内時間で十日後か。一着だけ、色合いが違う船内服になるかもしれないな。記念にとっておくのも、悪くないかも。
脱いだ船内服を小ニムエに預けたオレは、両足を床に記された足跡マークに合わせて立った。小ニムエは浴室の隅で待機している。前方の把手を右手で掴んで目を閉じる。本来は両手で持つべきものだが、左腕を外している今のオレの場合は片手だ。滅菌用フラッシュへのチャージ音が高まり、フラッシュが一回。目を閉じていても視界が一瞬赤くなる。目を開くと全身が真っ白になっている。体表の組織が灼かれて灰になっているのだ。空気にはタンパク質が燃えた匂いが漂っている。腕や胴体などは指で擦っても灰に擦られた跡が残るだけだったが、顔を触ってみると皮脂を含んだ灰が薄片になって剥がれ落ちた。次に温水を浴びて灰になった垢と皮脂を洗い流す。滅菌フラッシュが届いていない頭皮や耳の裏も念入りに洗う。本当に、体の表面が一新されてゆく感覚がある。水滴の一粒一粒が感じられるようだ。皮膚に水分が与えられたためか、体を動かすのが楽になった。「皮膚が伸びないので関節を曲げらない」という感覚はほとんど残ってない。左肘の義肢接続端面も一度洗い流されたので、既に用意されていた通常作業用義肢を小ニムエが取り付けてくれた。
関節も動かせるようになってきたので、時々ぎこちない動きを挟みながらも、身体表面の水滴は自分で拭き取る。数年ぶりの入浴でもあり、念のため、フラッシュと温水の行程をもう一度。改めて体を拭いて、タオルは洗濯ロッカーの「一般布類」投入孔へ入れた。
表面に水分を与えるだけでこんなにも身体機能は回復するのか。初めての感覚に喜びながら新しい船内服を着て浴室から出る。オレの補助をしてあちこちにオレから剥がれた皮膚の細片を付けたまま部屋の隅にいた小ニムエも、これから自身を温水洗浄するようだ。
目覚めて、体も動くようになって、次は、航法状況の確認と船内の総点検だ。イヤ、食事か?。消化器系も弱っているだろうから、数日間は流動食なんだろうな。
「マコト、目的地であるヤーラ359を、前方観測窓から直接視認できます。」
着替えの終わったオレは、ニムエの勧めに従って、操縦室ではなく、船首の観測室に行ってみた。そこで、初めて、ヤーラ359を肉眼で視認する。まだ光速の二十倍もの速度を維持しているので前方からの星の光は青方偏移しているはずだが、普通に白い光に見える。表面斥力場がフィルターとして働き、可視光レベルに圧縮された赤外線を見ているので、本当の星の色はわからない。ヤーラ359以外の星からの光は、マーリン7の軸線から少しでもずれた位置にある。スターボウ効果で位置と色調がずれてしまって、ランダムな光点としてヤーラ359周辺に広がって見える。
観測室内に固定された前方監視用の光学望遠鏡を覗いてみた。窓から眺めるのとは違って、「白い点が一つ」だけしか見えていない。望遠鏡内のレティクルが見えるよう調整すると、十字線の交点とヤーラ359は見事に重なって見えた。このレティクルは冬眠前にはオレの視力に合わせて調整していたはずなんだが、視力が変わったのか調整がずれたのか?。
「この距離での角度誤差は測定限界以下です。現在のコースを維持すれば、ヤーラ359の星系内へは確実に到達できる見込みです。」
「わかった。ありがとう。操縦室に戻るから、他の細かいところを教えてくれ。」
操縦室に戻って航法関係の数字を順次確認する。各値とも、正常値である緑色の表示。数字の横に、上下限と現在値の経過を示す小さなグラフも表示されている。幾つかののグラフを拡大表示する。
「ニムエ、船内時間で二年ほど前にコースの値がずれて、速度も何か変動しているみたいだけど何かあった?。」
「星間ガスの濃い領域で気流もあり、少し方向がずれて一時的にヤーラ359との方向誤差が大きくなりました。翼操作で姿勢を修正し、現在は正常化しています。」
ガスを通ったということは、地球とヤーラ359の間にガス流があったということ。ヤーラ359が目的地に選ばれるための評価対象項目には遊離酸素の存在確率もあったはずで、観測された遊離酸素の可能性がそのガス流に由来するものであった場合、星系に到着しても成果なしに帰還とかいう空疎な結果になりかねない。その点を尋ねる。
「ラムスクープの稼働記録によると、気流の主成分は水素でした。機構は目標選定にあたり、地球から一五光年離れたユノーグ植民地星系からヤーラを観測した記録も確認しており、この記録も地球からの観測と同等の数値を示しています。気流の方向がヤーラ、ユノーグ、地球を結ぶ平面に対しておよそ六四度の角度で流れていたこともあり、ヤーラ星系における遊離酸素存在の確率値は再評価不要と判断しています。」
「ヤーラは見えてるけど……イヤ、最終確認は星系に着いてからだな。」
光速の二十倍の速度で移動中であり、表面斥力場も展開中でそれを解除できない今、ヤーラに分光器を向けても意味のある結果は期待できない。新しい測定数字は見たいけど、待つしかなさそうだな。
「遊離酸素の濃度推定は星系到着後のチェックリストにも入っていますので、この件は優先報告事項のリストに加えておきます。」
時折、ポケットから取り出したチューブでレーションを吸いながら、時折、ニムエとの会話で各種数値の可否を確認しながら、船内総点検を行った。左腕は精密作業用のものに交換してある。ネジの開閉もできるし、指先からプローブを伸ばして通電検査も行えて便利だ。オレが冬眠している間は小ニムエがこの作業を単独で行っていたのだが、点検項目の中には小ニムエ一体では対処しにくい「離れた位置にある装置AとBの連携を確認する」というようなものもあり、未チェックの項目は積み上がっていた。それなら予備の小ニムエも起動させれば、と思ったが、機構の財産管理規則上、それ以外の手段がないと判断された場合を除き、小ニムエの複数起動は禁止されているらしい。理由のよくわからない規則だと思う。尚、目的地星系で周回を始めて以降は予備機の使用は可能だ。現地で人手が必要になる状況を想定しているのだろう。
航行中は予備機の使用不可、というのは船体の製造仕様と機構の財産規則の摺り合わせでのチェック漏れだ。複数の乗組員が乗務するという前提条件で設計された機体に乗り込む人間がオレ一人という状況に対して、手直しが必要な部分は多々あったはず。しかし多分、オレも承認した書類のどれかに書かれていたのだろうと思うが、失敗した。おかげで手間が増えた。このことについてニムエが言う。
「出発前、小ニムエとマコトが点検を行っている際に気づいていました。規則変更を機構に申請しようとしましたが、目的地変更と同様に機構の基本命令に反する事項であったため、申請機能を呼び出すことができませんでした。対応のため、小ニムエ単独で点検する場合の代替手順を作成し、マコトの冬眠中は代替手順で点検を行なっています。このため、正規のチェックリストは空白で残されています。」
「代替手順でチェックした場合、正規手順に比べて漏れてしまう点は?。」
「乗員の生命維持に関する優先度Aの項目については全て対処できています。船の運航に関する優先度Bの項目のうち、主操縦室と副操縦室の連携を取る部分は対処できていません。その他、操縦室と貨物室間の通信といった優先度Cの項目にも抜けがあります。」
ニムエは、オレが自分でも点検しながら「これは無理だろう」と感じていた項目を幾つか挙げた。
「代替手順と正規手順で、作業時間はどちらが早い?」
「多くは正規手順の方が早いですが、一部、代替手順の方が簡便となったものもあります。」
「正規手順の一部を、簡便であることが確認された手順で置き換えることはできる?。」
「船の目的地と同じく、ヤーラ359星系内で主星の周回軌道に入ったことが確認されるまで、この部分もロックされています。」
「じゃぁ、これも359に着くまで保留か。酸素の有無とか、保留事項が増えたなぁ。着いたら、思い出させてくれ。それと、今までの運用経験も加味して点検手順の改定案もまとめておいて。その案も内容が多かったらオレ一人でチェックでは一日では終わらないだろうけど。」
「保留事項のリストに加えておきます。」
覚醒から船内時間で二日が経過。減速開始までも船内時間で二日。ニムエがすぐにまとめ上げた点検手順の改定案は意外にシンプルなもので、実際に試してみたら納得できた。あと、「航行中の予備機」問題とあわせて、ヤーラ到着後、ロックが解除されたら船の運用プログラムを変えよう。忘れないよう、ニムエにも思いついた内容を伝えておく。
決められた点検作業の合間は訓練室で体を動かしているが、筋力の戻りはそれほどでもない。胃腸に優しい病人食のような食事を昨日の昼まで続けていたのも理由の一つだろう。星系到着までの日数が少ない中、五年もかけて減らしてしまった筋肉を鍛え直すため、船内服の上に船外作業用の圧力服を着ることを思いついた。船外用圧力服は突発的な減圧事故に備えて船内のあちこちのロッカーに乗客乗員の定員数の五割増しで備えられている。実際のところ今のマーリン7には過剰な数量なのだが、そうしなければ安全基準検査で不合格となってしまうので仕方がない。
朝食と洗顔その他朝の日課を終えて手近のロッカーに行って、あれ?開かない?。隣の。あれ?。十メートルほど離れた別のロッカーも、開かない?。
「ニムエ、船外作業用の圧力服のロッカーが開かないんだけど。確か昨日の点検では問題なかったよね。」
「エアロック区画の物を除き、船外用圧力服のロッカーは、減圧事故、点検、訓練以外では開きません。」
「なんで?。」
「船外用作業服を防弾服として着用した乗務員による叛乱があったために採択された保安規則の一つです。」
思い出した。マーリン7を乗員一名の独行船に改造するきっかけとなった事件だ。ニムエは条文を読み上げた。
「筋力の戻りが悪いようだから負荷がかかるようなものを着たらどうかと思ったんだけど。」
「その点でしたら問題ありません。昨晩の食事から、筋力量を増やすための栄養配分を行っています。またマコトのインプラントにも筋肉量を増やすよう指示を出しています。昨晩の就寝中に若干の筋肉量の増加を確認できましたので、今朝から船内重力を八メートルに強化しています。」
「わかった。この件についてはそのまま続けてくれ。」
オレは小ニムエを引き連れて今日の点検を始めることにした。
オレは操縦席で計器を見ている。正面モニタの中央からややずれてヤーラ359。ニムエが告げる。
「減速します。」
「やってくれ。」
横のモニタの中で、船の後方に長く伸びた推進斥力場の模式図が少し縮み、星間水素の抵抗で船は減速する。慣性中和機の最大出力は四百Gまで行けるが、安全率を考慮して三百Gの減速と設定されている。光速の二十倍の速度で巡航していたマーリン7が亜光速に減速するまでに必要な時間は船内基準で二三日。約三週間。そこまで減速したら星間水素の抵抗は相当に小さくなるので船体を前後逆に反転させ、ヤーラを背にした逆加速。これで星系内の適当な軌道に入れる予定。
この場に船長たるオレが同席してるのは、まあ、儀式だな。機能的には、不要だと思う。しかし自分で減速開始を許可したという記憶は残る。こういう記憶は、節目として重要だから実用上の意味はあるだろうと思う。
最近、色々あった船内の諸問題は、ほとんどが規則と現実の齟齬から来るもので、しかも船長に規則に干渉する権限がないものばかりだったから、船長という職の必要性に疑問を感じ始めている船長たるオレだ。規則上で船長にできることをやり尽くしたからできない案件だけ残ってる、ともいえるが。まあ、星系内を周回するようになればオレの判断でできることは大きく増える。あと約三週間。やるべきことは決められてるが、やりたいこと、のリストを整理しておこう。
進行方向に船尾を向けた逆噴射状態で、星系内に減速しながら進入した。ニムエが告げる。
「予定されていたヤーラ359への星系進入航行を終了しました。現在、推力は停止して自由落下中です。この状態で、ヤーラ359に対する本船の軌道要素測定に入ります。」
「OK。あと、表面斥力場を止めて電波観測に入れるまでどのくらいかかりそう?。」
「表面斥力場への負荷を計測中……支障ないようです。電波観測を始めますか?。」
「始めよう。標準手順のとおり、まずはパッシブから。準備できたヤツから順番に、使える全部のパッシブ観測機器をフル稼働だ。」
マーリン7は表面斥力場を停止させ、数年ぶりに使うスラスタで、テストも兼ねて姿勢を変え始めた。スラスタに機能不全があれば姿勢制禦は表面斥力場を再起動させることになるが、そうはならなかった。あわせてバラストポンプが動き始め、主機で推進中だった時には機体後部に置かれていた質量中心を、機体前半に移動させる。前面観測窓からの映像にヤーラ359が入ってきた。映像の中のヤーラ359はマーリン7の軸線中心を示すレティクルを僅かに逸れたまま通り過ぎ、中心に向かって螺旋を描き始める。
「船首はほぼヤーラ359の方向に向きました。船体軸線を中心とした回転を開始します。」
一時間で約二回転、として、船の船体軸線を中心に回転させるローリングを開始。質量中心を機体の前部に移しているので、当面は機首を常にヤーラ359に向けたままゆっくり回転することになる。機体前後と翼端の可視光観測系統で写真を撮りながらローリングが四回が完了するまで、二時間ほど待ち、その間に撮った写真を前後比較して船体姿勢を評価する。姿勢の揺動は、想定の範囲内で、回転を重ねるほどに小さくなっている。正常。姿勢も安定。これで、星系内からの一次探査のための船体機動は設定完了した。
当面はパッシブのみだが電波と可視光による全天観測も開始。これから数日間の観測結果を解析して、マーリン7の軌道要素を算出するのとあわせ、最終目的地である「遊離酸素を含んだ大気を持つ惑星」を探す。観測窓から見えるヤーラ359の視直径は約二十秒。ヤーラ359の直径が太陽と同程度なら、マーリンはヤーラから二AU程の距離にあり、ハビタブルゾーンの外縁附近だと計算できるが、ヤーラの直径も不明であるので確実なことは言えない。
三日後、ニムエはそれまでの観測結果をとりまとめた要約を報告してきた。
「我々はまだ現在の軌道で公転角にして二度弱しか進んでいないようですが、既に四つの移動天体候補が確認できました。仮に、発見順でA、B、C、Dと呼称します。」
適当な時間間隔で同じ方向を撮影し、背景に対して位置の変わった光点があれば、それは恒星系内を周回している惑星の可能性が高い。軌道が内側であるほど移動速度は大きくなって発見しやすくなり、惑星が大きいほど光点が目立って発見しやすくなる。ニムエは続ける。
「その中でA、B、Cは、本船の現在の軌道よりも内側を回っているようです。A、B、C、Dのヤーラ359からの距離は、内側から順にB、A、C、Dですが、AとCは近接しており、惑星と衛星であると推定されます。」
まだマーリン7の軌道はヤーラから二AU程度という推定値から精度はさほど上がってないが、それより内側なら、特に二番手とそれに近接のA、Cは、ハビタブルゾーンに入っている可能性が高い。Bは、内側過ぎるか?。
「分光解析とか望遠写真とかはどう?。」
「A、B、C、Dともに不完全ですが実施しています。」
ニムエはまずAの解析結果と写真を表示した。Aの姿は、半月のような形で、地球とよく似た、イヤ、地球よりも緑色の強い、青緑の海を持つ惑星だった。見えているのは円面積にして半分弱か。北極か南極かわからないが、白い円形部分もある。分光解析の結果は、大気中に遊離酸素と水蒸気あり、と。その他付随情報として「衛星の可能性:詳細はC参照」と記載されている。この距離からの粗い観測で衛星が確認できるというのは、結構大きな衛星だな。
「Cの情報は?。」
ニムエは表示をCに切り替える。
「これはまるで地球と月だな。すごい偶然。これは、AC系は、候補だな。」
「同意します。次にBです。」
Bは、大気らしいものがない岩の塊だった。主星に近い分、表面温度も昼間部分で摂氏三〇〇度を超えているようだ。仮に有用な鉱物資源があったとしても、採掘のためには耐熱仕様の無人機が必要で、何か特別な採掘物でなければコストが問題になる。最終的には分光観測して資源の可能性などは記録には残すが、当面は写真撮影による軌道要素の測定だけでいいだろう。
「Dを頼む。」
ニムエが示したDの情報は、いかにもなガスジャイアント。色味は少し違うが木星の写真を見ているようだった。ここは、軌道要素の測定のほか、もう少し分光解析をやって大気の主成分を調べておくか。水素補給源になるかもしれないし。ニムエにもそう伝える。
「第一優先はAだと思う。Aには電波観測も集中させてくれ。それと、保留事項にしてた『酸素の誤観測かも』の件は、これで終了だな。」
「第一優先がAであることに同意です。酸素のこと、肯定します。懸念が生じた経緯と現地観測で解決した経緯を記録に残しておきます。」
その記録はマーリン7の地球帰還後に評価分類され、運が良ければ懸念の原因となった気流に対して分類番号だけでなく「ナガキ・ヤムーグ宇宙気流」などと命名されるかもしれない。どのくらい時間がかかるかは見当付かないが。
「で、候補Aまで行くとして行程は?。」
「まだ本船の軌道速度の測定が完了していませんが、一Gで加速減速するとして、船内時間で二四時間以内に到達可能と推定しています。」
ニムエの言葉で移動の前に片付けておくべき事柄をもう一つ確認する。
「軌道速度というのは、ヤーラ周回軌道に入ったことを確認するまでは目的地の変更ができない件とも関係している?。」
「周回と、当該惑星までのコース設定の両方に関係しています。」
「では、最優先で、と言いたいが、まだ何日かかかるんだろう?。」
「現在の推定値では、ヤーラの周回軌道には入っているようです。しかし確定値ではないので宣言はできません。また確定値ではないので、当該惑星までのコース設定も困難です。」
「推定値のままでは制限の解除はできない?。と聞いてみて思ったけど、できないからそれ言っているんだよね。」
「残念ながらその通りです。確定値判定には公転角で更に三度程度進んでからの測定値が必要です。四日ほどお待ちください。」
居住惑星の候補として調査対象になりそうな青緑の星を見つけて数日、他にも惑星らしい光点はFまで見つかった。それぞれについて、公転周期や軌道半径などの推定値を算出する。あわせて、分光器を向け、望遠写真も撮影する。中でも地球発祥の生物が生存できる天然環境がありそうなのは、候補Aに絞られたと思っている。
マーリン7が星系に到着して仮に入っていた軌道は、ヤーラ359の主な惑星が周回する平均黄道面から十五度ほど立っていたらしい。確率は小さいが、黄道面に一致する軌道に入っていたら主星の反対側にある惑星などは探しにくかったはずなので、いい軌道に入れていた。
舞台設定を明らかにしておけないと目的地到着後の出来事の理由がわかない、と考えて到着前のことを書き始めましたが、やるべきことを書き出して順番に並べて、それぞれの手順を書き始めたら、自分でも驚くほど長くなりました。
地表に降りるまでは、まだしばらくかかります。